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このところ、どうも、何か変だ。 
抜けるように白い肌の男は書類の散らばった机に肘を付いて、軽く吐息する。 
長く伸ばした金の髪が視界に入るのを、けだるそうに後ろに払う。 
新王が登極して、冢宰の罷免とそれに伴う新しい人事で慶が動きはじめて一月。直轄地である瑛州にもそれなりに移動があったため、瑛州侯にはそれなりに多忙な日々が続いていた。 
にも関わらず、この麒麟は仕事に身が入らない。何事も黙々とこなす景麒にとっては異常の事態であった。 
この気の散じの原因が何なのか己でも分らない。ただ、気が付くと手が止まっていたり、同じ文章を何度も読み返していたりする。 
疲れているのだろうか。 
肘をついたまま、仏蘭西窓の外に目をやる。 
ぼんやりと墨で掃いた様な山の稜線、凌雲山が見える。 
あの天まで届く山の上に金波宮があり、その内宮に主がいる。 
深紅の髪の少女。日を浴びて輝く鮮やかな青葉のような瞳をした女王。 
今頃は執務室で、御爾を片手に読めない書類に四苦八苦していることだろう。 
胎果である彼女は、やはり書類には弱い。かなり努力して読み書きの勉強をしているようだが、王の取り扱う書類はどうしても文体が堅く、今の彼女にはまだまだむずかしいようだ。いつも真直ぐ前を見据えている彼女も、わからない文字があると、ちょっと申し訳なさそうに上目遣いになって聞いてくる。 
悪い、景麒。これはどう読むんだ? 
そんな主を思って、くつ、と笑んだ。 
以前のように金波宮にはびこっていた権を争う官達に悩まされることも少なくなった。 
公正な判断で政と官を総統する冢宰を任ずることが出来てから、王を一人王宮に残していくことに気をもむ必要もない。 
安心して瑛州に心を配ることができるというのに。 
ぼんやりとしては、窓の外を見る。 
凌雲山を見ては、金波宮の主を思う。 
景麒は眉間を押さえて、思考を断ち切るように軽く首をふる。 
この書類をはやく片付けてしまわなくては。 
王に、月の光みたいな金色、と言われた己の髪をかきあげ、深く息をつくと改めて書類に向かった。 
 
「宰輔」 
呼ばれて顔を上げる。やっと集中できたと思っていたのに、と景麒は憮然として顔を上げた。 
もともと表情の冷たいことで知られている景台輔だが、声をかけた官はそれを知っていてなお畏縮していた。 
「あ、あの。金波宮から使いが」 
金波宮と聞いて、少し、麒麟の表情が和らいだ。くじ運の悪い官はホッと胸をなで下ろして続ける。 
「至急内宮にお戻りになるようにとのことです」 
「内宮に?」 
薄い色の瞳がまた急に険しくなる。官は再び麒麟の逆鱗に触れてしまったことに泣きだしかねない様子である。 
景麒はそんなことに構わずに席を立った。 
「他には何も聞いていないのか」 
「な、何も」 
「すぐ出る。後は任せた」 
そう言って、景麒は官を置き去りにして部屋を出た。 
 
何かあったのか。 
騎獣が空を駆けて、真直ぐ宮殿を目指している。飛行する妖獣は文字通り飛ぶ勢いで空を駆けているのに、景麒にはそれさえももどかしい。 
本性に戻れば、自分より速く走る者などこの世にないというのに。 
「何をそんなに焦っておいでですか、台輔」 
班渠が問うてくる。 
わからん、と短く答える。本当にわからなかった。ただ、一刻も早く主上のお側にという思いが胸を押している。 
「王ならば、御心配なさることはありません。今日は冗祐がお側におります」 
「では、何故、内宮に、このような時刻に私をお呼びになる」 
「さて、延王でもお忍びで参られたのでは?」 
班渠は主の焦りをまるでからかう様に軽く答えた。 
「戯れ言を申すな」 
それきり、班渠は口を閉ざす。使令である班渠は、麒麟の命には絶対に従う。そういう契約を結んだのだ。 
その命が、例え子供じみた命令だとしても。 
 
