ゼフェルは足早に歩く。 
							  庭園の生け垣や、芝生に群れるように咲く薄い花弁の花達に目もくれず、彼が真直ぐ向かうのは女王候補寮。 
							  最近の彼の興味は、目下、栗色の髪をした女王候補アンジェリークにあった。 
							  華奢で楚々とした少女を初めて見たとき、ゼフェルは内心うんざりしたものだ。やたら涙腺のゆるそうな女が来やがった、と。 
							  彼女が育成に来たとき、ゼフェルは一発脅してやった。この程度で泣き出すようなら二度と自分の所に来るな、というつもりだった。 
							  だが、彼女は泣かなかった。 
							  正確には、泣き出すのを必死でこらえていた。青い瞳がみるみる潤んで、人形のようなちいさな顔は微かに震えていた。 
							  白い肌を上気させて、唇をきゅっと結んで、それでも、最後にはゼフェルに向かってにっこりと笑って見せた。 
							  不覚だった。かわいい、と思ってしまったのだ。ゼフェルの負けである。 
							  もう少し知りたい、と思った。 
							  だからゼフェルはアンジェリークのもとに向かっている。 
							  外へつれていこう。 
							  ゼフェルは御機嫌だったし、かなり勢いづいていた。 
							   
							  「ごめんなさい‥‥今日は、予定があって‥‥」 
							  アンジェリークが心底申し訳ないという顔でそう言ってきたとき、ゼフェルの御機嫌は最底辺のあたりまで急降下した。 
							  『アンジェリークは誘いにのらない』という噂は聞いていたのだが、なんとなく自分ならば大丈夫だろうと思っていただけに、拒否されれば腹がたった。 
							  「予定ってなんだよ。他の野郎とどっか行くのかよ?」 
							  こんなことを聞いて、そうだと言われれば立場がないのはゼフェルの方なのだが。 
							  アンジェリークは目を伏せて、か細い声で言う。 
							  「あの‥‥学習に行って、育成をしないと‥‥」 
							  ゼフェルは自分の感情が狂暴化してゆくのがわかった。それが、予定と言うほどの予定か?自分の誘いを断る程のものか? 
							  女王候補は試験のためにこの聖地に来ているのだから、彼女の予定は当然と言えば当然だ。極端なことを言えば、それ以外の行動などとる必要もないのだ。 
							  だが。 
							  「学習に育成だあ?どうせ、ヴィクトールとオスカーのトコだろ」 
							  アンジェリークは俯いて答えなかった。応とも否とも言わなかったが、言わない事自体、それが答えだと言っているようなものだ。 
							  綺麗な眉をよせて、唇を噤んでいる。ゼフェルは忌ま忌ましそうに舌打ちした。 
							  ヴィクトールとオスカー。どんなに誘っても決して誘いにのらないという噂の、内気で大人しいアンジェリークを外に連れ出すことができる、聖地にも数少ない男たちの名である。 
							  悔しかった。腹立たしい。気に入らない。もどかしい。 
							  ゼフェルの普段から引き起こしがちな子供っぽい感情たちが、あっという間に立ち上がって、彼の口をついて出てくる。 
							  独占欲も手伝って、ゼフェルの内面はとんでもないことになっていた。 
							  「あいつらなら、今日はいねえよ」 
							  ゼフェルの言葉に驚いたように少女が顔を上げる。 
							  何言ってんだ、俺。ゼフェルは毎度のことながら、制御のきかない難儀な感情が何を言い出すのかと、内心おろおろしている。 
							  主人の焦りなどおかまいなしに、唇は出任せを並べ立てた。 
							  「あいつら、迷いの森に行っちまってんだ。だから、おめーの相手なんか、してくれねぇぜ」 
							  青の瞳が見開かれた。迷いの森?と聞き咎めている。 
							  ああ、もう知るか。半ば捨て鉢になってゼフェルはアンジェリークの手を引いた。 
							  「だから、おめーの予定は変更なんだよ。ほら、わかったら来いよ」 
							  強引なことになったが、まあいいや。ゼフェルは自分の掌の中に、細くてやわらかな手を感じた瞬間に、自分のついた嘘のことなど、どうでもよくなってしまった。 
							   
