フェルナミア山。
ゼテギネア帝国領の極東、辺境シャロームから北へ船を半日も走らせれば、フェルナミア山脈を背骨としている小さな島を見ることができる。
シャローム北部に浮かぶ孤島に南北に走る尾根、フェルナミア山脈の名を冠している街、フェルナミアはその裾野にひっそりと身を寄せるようにあった。
街を「死滅」した様に見せ掛け、帝国の支配から逃れようと画策した街。
帝国から派遣されている憲兵を全て捕らえ、家屋を焼く。
焼け落ちた集落に、帝国が興味を失うのは目に見えている。反乱により殲滅せしめた、という名目で処理が行われれば、街は生きたまま帝国の支配の網から逃れることができる。
「殲滅」されたことになる街人達は計画が成功するまでの間、街の背後に連なるフェルナミア山へ移動し、そこに息を潜めるようにして暮らすことになっていた。
華奢な木々が茂る穏やかな表情のフェルナミア山の斜面に、草木で染められた幌が木々に溶け込むようにいくつも張られているのが見える。
そのひとつひとつの幌の下に、家族が身を寄せて暮らしているのだ。
朝日が幾分高くなってきたようだ。
柔らかな腐葉土に足を取られながら、アーウィンドはただ集落を目指して走った。
この山の木々は冬になれば落葉してしまう。
生い茂る木々が隠れみのの役割を果たしてくれている今の時期に、決着をつけるつもりだった。冬が来て木々が葉を落としてしまえば、帝国の目を逃れて生きていることがすぐに露見してしまう。
そうでなくても、葉の茂る時期に山で隠遁生活を強いるということは今年の麦の収穫を放棄しなくてはいけないということだった。
なんとか冬を乗り切れるだけの食糧を帝国に納めるべき麦から確保してはあるが、麦が作れなければ人々はそう遠くない未来、必ず餓えることになる。縦んば計画が成功したとしても、逼迫した生活は避けようがないのだ。
ひと夏を犠牲にするという代償はやはり安くはない。
一度きりの計画なのだ。失敗したから時期をみてもう一度やり直す、という訳にはいかない。冬までに必ず成功させなくてはならなかったのだ。
この計画は、一度きり通りかかる幸運のしっぽを掴み、振り切られないうちに決着を付けなくてはならない種類のものだった。
失敗してしまえば、最悪の結果ばかりが残る危険な賭だったのだ。
なんて杜撰な。
アーウィンドは潅木を飛び越え、細い枝を薙ぎ払うようにして走る。
どうしてこんな計画がうまく行くと信じていたんだろう。
日に日に横暴になる憲兵たち。脅し、奪い、踏みにじることのみに明け暮れ、それを何かの権利のようにふりかざしていた輩。
彼らの振舞いはゼテギネアの姿をそのまま写したものだった。
凶暴な愚か者に真っ向から対立しても、傷つけられるのは街の人間ばかりだ。
彼らに奪われた我々の尊厳を取り戻すのだ!
アーウィンドは、かつてそう叫んだ青年の声を思い出していた。その声は今でも耳に残っている。
誇らしい、威厳さえ感じられる声で彼は言い放った。
真の自由を!力にねじ伏せられることのない日々を!
仲間たちはその声に命を与えられ、熱にうかされたように走ってきた。
真の自由を。完全なる独立を!
自分達の手による、誰にも脅かされない世界を創ることに思いを馳せて、その思いを糧に夢中で駆けてきたように思える。
だが、とアーウィンドは思う。
革命の成功ばかりを夢想してはいなかったか。失敗の可能性を考慮しなかった訳ではないが、本当に真剣に考えてきたか?
