Shangri-La | angelique
  
 
Angelique
12Kingdom
OgreBattle
Mobile sutie Gundam
finalFantasy
Shortstory
 SPY
 笑顔のゆくえ
 LOLLI-POP CANDY

 
 剣とお嬢さん
 ワインとお嬢さん
 目覚めの君
 つぼみ
 先生
 いつの日か君のとなりに
 羽化
 嘘とお嬢さん
Illustrator
 
Attraction
 カトチャでGO!
 御覧あれ!


LOLLI-POP CANDY
<<Part:14>>


ヴィクトールは今日何度目かのため息をついていた。
このところ気がつくとため息をついている自分がいて、ヴィクトールは自身のことながら辟易していたのだ。
可憐な乙女のため息ならば絵にもなろうが、もう三十路に達した大男のため息などみっともないだけである。周囲の人間に怪訝に思われるのは、いくら精神のありように自信のあるヴィクトールといえども避けたい。
気をつけてはいたのだが…。
はっとしてすばやく視線を泳がせると、隣に座っているレイチェルは、やはりすばやく視線を教本に戻した。
…当然見られたし、聞かれた。
己の失態に、さらにため息をつきたい気分になる。教え子の前でくよくよした姿をさらし、それを見られ、さらに気を使われて目をそらされるなどと。
(なんとかしなくてはならん)
ヴィクトールは目を閉じて、眉間を指で揉んだ。レイチェルが逃げるようにして部屋を出ていくと、ヴィクトールははあああ、と声を伴うような息を吐き出した。
自分の教え方に問題があるのか、今日のレイチェルは成果が芳しくなかった。
当然だ。自分自身に問題を抱えている教官から何が学び取れるというのだろう。
ヴィクトール自身の問題のせいで、レイチェルの貴重な時間を無駄にしたも同然だった。
ヴィクトールは浅く椅子に腰掛け、長い足を投げ出して誰憚ることなく盛大にため息をついた。息を吐きだして、しばし弛緩する。
弛緩してぼんやりと天井を見上げ、ぼんやりしすぎて、気がつくと10分以上も弛緩し続けていた。
ヴィクトールは慌てて立ち上がった。いかん。この現状を打破しなくてはいかん!
眼光は鋭く宙を睨み、両足は自然に肩幅に開かれ、拳は岩をも粉砕できそうな程力を込めて握られている。少しでも心にやましいところがある者ならば、今の彼にはきっと近寄らないだろう。
ヴィクトールは腹に力を込めて、太い声で叫んだ。
「現状打破ー!!」
聞きようによっては何かの必殺技のように聞こえる力のある声は空気をびりっと震わせて、そして消えていった。
静かになった部屋に立つヴィクトールは、ふたたびため息をついた。
決意だけはすさまじい意志で行われるのだが、悲しいかな、ヴィクトールには現状を打破するだけの手だてがない。
拳を握ってひとり立つ彼の耳に、隣の部屋から腹を抱えて笑っているような声が聞こえてきた。
どうやらセイランに叫びを聞かれたようだった。