							   
							  「おや、ヴィクトールじゃありませんか」 
							  後から穏やかな声で呼び止められて、ヴィクトールが立ち止まった。 
							  「ルヴァ様」 
							  声の主は地の守護聖、ルヴァである。ヴィクトールが黙礼すると、穏やかな声の、穏やかな顔立ちの青年は、ゆっくりとした足取りで近付いてきてヴィクトールの横に並んだ。 
							  「今日も良い天気ですねえ」とルヴァは笑って言った。そうですね、とヴィクトールが頷く。 
							  庭園のはずれである。 
							  これから聖地は長い昼休みの時間を迎える。庭園には、日溜まりの中で昼食を取ろうという人々がすでにちらほらとしていた。 
							  研究院の制服や宮殿に使えている者の顔も見える。ヴィクトールはといえば、森の湖まで足を延ばして昼休みをしようかと思っていたところをルヴァに声をかけられたのである。 
							  「これだけ良い天気だと、お仕事が辛いですよねえ。私も部屋にいるのが勿体無くなってしまって、外に出てきてしまいましたよー」 
							  冬眠明けのクマさんみたいですねーなどと言うルヴァは、肩に大きな荷物を担いでいる。そして、釣竿。 
							  ヴィクトールの視線に気付いたルヴァは、ああこれですかー、と照れ笑いを浮かべて言った。 
							  「釣道具一式なんですよー。私、今日の午後はちょっと失敬して釣りをしようと思ってるんです。でも論文も進めたいのでその荷物がやけにかさ張ってしまってですねー」 
							  「森の湖でですか。釣れますか?」 
							  ルヴァが釣りを趣味としていることは聞き及んでいたが、実際彼が釣りに興じようという所は見た事がない。ヴィクトールがそう尋ねると、ルヴァはうれしそうに、おや、と言った。どうやら、彼の地味な趣味に興味を示す守護聖がいなかったようである。 
							  「どうせ坊主なんですけど、たまーに釣れることもあるんですよー。それで一応魚拓セットも持ってきたんで、ちょっと重いですねー」 
							  「お持ちしましょうか」 
							  ヴィクトールがそう言うと、ルヴァは助かったというように顔をほころばせた。じゃあこれを、と手渡された巾着はヴィクトールにはそう重くない。 
							  「助かりましたよー。良ければご一緒にどうですかー?」 
							  ヴィクトールは軍服のポケットに読みかけの文庫を忍ばせていた。湖で読もうと思っていたのだが、ルヴァは人の良い笑顔で笑っているし、心底うれしそうに見えた。 
							  「面白そうですね。御一緒させていただきます」 
							   