私達は、本当に考えて行動していたのだろうか。
少なくともアーウィンド自身は否と答える。
私はただ…
うっすらと額に汗が浮かんできた。乱れた髪が額に張り付いてくる。汗を拭うこともせず、アーウィンドは走った。
私はただ、サイノスが満たされればそれでよかった。
彼が満足できるのなら、それでよかった。
下草を踏みしだき、突き出た小枝をかき分けながら走ってくる音。仲間達の足音も背後から聞こえてくる。
フェルナミアで生まれた同年代の仲間達は皆、サイノスという青年を兄のように慕っている。どんな場面でもサイノスは同士であり、彼らにとってのリーダーだった。
あの薄い色の瞳と、意志の強い唇。彼の眼差しは静かな光を湛え、何かを強く問いただすように射抜いてくる。彼の言葉は揺るぎない響きを持って人々を奮い立たせ、忘れていた熱を胸に呼び起こす。彼の笑顔は穏やかで、この人の為に何かしてやりたいという思いを気付かぬうちに沸き立たせた。
サイノスは、凡夫が何人束になっても決して持ち得ない力を持っていた。
アーウィンドは思う。
きっと、サイノスを慕う青年たちもまた、彼の「持ち得ぬ力」によって動かされていたに違いない。
彼らも各々に考えるところがあってサイノスの号令に立ち上がったのだろう。だが、真実己の意志をもってこの計画に賛同した者がどれだけいるのだろう。
その証拠に、誰もがサイノスの指示を仰がなくては動くことが出来ない。彼に異議を述べることが出来ない。
もっと穿った見方をすれば、彼らは自分の意志をもって決定しているのではなく、決定した気にさせられているだけなのではないのか。
だがそれは誰に罪があるわけではない。
罪があるとしたら…
それはこうして、何の理想も意志もなく、計画に賛成し参加している自分だけだろう。
私はただ…
アーウィンドは何かを吐き出す行為として走っているに過ぎない自分に気付いていた。
ただ、サイノスが満足できればそれでよかった。
私はただ、サイノスが望むことすべてを叶えてあげたかった。
私はそれでよかったのだ。
汗が目に入って、涙がでた。
「アーウィンド」
ただ無心に走っていた仲間の一人が声をかけてきた。
サイノスに山へ向えと命じられたとき、自然にアーウィンドの後を追って走りはじめた青年達だ。
足下の不安定な斜面を走り続けているから息が上がっている。
「…サイノスと何かあったのか?」
「何も」
アーウィンドは振り向かずに答えた。
何もない。
ただ、彼に盲従している自分を知りながら、それを見ぬふりをしていた自分が厭になっただけだった。
彼が好きだし、彼に自分だけを見ていて欲しいと思う。ずっと側にいたい、ずっと触れていたい。
彼が望むことならなんでもしてあげたい。どんなことでも。例え誰を犠牲にしても、彼が望む全てが叶うなら構わない。
彼がずっと私を好きでいてくれるなら、どんなことでもしてみせる。
正義が何だか知らない。自由が何だか知らない。街がどうなっても構わなかった。
ただ、サイノスがそれを望み、それを欲しているのなら私もそれを望もう。
彼にずっと好きでいて欲しいから。
彼にずっと好きでいてもらう為に。
サイノスは変わってしまった、と思っていた。私達のサイノスは、私達を支配するサイノスへ変わってしまったと思っていた。
本当に何もなかったのだ。
変わったのは私の方だった。
サイノスの持つ「持ち得ぬ力」の魔力から、解放されたような気分だった。
必要以上に、彼にすべてを預けてしまっていたことを思い知らされたのだ。
彼は今までと変わらない。かつてのサイノスも、今のサイノスも何一つ変わっていない。
彼が変わって見えたのは、私が変わったからだった。
彼の魔力から解放されてしまったから。
それはきっと、外から来たあの男のせいだと思う。
日に焼けた肌の、銀の鎧の騎士。
腐葉土の土と木々の根に足を取られてよろける。それを背後から助けられて、アーウィンドは振り向いた。仲間達が腕を掴んでくれていた。
「…ありがとう」
アーウィンドは笑みを浮かべて、再び走り出した。
外から来た騎士は、この街に外界の風を運んで来た。だからきっと、自分はサイノスから離れることができたんだ。
騎士の、湖の瞳を思い出す。
アーウィンドたちは一心に山道を駆ける。
これからこの地が戦場になることを告げる為に。
自分の意志で戦うことを、自分自身に宣言するために。
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