現状打破を旗印に邁進したいヴィクトールだが、彼の出来ることといったら学芸館で彼女の訪れを待つ以外にないのである。
気が鬱ぐ。あまりに気が滅入るので、少し歩こうと部屋を出た。
学芸館のポーチには光があふれていた。日なたに目がくらむ。ヴィクトールは白い手袋の手をかざし目を細めた。
(自分は嫌われているらしい)
ヴィクトールは知らぬうちにまたため息をついた。
アンジェリークとは、ヴィクトールはうまくやっていたのだ。
かつて彼女が十七歳だった頃は。
だが一体何の力が働いたのか、十七歳だった彼女は四つの女の子になってしまった。
アンジェリークは四つのアンジェリークとして、すべてをやり直している。十七年間で育ててきた思いも知識も、思い出さえ、彼女の中ではなかったこととして白紙に戻っているのだ。
彼女はヴィクトールを忘れてしまった。
忘れられてしまったのはどのメンツも同じ。各馬一斉に再スタートを切った、そんな感じなのだ。だが一方で、炎の守護聖などは目下アンジェリーク専属騎士を公言して憚らないほどの懐かれぶりなのだという(仮にも女王試験中に中立を旨とするはずの守護聖が「専属」をふれまわるのはいかがなものかと思うのだが)。
それに引き換え俺ときたら…
小さなアンジェリークに、怖くて近寄れないというのが本当のところだった。
それを思うだけで頬の肉がそげ落ちるような気分になる。
ヴィクトールは眉根をよせて足取りも重く道を行く。聖地の鮮やかな緑も小鳥のさえずりも彼の心を晴らしてはくれなかった。
彼女が縮んでしまってしばらく、聖地は上を下への大騒ぎだった、とヴィクトールは振り返る。その間、学芸館としても対応策を迫られ、個人的な感傷など問題にならなかった。女王試験が存続するか否かの瀬戸際だった。
ちいさなアンジェリークには会えなかった。ヴィクトールたち教官は忙殺されていた。
一時中断していた女王試験が引き続き行われると決定してしばらくも、アンジェリークのホームシック対策で守護聖サイドに一悶着あった。この時期もアンジェリークには会えなかった。その時間は長く感じられたが、彼女が環境の変化に慣れるまでは学習に手が回らないのも無理のないことだと自律していた。
だが、開けてみれば自称専属騎士(あくまで自称であるはずだ)なんて輩が飛ぶ鳥を落とす勢いだという。
苦笑いしつつ、学芸館のメンバーは皆遅れをとったなあ、などとあたりを見回してみれば、遅れをとっていたのは自分だけだった。
明らかに、彼女に避けられている。
どうしてだろう、と思っていたある日、道でばったりアンジェリークに出会った。
ヴィクトールは思わず息を飲んだものだった。
柔らかな午後の光の中、女の子はちょっと首をかしげるようにして立ち止まった。
つやつやの髪がさらりと肩にこぼれて光をはじく。無垢な瞳が真っ直ぐヴィクトールを見上げていた。その瞳はあの、十七歳のアンジェリークと同じ色をしていた。
小さくなってしまったというのは本当に本当の話だったのだな、と今さらながら思い知らされた。
不思議と懐かしいような気持ちになった。縮んだ云々という話よりも、例えばこの目の前にいる小さな女の子は実はアンジェリークの産んだ子だと聞かされた方がヴィクトールには納得できただろう(実際幼い頃からの友人の子供など見ると妙な既知感を覚えたりするものだ)。
だが間違いなくアンジェリーク本人だという。ヴィクトールは少々ぎこちないながら挨拶をした。小さな女の子にするのにふさわしい声だったか分からなかったが、
「おう」
と。
小さなアンジェリークは、ヴィクトールを見るなり泣き出したのだった。
(ああ)
ヴィクトールには鮮明に思い出すことができる、衝撃の一瞬。額を手で覆い、映像をかき消そうと頭を振ったが、消えてくれない。
あの泣き方は、脅えた子供の泣き方だ。驚いた、とかどこか痛い、とかの泣きかたではない。脅えて、怖くて泣く子の泣き方で、アンジェリークは潅木の中を縫うようにしてヴィクトールから「避難」していった。天敵である肉食動物から逃れようとする齧歯類のように。
ヴィクトールは追いかけることもできなかった。
(…仕方がない)
ゆっくり首を振って目を閉じる。
先程現状打破を誓ったばかりではないか。こんなふうに同じ場面に捕らわれて何度も傷つくのはあまりに進歩がない。
アンジェリークが自分を怖がっているのはもう、疑いようのない事実なのだから。
俺が怖いから学習に来ないのだ。原因がわかったのだから、そこを解決の糸口にしなくては。
そう自分を奮い立たせながら、ヴィクトールの手は己の額に走る醜い傷を自然になぞっていた。
(…この傷が怖いのだろうか)
どんな人間も、この傷を見れば顔色が変わる。人々の視線はヴィクトールの瞳を見るより先に傷跡に注がれた。
相手に悪気があるのではないと分かっていながらも、恐れと興味本位な視線を注がれる度、そんな相手と距離をおくようになった。
幼ければその傷に恐怖して当然だ。
以前の彼女は、俺の傷を見ても怖がらなかったのだがな…
そんな事を思い、また何度目かのため息をついていた。