							  レイチェルに言われたことがある。 
							  アナタ、なんでお誘いを片っ端から断わっちゃうの? 
							  アンジェリークは心底困っていた。 
							  今日は学習したかったのにな。 
							  ゼフェルに手を引かれながら、アンジェリークは思う。 
							  自分は試験を受けるために聖地に召喚されたのだから、本当はこんなことをしている場合ではないのに。 
							  アンジェリークがそう考えるのは義務や責任感ということではなく、それが当然だと思うからだ。食事のあとに歯を磨くのが義務や責任ではないのと同じである。そうしないと落ち着かないからだ。 
							  よく考えたら、ゼフェルとふたりで歩いているのも何か妙だと思う。漠然と不安を覚えずにはいられなかった。 
							  何でだろう。相手が嫌いだから、という訳では決してない。 
							  ただ、自分を女の子として扱ってくれる彼らの対応がくすぐったいのだ。そして、少し恐い。 
							  アンジェリークは今まで子供だったり生徒だったり娘だったり、アンジェリークという戸籍の上での一個人だったりしたことはあっても、女の子として扱われた経験はあまりなかったように思う。守護聖たちと一対一で向かい合うとき、彼らは往々にしてアンジェリークを女の子として扱った。結果アンジェリークは女の子という存在で彼らと接することに、幾らか罪悪感を覚えるのだ。 
							  何故だか解らない。自分は女王候補で、それ以外の何でもないつもりでここにいるのだが、彼らにはそうではないのだろうか。 
							  何かやましい事のように思えて、アンジェリークは誘いを断ってしまう。 
							  一言で言ってしまえば、アンジェリークはうぶなのだ。だが、本人はその言葉の存在を知っているかどうかも怪しい。 
							  それでも、どんな事例にも例外というのはあるものである。現にアンジェリークは二人の男性の誘いなら、何故か受けることができる。 
							  それがオスカーとヴィクトールだった。 
							  オスカーはやたら女の扱いに慣れていてアンジェリークが罪悪感を覚える隙を与えない。それに彼の行動や言葉はどこか技術的ですらあったから、アンジェリークは余計なことを考えずに洗礼された技術を披露してもらっているつもりで、彼について歩けばよかった。時々肩を抱かれたり、髪を指で梳かれたり、耳もとで囁かれたりして驚くことはあっても、彼は決してアンジェリークに不安感を覚えさせはしなかった。 
							  ヴィクトールは異性というより父性を感じさせる。 
							  彼の広い背中は、まだ幼かったころに大きく見えた父の背中のようで、それを追って歩くのはとても何かが慰められた。 
							  だが、今は、同い年のゼフェルに手を引かれている。アンジェリークの手をひいているくせに、少しも後ろを振り向こうとしない。 
							  それどころか口をきいてもくれなかった。銀のブーツのストライドが大きくて、アンジェリークは手を引かれたまま、ぱたぱたと走らなければならなかった。 
							  「あの、ゼ、フェル様」 
							  アンジェリークは上半身を引きずられるようにして、なんとか声をかける。 
							  方向からいって、湖のほうに向かって歩いているようなのだが。と、目の前にゼフェルの背中があって、アンジェリークは鼻をぶつけた。 
							  きん、と痛みが走る。 
							  ゼフェルが急に止まったのだ。 
							  「おや、ゼフェルに‥‥アンジェリークですか?」 
							  鼻を指先でさすりながらゼフェルの肩越しに聞こえた声は、ルヴァのものだ。そして、 
							  「アンジェリーク‥‥?」 
							  ヴィクトールの、驚きを含んだ声が聞こえた。 
							   
							  「ヴィクトール様」 
							  アンジェリークの心底困惑した声を聞いて、ゼフェルは、繋いでいた手に更に力を込めた。 
							  よく今まで生きてこれたなと思わせる細くてやわらかな彼女の手を離したくなかったし、動揺を隠しきれないでいる目の前の男に見せ付けてやりたいと思ったのだ。 
							  アンジェリークを連れ出せるのは、おめえだけじゃねえぞ、と。 
							   「‥‥よお、おっさん二人して主の退治かよ」 
							  ゼフェルは挑むように、口の端に笑みさえ浮かべてそう言ってみせた。 
							  「主なんて、私には無理ですけどねー。でもヴィクトールがいるなら、わかりませんねぇ」 
							  照れもせずに女王候補と手を繋いだままのゼフェルに小首をかしげたものの、ルヴァは最終的にはいつも通りの穏やかな声で答えた。 
							  「じゃあな、怪我すんなよ」 
							  ゼフェルはそのまま踵を返す。手を繋いだまま来た道を引き返す。視界の端に、瞬きもせず固まったまま少女を見送る三十路の男と、何かを訴えたげに何度も振り返る少女の栗色の髪が見えた。 
							  すこし、胸がいたむ。少女があの無骨で誠実な軍人を振り向くたびに、さらさらと音を立てるように髪がはねる。 
							  その回数と同じだけ、ゼフェルの肺は、苦い空気で満たされた。 
							   
