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さあて、誰もいないかな。 
金波宮の一角、今は閉ざされている後宮へ繋がる中庭の木陰に、陽子はごろりと寝転んだ。官服の背中に、ひんやりと心地好い芝の感触がする。 
陽子はおもいきり腕を伸ばし、足を伸ばした。はぁ、と息をついて、さらにもうひと伸び。体中の筋という筋が凝り固まっているような気がして、仰向けの背がそるほど伸びをした。 
 
手足を投げ出すように寝転んで、しばし弛緩する。 
…いい天気だなあ。 
片付けても片付けてもつきる事のない書類の山を片付けて片付けて、それでもまだまだざくざくと問題がやってくる。くるくるまわる車軸の中で走るネズミみたいに、走っても走っても前に進まない焦燥感がじわりと胸を押す。 
それでも、こうやって進んでいくしかないのだろう。 
仲間を頼りに。自分にできることを懸命に。 
寝転んだまま手を日にかざす。梅の季節は過ぎ、光に力が増してきたように思う。 
宮殿の冷えた空気の中で筆と書面を相手に格闘している間に、冬が少し遠ざかったようだった。光にかざした己の手が、あたたかな光を受け止めている。 
 
「班渠、ちょっと出てきてくれないかな」 
陽子は己の影に隠遁している使令の名を呼んだ。 
声なき声で、返答がある。 
___王宮で姿を現すことは憚られます。ご用件を。 
その声は陽子にしか聞こえない。 
景麒は主の身を案じ、必ず使令をつけるようにしていた。まだ落ち着いたとは言いがたい王宮で、不貞の輩が王に徒なすことを恐れての配慮だった。 
「姿を見せてくれないと頼めない。誰もいないし大丈夫だよ」 
陽子が笑ってそう言うと、音もなく、芝の地面を透り抜けるようにして班渠が表れた。大人しく座る姿は狼のようにも見えるが、陽子の知る狼よりも、確実に数倍は大きい。 
陽子はこの見事な毛並みを持った使令が好きだった。 
景麒が陽子につける使令は冗祐と班渠であることが多く、慣れているからというのもあるが、ともすると主である景麒をからかって楽しんでいる風のたたずまいが好ましかったからというのもある。 
「___何か」 
陽子は寝転んだまま立て肘をついて、自分のすぐ傍を指し示した。 
「悪い、班渠。枕になってくれない?」 
 
班渠は少し間をおいて、陽子が指さしたあたりで四肢を折る。 
陽子は礼を言って、その長い毛並みの腹に背中を預けた。 
班渠にもたれ、もう一度伸びをして、はぁぁと息をついた。 
「やっぱりいい気持ち」 
「それはようございました」 
低くすました声音で、班渠が答える。 
「使令だってたまにはお日様にあたらないと気が滅入るだろ?いつも地面に潜ってて、身体が冷えたりしない?」 
この問いに返答はなく、班渠はただ喉でくつくつと低く笑う。 
片手で班渠の首のあたりをなでてやる。その艶やかな毛並みは、見た目よりも手に固かった。どんな手入れをしているのか、獣の匂いもない。何をするともなく班渠の毛並みをなでつけては逆立てて、またそれをなでつける。班渠は特に構う様子もなく、首を前に向けていた。 
「綺麗な毛並み」 
「恐れ入ります」 
「この首のあたり、気持ちよくない?犬とかだと喜ぶよね」 
「犬ではございませんので」 
そんな使令にくすくすと笑い、陽子は身を起こした。班渠の正面に移動すると、思い切って子供の胴ほどもあるしなやかな首に抱きついてみる。 
「主上」 
咎めの声音だったが、結局、班渠は大人しくされるままになった。 
あちらでは、動物は手を伸ばせば逃げるものだった。麒麟との契約でそうしているに過ぎないとしても、手を伸ばして抵抗してこない生き物の存在が陽子には嬉しい。 
ひんやりと冷たい毛並みに頬をよせてじっとしていると、班渠の体から熱がゆっくり伝わってくる。なめらかな首をそっと撫でてやりながら、辺りの音を油断なく拾う長い耳に手を伸ばすと、耳は陽子の指から逃げるように動いた。 
犬とよく似た動きをするのが面白くて、ちょっと触れてはうるさそうにぷるぷると動く耳にじゃれてみる。 
「こどものような事をなさる」 
呆れたような声でそう言ってくる班渠の頬を両手で包み、その瞳をじっと覗き込んだ。複雑な色を織る金の瞳に、猫のような鋭い虹彩が見える。 
きれいな目、とつぶやいて、そのまま鼻面に頬を寄せる。班渠がそっと目を閉じたので、そんなに不快には思っていないのかなと陽子は思う。 
一抱えもある班渠の頭を抱いて、陽子も目を閉じた。 
 