「あ、アンジェ!いいトコロに来たわね!」
レイチェルがドアを開けると、レイチェルの視線のずっと下の方に栗色の髪が見えた。大きなノートを抱えたアンジェリークが、ぽやっとした笑顔を浮かべてレイチェルを見上げている。
「れーちぇる、こんにちは」
アンジェリークはそう言いながら、はずむように頭を下げた。
レイチェルはそんなアンジェリークの前にしゃがんで視線をあわせてやりながら、アンジェリークを真似て頭を下げてみせた。
「はいはい、こんにちはアンジェ」
アンジェリークは照れたように頬を染めて、レイチェルの肩にきゅっと張り付いた。実はレイチェルはこの瞬間がとても気に入っているのである。すべすべの髪をなでてやって、アンジェリークを抱き上げた。
「さ、入って。今日はセイラン様とティムカ様もいらしてるのよ」
「せいらんさま?てぃむかさま?」
レイチェルの腕の中でアンジェリークは鸚鵡返しにレイチェルに尋ねた。
本来ならば宇宙の覇権(だとレイチェルは理解している)を争うライバルとして対立するはずだったアンジェリークは、レイチェルをずいぶんと慕ってくれていた。レイチェルも、守護聖たちさえ霞む信頼を彼女から得ていると自負している。
(きっと妹がいたらこんな感じなんだろうな)
レイチェルはアンジェリークの柔らかな頬にほおずりして、部屋の中央、ティーテーブルに向かって座る二人の青年にアンジェリークを見せてやった。
アンジェリークはワタシに会いにきたのだから、このコを見る権利は当然ワタシにある訳だし、当然この教官といえどもワタシの許可なくアンジェリークを見る権利はナイ訳よね。
レイチェルの恩着せがましくも得意げな視線を感じながら、二人の教官はアンジェリークから御挨拶をされる許可を頂戴したのだった。