							  「あの子たちがあんなに仲がいいなんて、ちっとも気が付きませんでしたねぇ」 
							  ルヴァは嬉しそうな驚きの声でそういいながら、小走りに去って行く若い二人を見送る。青春ですねえ、など笑んでつぶやくのが聞こえた。 
							  ヴィクトールはそっと、目を逸らす。 
							  じくり、と心臓がきしんだ。刃のつぶれたナイフがじんわりと胸を貫くような、重い痛みが胸にあった。 
							   
							  追いかけたかった。追いかけて、縋るような目で自分を見つめていた少女を奪い取ってしまいたかった。 
							  そんな権利は、自分にはない。彼女を拘束する権利など、自分は持っていない。 
							  わかっていながら、彼女の小さな手を独占していた少年に何かを怒鳴りつけたいような衝動が沸き上がってくる。 
							  少女の、ちいさく揺れた瞳が目裏に焼き付いている。 
							  ‥‥駄目だ。 
							  ヴィクトールは小さく息を付いた。 
							  きっと一日中、彼女のことを思って空回りするのだ。今何をしているのだろうと気になって、思春期の少年のように苛々とするに違いない。大の男が不甲斐無いとわかっていながら制御できない。そして制御できない自分に対しても苛々するだろうこともわかっていた。 
							  部屋に帰って眠ってしまいたい。 
							  こんな状態で、誰か他の人間と一緒にいることがたまらなく苦痛に思える。 
							  ルヴァ様には申し訳ないが、今日は失礼させてもらおうか‥‥ 
							  そんなことを溜息まじりに思ったとき、急に視界が開け、目の前に光を弾く青い湖があらわれた。 
							  「さあ、今日はどのポイントにしましょうかねー。誰かと釣りをするのは、実は初めてなんですよー。本当に楽しみですねー」 
							  穏やかな声の守護聖が、声に喜びをのせてそう言った。 
							  ‥‥仕方ないか‥‥ 
							  ヴィクトールはゆっくりと息を吐き出した。 
							   
							  ルヴァがしゃがみ込んでうきうきとヴィクトールのための釣り竿を選び、針を選び、餌を落ち葉にわけているあいだ、ヴィクトールは気がつくと半ばぼんやりと水面を見続けていた。 
							  いかん。 
							  不振に思われない程度に、ゆっくりと首を振った。きつく目を閉じて、頭にくり返し浮かぶ映像を追い払う。 
							  少年に手を引かれながら、何度も何度も振り返る少女の瞳。 
							  アンジェリーク‥‥ 
							  彼女の縋るような瞳が自分に向けられたように感じたのは、自分に都合のいい解釈だったのだろうか。 
							  こんなに想い苦しむのなら、やはりあのとき行動に出ればよかったのか。彼女の手を我が物顔で握りしめていたゼフェルから、アンジェリークを引き剥がしてしまえばよかったのか。 
							  そんなことができるはずがない。 
							  自分は彼女にとって教官でしかない。歳も離れている。さらに、自分は単なる軍人で、相手は守護聖、彼女は女王候補だ。 
							  何度同じ事を自問自答しているのだろう。もう十分なほどわかりきっているのに。 
							  そんなことができるはずもない。 
							  わかっている。それでも。 
							  出来ないとわかっていることを思い描いて、それに苦しむことのなんと不毛なことか。 
							  ルヴァが向こう側の岸を指差しながら、何かを喋っているが見える。何のことだかさっぱり分からなかったが、ヴィクトールはそれにうなずきを返していた。 
							  外から見れば、ヴィクトールは普段と変わらない態度に見えるのだろうか。ルヴァは特に訝しむこともなく指差した方へ荷物をもって移動していった。 
							  きらきらと光を弾く湖面を見渡して、絞り出すように息をついた。肺に沈澱している澱を吐き出してしまいたかったが、それが不可能であることをヴィクトールは経験的に知っている。 
							  ルヴァから借りた釣り竿を手にとって腰を下ろし、水面に糸を垂れた。 
							  水面に小さな波紋がとけてゆくのをぼんやりと目で追った。 
							   