 
「主上!」 
王の気配を読んで部屋を探り当てると、麒麟は思わず力が抜けてゆくのを止められなかった。 
「早かったな、景麒」 
「…主上」 
主であり、半身である王は、何事もなく、明るく笑んで自分を迎えた。赤い長い髪を揺らして、歩みを早めて自分に近付いてくる。 
いつものように。 
御無事だった。 
景麒は息をついて少女を見やり、いつもの活き活きとした表情を見つけてやっと、胸から焦りが消えてゆく。 
王は恐らく、目の前にいる長身の男がどれだけの思いでここにこうしているのか知らないだろう。 
一日中主を思い、仕事が手に付かなくなる程側に帰りたいと願っているか知らないだろう。 
急に呼び出されれば、最悪の事態しか頭に浮かばない程彼女のことを思っているのか知らないだろう。 
いつもその傍らにいたいと願っていることなど、きっと知らないだろう。 
 
「仕事中に呼びつけて悪かった。忙しかったか?」 
景麒を見上げてくる、たった16の女王は自分よりずっと背が低い。 
だまって首をふる景麒の顔は、いつになく穏やかだ。 
「いえ、御無事でなによりです」 
女王は少しきょとんとしたが、すぐ察したらしい、にっと笑ってみせた。 
「今日は冗祐もいるし、御無事に決まってる。景麒は過保護だな」 
使令と同じことを言われて、景麒は黙った。そんなしもべを見て、王はくすくすと笑う。 
笑われて、景麒はいつもの憮然とした顔になった。 
「呼んだのは他でもないんだ。実は」 
「よう、景麒!お邪魔してるぜ〜」 
気安く声をかけられて、はっとする。景麒は、女王が座っていた席の向いに見知った顔をやっと確認した。 
延王と延台輔が、にやにやしながら手を上げている。 
「雁の…」 
今まで、全く目に入らなかった。 
五百年も善政を敷く延王とその麒麟に礼もないままでいたとは。景麒は慌てて頭を下げる。 
「お前が瑛州に戻ってすぐ、いらしたんだ。お忍びということで皆には内緒なんだが、お前には、と思ってな」 
女王はそう言って、景麒の手を引く。席まで導くと、そこに座らせた。 
「しばらく厄介になるが、よろしく頼む」 
延王が気さくに笑いかけてくる。景女王は景麒の後ろに立って、それに応えて微笑んだ。景麒はちょっと目眩を覚える。 
班渠は今頃、どんな顔で笑っているのだろう。 
景麒が苦虫を噛み潰したような顔をしているのを見て、延麒が愉快そうに笑う。 
「ほら見ろ、尚隆。オレ達、お邪魔だぜ」 
「そのようだ」 
焦って景麒が取り消す。女王も同じ様にぶんぶんと頷いた。雁の連中は、そんな様子をさらに楽しんでいる。 
「景麒の奴、オレ達に全く気付かなかったもんな。陽子しか目に入らないみたいにさ」 
景麒は、瞬時にかっと顔を赤らめて雁の主従を睨めつけた。図星を指摘されて、穏やかでいられる者は少ない。麒麟とて、同じである。 
延王はくつくつと笑い、人の悪い笑みを顔一杯にうかべた永遠に子供のままの麒麟に目配せしている。慶の女王はといえば、話の全貌がつかみきれていないようで相変わらずきょとんとしたままでいた。 
「さて、陽子。少し慶の町を見て歩きたいのだが、構わないか?」 
「え。ええ、勿論。よろしければわたしが御案内します」 
何の話かわからぬまま話題が流れたので、陽子は少し戸惑いながらもそう答えた。延王とその麒麟が席を立つ。景麒もそれに従った。 
「ああ、景麒はいい。呼びつけて悪いが、瑛州に戻って構わないぞ」 
延王はしれっと言う。 
「そうそう。心配しなくても、尚隆の腕は確かだから陽子にも危険はないし、オレの使令もいるし」 
頭の後ろで手を組んで、背の高い麒麟を見上げる。陽子はどうコメントしてよいのかわからず、三人の顔をかわるがわる眺めた。 
「いえ、お供させていただきます!」 
景麒は不機嫌そうに応えた。からかわれるのはわかっている。 
でも。 
仁道の生き物である麒麟の景麒は、ぎゅっと拳を握った。 
手のはやい延王と向こう見ずの延麒が供ではかえって、私の主上が危険ではないか! 
決意を込めてじっと赤毛の主人を見下ろす。 
私がお側にいる時は、私が主上をお守りするのだ。これからも、ずっと。 
景麒の視線に気付き、陽子は顔を上げる。 
己の半身であり、己のすべてである王は、鮮やかに笑んだ。 
								 
								
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