「本当に面白すぎるよ、彼。現状打破〜!なんて叫んでさ」
「笑っちゃ失礼ですよセイランさん。僕たち、ヴィクトールさんを何とかしてあげたくてこうして集まってるんでしょう?」
ティムカは、思い出し笑いをこらえもせず猫のように笑うセイランをたしなめた。とはいえ、ティムカの顔も明らかに笑いをこらえている。
学芸館のふたりのブレインははやくからヴィクトールの異変に気づいていた。
気づいていながら何の手も打たなかったのは、早い話利害が一致していたからだった。
ヴィクトールの意気消沈は、アンジェリークがヴィクトールの学習を一度も受けていないという事実に基づいていることを知りながら黙認し、あえて解決策を持とうとしなかったのである。理由は簡単、「ライバルは一人でも少ないほうがいい」。
小さなアンジェリークが精神教官に学んでいないらしい、と王立研究院サイドから軽いさぐりが入って、ようやく彼らは腰を上げることにしたのだ。
ライバルは一人でも少ないほうがいいとはいえ、学芸館の威信が落ちては他のライバル達に対して不利になるのではないか、という実に彼ら本位な考えから、「ヴィクトール救出計画」はスタートしようとしていたのである。
最近アンジェリークが気に入っている銘柄のオレンジジュースを持ってくると、レイチェルはアンジェリークの隣に腰掛けた。「ねえアンジェリーク。ちょっと質問してイイかな」
ストローを口にくわえ、オレンジジュースに挑もうとしていた四つの女の子はふと顔を上げた。
「れーちぇる、しつもんする?じゃあ、あんじぇ、ちゃんとこたえるよ!」
舌足らずな声でアンジェリークはきちんとお返事をする。
ちょっと驚いている二人の教官の視線を受けて、レイチェルはこっそり鼻を高くした。他の奴が相手ならアンジェリークは返事もせずにオレンジジュースに夢中になっているところだろうけど、ワタシが相手なら違うのよね。
鼻で笑いそうになるのを押さえて、レイチェルは続けた。
「ねえアンジェ、アンジェはれーちぇるのこと好き?」
「すき!」
間髪入れずアンジェリークは返事を返した。頬を桃色に染めて、瞳をきらきらさせて好き!と笑ってくれるこのコは本当にかわいらしい。レイチェルはきゃー、とアンジェリークを抱きしめた。
「ありがとアンジェ!ワタシもアンジェのこと大好きだよ!」
アンジェリークもレイチェルを真似てきゃー、と抱きついてくる。
「アンジェリーク、僕は?」
「セイラン様は黙っててください」
便乗しようとする詩人を、レイチェルはきっぱりと拒否した。セイランの秀でた額にしわが入るのをティムカは見逃さなかった。
「じゃあアンジェ、アンジェはヴィクトール様のことは?」
単刀直入がレイチェルのモットーである。それは小さなアンジェが相手でも同じなのだ。
レイチェルの言葉に、
「あ、あんじぇ…」
みるみるうちに眉を寄せた。

(自分は嫌われているらしい)
それを思うのは心臓が痛かった。
アンジェリークとは、ヴィクトールはうまくやっていた。かつては。
彼女が頬を赤くして微笑むのを見るのが好きだった。他の誰にも打ち明けられられずに堪えている苦しみをヴィクトールにだけ告げてくれたこともあった。
一度だけ繋いだ手は柔らかくて、どんなことがあっても自分が守ってやらなくてはと、ヴィクトールは密かに誓った。
内気だが、強い芯をもった少女にヴィクトールは癒される思いさえ抱いたのだ。
彼女はヴィクトールを忘れてしまった。
それ以来ヴィクトールの心は、どこかちいさな穴があいたようだった。
そこから空気がもれているような気がする。力が入らない。
自分はこんなに弱い男だったろうか。
髪を掻き上げて、ヴィクトールは庭園のベンチに腰掛ける。かつてはここで、あの栗色の髪をした少女と並んで座ったものだった。
ヴィクトールはまた底なしの暗い思考に落ちていこうとしている自分に気づいていた。だが、どうにもならない。
明るい色をした庭園の芝をぼんやり眺め、さわやかな風が通る木々の下、大男が背中を丸めてベンチに一人座っている。
そんな絵を思ってヴィクトールは力なく笑った。
自分はこんなに情けない男だったのか。どうして忘れていたんだろう…