							   
							  「なんだ、妙な組み合わせだな」 
							  その凛とした声を聞いたのは、ヴィクトールが水面に糸を垂れてしばらくのことだった。 
							  顔をあげた視界には、マントを颯爽と翻した白い騎士が立っている。 
							  燃え上がる焔のような髪と薄い色の瞳が印象的な、炎の守護聖。 
							  「オスカー様」 
							  今一番遭いたくない人物だった。 
							  だが、ともすれば暗い穴に落ちていこうとするヴィクトールの意識も、さすがに彼の前で弱みを見せるような真似はしなかった。 
							  踏みとどまるようにして平常心を呼び起こす。オスカーという存在は、ヴィクトールにとって少なからず鎮静剤であり、起爆剤なのだ。 
							  腕を組んで立っているオスカーはヴィクトールを見下ろして言った。 
							  「考えてみれば、釣りなんて退屈な嗜好を持っていそうなのはルヴァとお前くらいなものか。聖地で老後の生き甲斐を発見できた様子だな、教官殿?」 
							  オスカーの台詞はいつものようにどこかからかうような響きがあった。彼の誠実な言葉を聞くことができる相手は限られている。 
							  女王陛下と守護聖首座、そしてひとりの女王候補。 
							  アンジェリーク。 
							  何度も振り返る、栗色の髪。 
							  「‥‥釣りをするのは初めてなんですが、なかなかいいですよ」 
							  ヴィクトールは意識して笑顔を浮かべ、それだけ言うと水面に視線を戻した。鮮やかな色の浮子が風に揺れるたび、つんつんと動いているのが見えた。 
							  オスカーは同じ少女へ向けて、同じ想いを抱いている好敵手である。同時に、同じ思いを忍ぶ「戦友」でもあった。 
							  職業柄、ヴィクトールは決して上位階級の人間に対して馴れ合った態度はとらないが、戦友となれば話は別だ。 
							  お互い、警戒も強い分、遠慮なくものを話すようになっていた。 
							  いつもなら冗談めかして軽く皮肉をお返しするヴィクトールだが、オスカーのようにいつも自信にあふれている男にそれをするには今の感情はやはり不安定すぎる。 
							  少し拍子抜けしたように、オスカーは両腕を広げて軽く肩を上げてみせた。 
							  「隠居後の予行練習というよりは、もう隠居しちまってるみたいだぜ」 
							  「俺は年寄りですよ」 
							  ヴィクトールはそう言って曖昧に笑った。 
							   
							  「ヴィクトール、調子はいかがですかー」 
							  気がつくと、ルヴァがすぐ側でにこにこと笑っている。どうやら湖の向こう側から、ヴィクトールの釣りの様子を見にきてくれたようだ。 
							  「恥ずかしながらまだ、一匹も」 
							  ヴィクトールがそういうと、 
							  「よかったなルヴァ、坊主仲間だ」 
							  オスカーが笑った。ルヴァは別に気分を害した様子もなく、あんまり嬉しくない仲間ですねーと微笑んでいる。 
							  「でもこのポイントには、主がいるはずなんですよ。私は無理でしたが、ヴィクトールなら釣り上げられると思うんです。頑張ってくださいねー」 
							  「ヌシ? 」 
							  腕を組んだままオスカーがルヴァに問う。ルヴァは、オスカーが関心を持ったのを嬉しそうに答えた。 
							  「ここにはこーれくらいの大きな湖の主がいるんですよー」 
							  ルヴァは両腕をまっすぐ横に伸ばす。 
							  「以前私も釣り上げたことがあるんですけど、糸を切られた上にお手製の棹を流されちゃいましてねー。その上、飛沫で頭からびしょぬれになってしまったんですよー」 
							  「そんな大物がいるのか?逃がした魚はなんとか、って奴だろう」 
							  オスカーは例のからかうような口調でルヴァを見た。だがルヴァは大真面目な顔をして首を横にふる。 
							  「証拠でしたら釣り上げた瞬間を録画したものがあるんです。釣り竿を折られた後の瞬間も撮られてるので、内緒にしてたんですけどねー」 
							  ルヴァは恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。 
							  「あー。もしよろしければオスカー、あなたも挑戦しませんか?釣り棹ならまだまだあるんですよー」 
							   