「班渠にはいつも一緒にいるのに、あんまり触った事なかったね」 
もったいない事をした、と顎の下をくすぐりながら陽子がつぶやくと、 
「使令は使役されるもの。神籍に身を置かれる尊き方が触れるべきではありません」 
目を閉じたまま、班渠が答える。 
前肢を持ち上げて肉球があると喜んだり、鋭い爪をいじって危険だと怒られたり、口を開けさせて牙の並びを見てみたり、優美とも言える長毛の尾に柔らかく払われたりして散々班渠の身体を検分した末に、今や陽子は伏せた班渠の前肢を枕にして、班渠の頭を庇にするように寝転んでいた。 
仰向いて両腕を掲げると、班渠の顔が応えて降りてくる。その顔にやんわりと腕をまわしてくすくすと笑った。 
「このような姿を台輔に見られたら、間違いなく私はお叱りを受けます」 
班渠の、とは言いながらあまり気にしていないふうの物言いが可笑しくて陽子はさらに吹き出した。班渠の顎の裏に頬を埋めると、班渠の息遣いがかすかに耳に届く。これだけ大きな身体をしていながら、その呼吸はとても深く静かだ。引き寄せられるまま首を伏せる班渠の重みが心地好かった。 
「やきもち焼くかもね、景麒。私の使令にー!って」 
「さて、どうでしょう」 
くつくつと喉で笑う使令を不思議に思いながら身体を起こすと、ふと陽子の頬に班渠が鼻面をすり寄せてきた。 
ずっと陽子からじゃれていて、一度も班渠からはすり寄ってきたりしなかったのに。頬から耳元、首筋になめらかな毛並みの頬が柔らかくこすりつけられ、ちょっと驚きながらも、くすぐったさにくすくすと声が漏れた。大きな身体が、力を加減してそっと触れてくる感覚。 
「こら、班渠。どうした急に」 
心地好いくすぐったさに身をよじりながら陽子も応戦して班渠の首筋をわしゃわしゃと撫でてやると、 
「___台輔がいらっしゃいます」 
陽子の耳元に頬を寄せたまま、低く班渠が告げた。 
え、と顔を向けると、芝の地面の向うには何も見えない。 
それでもなんとなく後ろめたくなって、あわてて陽子は居住まいを正した。 
 
その一瞬の隙に、陽子の唇に班渠のそれが触れた。 
「は」 
瞠目する陽子を面白そうに見やって、班渠は金色の目を笑うように細めると、そのまま地面に溶けていった。 
去り際に、陽子の口元をぺろりと舐めて。 
 
呆然として芝に座り込む陽子は背後に人の気配を感じ、慌てて体勢を立て直す。 
やはりそれは己の半身、景麒だった。 
「…主上、今」 
「けっけけ景麒!よ、よくここが解ったな」 
春の日差しに金の鬣が照らされて、それが光の糸のように肩に流されている。神々しい立ち姿の青年は、何か信じられないものを見て、しかしそれを信じることを頑なに拒否したいような、激しく追及したいような、奇妙な顔をして固まっている。 
「…いま、班渠が」 
「ああうん!班渠とひなたぼっこをな!してた!うん!」 
陽子は自分でも理解できないまま、とにかくこの麒麟には何も知らせないようにした方がいいと結論を弾き出した。 
景麒の背中をぱんぱんと叩いて、歩みを促す。 
景麒は、促されるままふらふらと主について歩く。 
陽子も何故か顔が紅くなるのを止められなかった。 
陽子の影の中で、班渠がくつくつと笑うのが、聞こえた。 
								 
								
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