「ヴィクトール様!こんなトコロにいたんですか!」
ずいぶん近くで名前を叫ばれるまで、ヴィクトールはレイチェルが傍に立っていることに気づかなかった。
気配に気づかないまま人にこれほど接近を許すなど、かつての自分には考えられなかったことだ。
そんな自分に焦りと戸惑いを抱きながら、ヴィクトールはレイチェルを見上げる。息を切らしたレイチェルの、気の強そうな菫の瞳がまっすぐ自分を見ているのが見えた。
そしてレイチェルに抱きかかえられたアンジェリークが見えて、ヴィクトールは思わす呼吸を止めた。
「な…」
「てっきり学芸館の部屋だと思って、あちこち探しちゃいましたよ!このコ、軽いけど、長い間抱っこして走るのって思ったよりハードだー」
レイチェルはヴィクトールの驚愕など気づかないようで、切れ切れの息の下笑って言う。
レイチェルの腕の中のアンジェリークは、彼女にしがみつくようにヴィクトールに背を向けている。なめらかな眉を顰めた小さな顔が、こちらを警戒しつつ向けられている。
ヴィクトールはその怯えた子供の顔の中に、かつてのアンジェリークの面影を探しだせてしまう自分を呪った。
やはりこの、自分を恐れている子供があのアンジェリークだということは紛れもない事実なのだ。
違う子だと思えたらどんなに楽だろう。白い手袋を拳に握って、ヴィクトールはふと目をそらした。
「…ヴィクトール様。このコがヴィクトール様の事を怖がってるってコト、自覚なさってますね、その様子だと?」
いくらか呼吸を落ち着けて、レイチェルは単刀直入にそんなことを言ってきた。
他者から念を押されるということは、ヴィクトールの誤解でも思い過ごしでもなく、それが事実であると確実な裏付けが今なされたということだ。判決を言い渡された気分だった。
「…ああ」
かすれた声がそれに答える。
ヴィクトールは咽喉がからからに乾いていることに初めて気がついた。
声に出してそれを認めさせられるのは、拷問に近い。だが、事実だ。
実際、レイチェルの腕の中で、ちいさなアンジェリークは笑顔を見せてはくれない。
アンジェリークは、自分を嫌っている。
ヴィクトールは体を屈め、膝の上に両肘をついた。