							  「まさに老後にこそ相応しい趣味だ」 
							  結局、ヴィクトールの横に釣り竿を挿しているオスカーだった。片膝を立てて、その上に腕をのせる姿勢になってからもう一時間が過ぎようとしていた。青いマントが芝の上にふわりと拡がっている。 
							  「こんな姿をレディたちに見られたら見舞いの行列ができちまうぜ」 
							  釣り竿はうんともすんともいわなかった。オスカーは相当飽きているらしい。 
							  「それに良く考えたら、この湖で釣りは禁止じゃなかったか。ジュリアス様に何度か絞られているはずだぞ、ルヴァの奴」 
							  「もうオスカー様もりっぱな共犯者ですよ」 
							  「俺を巻き込んで口を閉じさせようってとこか。謀ったな」 
							  そういって口の端でオスカーは笑う。ルヴァといえば、また向こう岸にもどって糸をたれている。膝の上に古い装丁の本が載っているのが見えた。 
							  論文編集と並行してできるスポーツなんてのは坊主専門の釣りぐらいだ、と笑ってオスカーは仰向けに寝転んだ。 
							  「俺にはとても理解できんな。餌につられた間抜けな魚が針にひっかかってくれるのをただ座って待つだけ、なんてのが面白いとはな」 
							  「オスカー様には『釣る』より『狩る』方が似合っていますよ」 
							  ヴィクトールは苦笑して答える。 
							  「逃げる獲物を追いかけて、最後の最後まで追い詰めて、撃ちとる方が」 
							  ヴィクトールの言葉に、オスカーはくつくつと笑った。 
							  「相手が熊や狼ならそれもいいかも知れないが」 
							  オスカーは咽の奥で笑いながら、 
							  「俺が捕まえたいと思っている獲物は、たおやかで華奢で、内気な仔鹿なんでね」 
							  ぼんやりと浮子を眺めていたヴィクトールの瞳に強い光が宿るのを見て取り、オスカーは満足そうに目を細めた。 
							  「下手に追い詰めて傷つけたくない。まあ、怖がらせないようにゆっくり罠をしかけていくさ。一度捕まったら逃れられない恋の罠を、な」 
							  オスカーが何の話をしているのか、もはや明白だった。ヴィクトールはゆっくり顔を上げて、隣に座っている青年を見た。 
							  オスカーはその精悍な顔に薄い笑みを浮かべていた。だが瞳は挑むような色をたたえてヴィクトールを見据えている。 
							  ヴィクトールは思わず目を逸らした。彼は力に溢れている。オスカーならば、何度も振り返る少女を奪い取って抱き締めただろうか。 
							  きっと、いや、迷うことなくそうしただろう。ヴィクトールは小さく息を吐いた。 
							  何の反応も返さないヴィクトールに、オスカーは心底つまらない、と言うように伸びをした。 
							  「なんだ、覇気がないようだなヴィクトール。追い詰め甲斐のない」 
							  「‥‥熊や狼というのは、俺のことですか」 
							  思い巡ってヴィクトールは思わず苦笑する。 
							  「他に誰がいるんだ。生憎、熊ほどガタイのいい奴は聖地にお前以外いないだろう」 
							  オスカーはにやりと笑い、そうして仰向けに寝転んだ。 
							  「障害物は追い詰めて撃沈するに限る」 
							  オスカーの言い分には、苦笑するしかない。 
							  ヴィクトールはオスカーから釣り糸に視線を戻し、しばらくじっとそれを見つめて、やっと気がついた。 
							  ‥‥ひょっとして、俺は今、励まされたのだろうか? 
							   
							  「敵に塩を贈るのは、オスカー様の流儀ですか」 
							  ヴィクトールは、頭の後ろで腕を組み寝転んでいる青年に視線を向けた。オスカーはその瞳をすこし細めてヴィクトールを見返している。 
							  オスカーは何も言わなかった。 
							   
							   
							  							  							   
							 
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