花霞のなかに、彼女はぺたりと座り込んでいる。 
							  細い指先を器用に動かして、何かを作っているようだ。 
							  少し離れたところから、オスカーは少女を眺めた。 
							  白い肌に儚げな微笑みを浮かべ、静かに佇んでいるような少女。こんな花のあふれる草原に一人にしておいたら、どこか遠くの国の秘密の入り口をそっと開けて、姿を消してしまいそうだ。 
							  思わず、声をかけた。 
							  「お嬢ちゃん」 
							  アンジェリークが、にこりと微笑んで顔をあげた。 
							  立ち上がって、こちらへ歩いてくる。細い足、細い腰、細い肩。 
							  「オスカーさま、手をかしてください」 
							  長い睫をゆっくりと瞬かせて、アンジェリークはオスカーを見上げる。 
							  小さな指先が、そっとオスカーの手に触れた。柄にもなく、オスカーの心臓が熱くなる。少女はそんなことには構わず、オスカーの骨張った長い指をとって、その手にあったものを指へ通していく。 
							  湿ったようなつめたい感触がして、見ると、中指に花で作った指輪がはめられていた。細い茎を器用に裂いて、そのなかに花弁をくぐらせた指輪。 
							  薄い花弁が、やわらかな光に輝いていた。 
							  驚いて少女を見る。アンジェリークはまた、小首をかしげるようにして笑うと、ぴったり、と言った。 
							  そうして、ふと視線を草原へ向ける。 
							   
							  初めて出会ったときから感じていた。 
							  彼女は時折、ここではないどこかを見つめている。 
							  本当はもっと別な場所にいて、彼女の影だけがここに映っているかのような。 
							  こうして、妖精のような少女から、花の指輪を受け取ることができた幸運な男は、本当はもっと別な場所にいるのではないだろうか。 
							  淡い青の瞳が、遥かな場所に向けられている。 
							  「お嬢ちゃん」 
							  華奢な肩に手をまわして呼ぶと、アンジェリークはそっと振りむいて微笑んだ。 
							  儚い。 
							  君は本当にここにいるのか? 
							  俺を見ているか? 
							  まわした腕に力を込めて引き寄せる。 
							  いつもゆっくりと瞬いている瞳が、おどろきで少し見開かれた。 
							  もう一方の手を少女の頬にすばやく添えて、盗むようにして唇を奪った。 
							  オスカーの唇に、少女の唇が触れる。やわらかな、ちいさな唇。 
							  唇から伝わってくる甘い痺れに、きつく目を閉じる。 
							  いつまでもこうしていたい、という突き上げるような欲望がオスカーを支配する。 
							  が、そっと、離れた。一瞬でもながく唇が触れているように、彼女を感じていられるように、ゆっくりと、なごり惜しんで唇を離す。 
							  恐がらせてしまったら、本当に消えてしまう気がしたから。 
							  少女は驚いたままの表情で、オスカーを見あげている。頬に添えた手には、少女の与えてくれた小さな花の指輪がゆれている。 
							  「…、すまない」 
							  オスカーはアンジェリークの頬にその頬を寄せて、ぎゅっと抱きしめた。 
							  「君が本当にここにいるのか…確かめたかったんだ」 
							  消えちまいそうだったから、と呟く。自分の耳に届いた己の声が、掠れ、こんなに弱々しい事に不甲斐なさを覚える。 
							  少女は黙ったまま、されるままになっていた。 
							  彼女がここにいない訳がない。 
だが、							  彼女の浮かべるやさしげな、それでいてどこか憂いを帯びた笑みを見ると、訳の分からない焦燥に駆られる。不安でたまらなくなる。 
							  本当に、ここにいるのだろうか? 
							  ちいさな、暖かな体がオスカーの両腕に閉じ込められている。 
							  オスカーの耳に、彼女の癖のない髪が触る感触がする。やわらかなシャボンの香り。アンジェリークの呼吸が聞こえる。 
							  オスカーは腕の中に少女を感じることができてようやく安堵した。 
							  そっと息をつき、栗色の髪に指を絡める。合わせていた頬を離して、そこにかすめるように唇で触れる。 
							  オスカーはただ、長い間そうして彼女を抱きしめていた。 
							   
							  「オスカー様…ちょっと、苦しいです」 
							  そうアンジェリークが笑いを含んだ声で囁いてきたのは、それからどれほどたった頃だろう。 
							  はっとして、少女を掻き抱いていた腕をゆるめた。 
							  オスカーの胸と腕に挟まれていた少女は、ようやく緩められた腕のなかでふう、と息をつき、オスカーを見上げてくすくすと笑った。 
							  少女の笑顔を見て、オスカーも思わず笑んだ。 
							  彼女は妖精や、天使のような、そんな不確かなものじゃない。 
							  君は君だ。ここに、俺の側にいる。 
							  当たり前なことにようやく確信を持つことができて、オスカーはもう一度、少女を抱きしめた。 
							   
							   
							  目を覚ますと、黒に近いワインレッドのカーテンの隙間から、目を刺すような痛烈な朝日が切り込んでいた。 
							  ゆるゆると起き上がり、骨張った手の平で顔を覆った。 
							  心臓の悲鳴。機械のようにただ動いている心臓が、夢から覚めた時だけ、生身の体を取り戻して訴えてくる。 
							  早く動きを止めろ、と。 
							  もう止めてしまえと。 
							  緩慢に続く生を、止めてしまえと。 
							  かつて少女から花の指輪が与えられた手は、痙攣するように震えている。 
							  あの頃、少女の背中にはすでに羽があったのだ。 
							  羽化したてのガラスのような華奢な羽が。 
							  だから、あんなに遠くを見つめていたのだ。 
							  そばにいたのに、抱きしめていたのに、いつもどこかに消えてしまいそうだったのは、彼女自身が、いつかここから消えてしまうことを知っていたからだ。 
							  捕まえても、抱き留めても、幻影のように腕から掻き消える。 
							  天に孵ってゆく少女を、地上に繋ぎ止めておくことは出来なかった。 
							  それでもオスカーが生きているのは、彼女の夢を見たいからだ。 
							  かつて感じることのできた少女のぬくもりを、腕に戻すために。 
							  儚げに微笑んでいた少女を夢の中で抱きしめるために。 
							  それだけの為に。 
							  「…まだ、泣けるんだな」 
							  他人事のように、そう呟いて、笑った。 
							  やさしい花の指輪を包むように拳を握り、片手でそれを包む。 
							  涙が、頬を伝って顎から落ちた。 
							  目を閉じれば、花園で微笑んでいる少女が見える。
 
							   
							   
							  							  							  							  							  							  							
  |