「じゃあ、どうしてこのコがこんなにヴィクトール様の事怖がってるか、わかります?」
「…見当はつくさ」
ヴィクトールは自嘲しレイチェルを見上げた。レイチェルを見上げると、嫌でも抱き上げられてるアンジェリークが見えた。
大きな瞳を縁取るやわらかそうな睫毛が震えている。とろけそうな頬も、桃色のちいさな唇も、青ざめて見えるのは自分のせいなのだ。この子が笑ったらさぞ可愛かろうと思いながらヴィクトールは息をついた。
「アンジェリークはこの傷が怖いんだろう。そうでなければ…俺という存在すべてに怯えているのかもしれない。どのみち、子供を怯えさせるような奴だ、ろくな男ではないという証明だな」
笑うしかないように思える。外見は変えることができない。自分の内からにじみ出る何かをアンジェリークが感じとっているのかもしれない。どうであれ、ヴィクトールにはどうすることもできないことだ。
(…仕方がないこと、なのか)
ヴィクトールは目を閉じて、眉間を揉む。どうしようもなく体が辛かった。このまま倒れて気を失ったりしたらきっと気持ちがいいだろうな、とくだらないことを思った。
だが、レイチェルは肩を落としているヴィクトールに向かって笑った。
声を出して笑ったのである。それは、沈痛な顔をしているヴィクトールをぎょっとさせるような明るい笑い声だった。
「違う違う、ちがうんですよヴィクトール様!アンジェリークはそんな高尚な理由でヒトみしりなんてしませんよ」
レイチェルのきゃらきゃらとした、年ごろの娘でなければ発声できない笑い声は、ヴィクトールを混乱させた。
何がおかしいのか理解できないまま、それでも「違う」という単語だけを聞き取っていた。
「…ちがう…?」
「さ、アンジェリーク。さっきお約束したコト、覚えてるよね?」
レイチェルは抱き上げていたアンジェリークの鼻先に小さなキスをすると、女の子をヴィクトールの前に下ろした。
アンジェリークは助けを求めるようにレイチェルを見上げ、ちらりと盗み見るようにヴィクトールを振り向いた。
振り向く髪が宙をそよぐ。細い細い髪は鳥の羽根のようにゆっくり宙を舞って、眉根をよせている小さな顔をふわりと包んだ。大きな瞳は潤んでいるように見えた。
「おい、レイチェル」
「ヴィクトール様。最近アンジェリークが学習に来ないからって、落ち込んでいましたね?」
「う、ああ」
ヴィクトールはレイチェルがこれから何をしようとしているのか、何を話そうとしているのかつかめないまま妙な返事を返した。レイチェルはにこりと笑って、傍らでスカートのすそを掴んでいる女の子の頭をぽんぽんと叩く。
「ヴィクトール様の行動を把握している教官ふたりの証言からわかったコトなんですけど。ヴィクトール様、落ち込むと必ずやる事があるでしょう?ひょっとしたら今日もそこに行くつもりだったんじゃないですか?」
「…落ち込むとやること…?」
ヴィクトールは混乱した頭をむりやり切り替えるようにしてレイチェルのいたずらっぽい瞳を見返した。
落ち込むとやること?今日もそこに行く?…行く…。
「あ」
「そう!聖地を警備している騎士隊のところで稽古つけるでしょう!」
レイチェルが正解!というように指を鳴らした。そうなのだ。聖地警護の為に配置されている騎士隊の宿舎に足をのばして稽古をつけるのが最近のヴィクトールの隠れた日課になっていたのだ。
どうやら戦いを司る炎の守護聖麾下の隊のようだが、あまりに平和な聖地の警備で腕の鈍っている彼らを、ヴィクトールのような軍属はどうにも見過ごすことができなかったのである。
鍛え直すという名目でここのところよく通っていたが、その実、体を動かすことで鬱ぐ気を払いたかったのだ。
(多少赤丸久上昇の炎の守護聖殿に対する八つ当たりもあったかもしれない)
「…では…、いや…まさか」
思い当たる節にばっちり思い当たっているヴィクトールを見て、レイチェルはさらににっこりと笑みを返した。
「アンジェリーク、それをどこかで見てたらしいんです。ヴィクトール様が大勢の騎士隊相手に稽古付けてるところなんて、ワタシだって想像するのコワイもんね。だから」
…ああ、そうだったのか。
ヴィクトールは肩の力がみるみる弛緩していくのがわかった。ぐったりと首をたらし、はあ、と息をついた。
稽古場はすさまじい気迫に満ちる。大の男同士が全力で剣の手合わせするとなれば、気迫を声に乗せて打ち据えるのは当然、下手すれば取っ組み合のような状態になるまで食らいついてくる相手もいる。
武術とはそうしたもので、訓練とはそうしたものなのだ。
だが、その場に身を置いている人間からすれば当然のことも、違う立場の人間から見たら異常な状態、と見るかもしれない。
普通でもそうなのに、ヴィクトールは日ごろの鬱憤を晴らしているような状態だった。それを何も知らない女の子が見たら?
ヴィクトールは目の前でもじもじしている女の子をそっと見た。
…怖がって、当然か。
「アンジェリークはそれが訓練だったって、わからなかったんじゃないかな。だからヴィクトール様が普段からコワイ人だと勘違いしてるんだって、ワタシたちは推理したワケ。その誤解を解いたから、こうして御挨拶に来たの。ね?アンジェ」
レイチェルはぽん、とアンジェリークの小さな背中を叩いた。
アンジェリークはそれに励まされるようにぎゅっと両手を胸の前で握り、一歩、ヴィクトールに近づいた。
ふと、アンジェリークと目が合う。
懐かしい、優しい色の瞳がそこにはあった。
以前とかわらない奇麗な色のまるい瞳が。
その瞳を、ヴィクトールは愛していた。
やわらかい視線の中にある強さを。包んでくれる優しさを。
(この子は、アンジェリークなんだな。本当に…)
小さな女の子はヴィクトールと視線を合わせたまま、何かを探るようにじっとしている。
ヴィクトールは小さな足で立っている女の子を今度こそ怖がらせないように、笑って見せた。
うまく笑えたかどうか分からなかった。ヴィクトールには分からなかった。
だが、アンジェリークはそれに安心したように、ぱあっと笑顔を見せたのだ。

ヴィクトールは目を見張った。
笑った。
アンジェリークは今までの青ざめた顔をかき消すかのように、頬をほんのり染めて、照れたように笑っている。
笑ってくれた。
「…こんにちは」
なんて柔らかそうな頬だろう。ヴィクトールは半ば放心して、舌足らずな声で挨拶してくるアンジェリークに返事を返していた。
何と返事をしたのかよくわからなかった。
「あのね…れーちぇるが、こわくないって。だからあんじぇ、泣いちゃったのごめんなさいって」
アンジェリークは握りしめていた両手をほどいて、こわごわ、ベンチに腰掛けたヴィクトールの膝に手の乗せてきた。
その感触にヴィクトールは息を飲まねばならなかった。
その手は本当に、あまりにも小さかった。
…ああ、こんな幼い子を怖がらせていたのか、俺は。
ヴィクトールはぎゅっと目を閉じた。
アンジェリークが自分を怖がっていたのは誤解だったとしても、その誤解を招くきっかけを作ったのは、自分なのだ。
アンジェリークに避けられていることに気づいたとき、すぐにこの子に会いに行けばよかったのだ。
勝手に気落ちして、訓練などに逃げたりしなければ、彼女は怯えずにすんだのだ。
幼い子に泣かれて、泣かれたことに怯えて、己が傷つくことに怯えていたのだ。
「謝らなくてはならないのは、俺の方だ。アンジェリーク…」
ヴィクトールは、軍服の膝におかれた小さな手に、自分の手袋の掌をそっと重ねてみた。アンジェリークは逃げなかった。
ヴィクトールを見上げて、恥ずかしそうに笑った。
手袋を通して感じられた感触は、幼い手の柔らかさ。
愛おしい子の優しい感触だった。

「…おじちゃん、お顔、どうしたの?ころんだの?」
アンジェリークがふと気づいたようにそう言った。
すっかりうちとけて、ふたりならんでベンチに座って暫くしてからのことだった。
ヴィクトールは人知れず、頭を鐘で殴られたような衝撃を覚えていた。
おじちゃん!!
ああ、十七歳の彼女とふたりでいたときでさえ歳の差を気にしない訳にはいかなかったというのに、この状態はまさに父親と娘!ヴィクトールは思わずこめかみを押さえた。当然、レイチェルは腹を抱えて笑っている。
ヴィクトールはおじちゃんのショックを努めて頭から排除し、心配そうに見上げてくるアンジェリークの手を取った。
「…いや、転んだわけじゃなくてな…昔、事故で」
そういうことにした。軍がどうこう言ってもアンジェリークにはわからないだろう。それよりも、アンジェリークが今、やっとその傷に気がついたということにヴィクトールは嬉しみを感じていた。
彼女は、やはり傷を怖がって自分を避けていたのではなかったのだ。
「いたい?あんじぇ、いたいのなくなるおまじない知ってるよ」
アンジェリークはそう言いながら、ベンチの上に立ち上がった。
こら、靴を履いたまま椅子の上に立ってはいかん、とヴィクトールが言いかけたとき、額に、やけにやわらかい感触が降りてきて、言葉を飲み込んだ。
「アンジェ!」
レイチェルが驚いて叫んでいる。
ヴィクトールは一瞬のことに目を瞬かせ、ベンチに立つ女の子を見た。
「おくすりのきすのおまじない。まだいたい?」
おくすりのきすのおまじない。
…お薬のキスのおまじない…
アンジェリークは青い瞳をきらきらさせながら、笑った。
ヴィクトールは一瞬、少しだけ気が遠くなりかけたが、
「…痛いのなんて、どこかに行ってしまったよ」
そう言って小さな女の子に笑いかけた。
今度はちゃんと笑えているだろうと思った。


PageTop
前へ  
   
Shangri-La | index Angelique | index