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赤い。 
目の前が赤い。 
なんだろう。赤い光で目の前が染められて、他にはなにも見えない。 
そのうち、光が溶けてくる。どろどろとしたものに変わっていく。 
渦巻き、うねりながら、赤い光は変わってゆく。赤い、あたたかいあかいものに。 
落ちてくる。何もかも赤くなる。髪を見て、両腕を見る。 
赤い。ああ。どうにも嫌で身体で拭う。くちゃ、といやな音がする。 
身体まで赤くなってる。濡れてる。足も、肩も。顔も。 
空気がやたらに重い。責めるようにのしかかってくる。 
もがくように歩く。重い。 
顎を伝って赤い雫が落ちる。 
ああ、 
これは血だ。 
 
目が覚めた。 
アーウィンドは反射的に枕元の剣に手を伸ばし、胸元に抱き込んだ。 
全身にひどい汗をかいている。それでもアーウィンドは毛布を頭までかぶり、胎児のように丸まった。 
この荒い呼吸は自分のものか。この地鳴りのような音は自分の鼓動か。 
苦しくて熱い。体内の血液が猛烈な勢いで駆け回る。涙が滲んでくる。 
抱きしめた剣に縋るようにして、アーウィンドはただうずくまる。 
呼吸を止めて、身体が落ち着くまでじっと耐えた。 
込み上げてくる鳴咽を己の拳を咥えることで押し殺す。 
たまらなく恐かった。 
 
いつからか、見るようになった夢。 
アーウィンドにはなんとなく分かっている。戦況が思わしくないときや、ひどく疲れた夜には決まって赤い夢を見た。 
血まみれになっている自分の夢。 
自分の手は血に染まっている。比喩でも、感傷でもない。人を切れば返り血を浴びるのは当然のことだ。 
分かりきっているのに、どうしてこんな夢を見るのだろう。 
血に染まる両腕。それは単なる現実で、戦場で戦う者が、それを否定することはできない。自分の手も、勿論例外ではない。 
人を切ることに、もう何の感慨もわかないというのに。 
 
汗が引き、呼吸が整う。 
アーウィンドはのそりと身を起こし、力ない動作で毛布をおしやった。 
空気が澱んでいる。 
汗で湿った寝台の上で、アーウィンドはしばらく弛緩していた。 
思い出して握りしめていた剣から指をはがす。関節が白くなっていた。 
滲んでいた涙を、汗で張り付いた髪と一緒にぬぐい払った。 
(仕方のないことだ) 
どんな崇高な理想を掲げても、正当な理由故の戦いであっても、殺人は殺人だ。そんなことは子供だって知っている。 
そして、殺さなくては殺される。 
(ならば、堂々と倒すだけだ) 
力のはいらない足で立ち上がる。乱れた髪のまま、アーウィンドは部屋を出た。 
 
窓の外は篝火がぽつぽつとともされているほか、明かりがない。見張り兵の手にした松明が下の方でゆらゆらと移動している。 
寝静まった要塞。 
アーウィンドはランプを提げて、石の階段を上ってゆく。 
冷えた石壁に、ひたひたと足音が反響する。尖塔の螺旋階段の、途中きり取られた明かり 取りから忍び込んでくる風が、手元のランプを煽って奇妙な形に影を伸ばす。 
どれだけぐるぐると登ったのかわからなくなってきたとき、古めかしい小さな扉が唐突に現われた。アーウィンドは扉を開けた。 
 
砦の屋上には風が吹いていた。昼間は蒸し暑いが、眼下に広がる湿原をわたってくる夜風は湿気を孕んで冷たいほどで、熱をもった身体にはそれでも心地よい。 
見回りの兵を配置したはずだったが、今は姿が見えない。アーウィンドはそっと歩き出す。 
闇が深くて、アーウィンドは何故か安心できた。火を消してしまえば、闇に溶け込める。 
こんなところは誰にも見られたくない。 
誰にも会いたくない。 
こんな風に腑抜けた自分など、誰にも見られてはいけない。 
少し風に当たったら、部屋へ戻ろう。 
一番奥の角に座って、膝を抱き込んだ。 
 
背中を壁に預ける。夜風に冷えた石の感触が、汗で湿った夜着を通して伝わってくる。 
身体の熱が逃げてゆく。吐息して、目を閉じる。 
明日からまた、進軍だ。 
終わりが来るまで、どこまでも進む。 
この戦いには、凱旋以外に終りはこない。最後の最後まで進まなくては、終了の鐘はならない。途中で降りる事はできるのは、自分の命が終るときだ。 
終わるまで、人を切り倒して進んで行く。草木をかき分け小枝を切り落として山道をいくように、立ちはだかる兵士を、騎士を、僧侶を、人をなぎ倒し切り崩し、前進していくのだ。 
そうして進む軍の先頭に立つ自分は、 頭の先から足の爪まで、切り崩した人垣の返り血と臓腑にまみれているのだ。 
「……!!」 
アーウィンドは突然込み上げてきた吐き気を、咄嗟に押さえ込んだ。 
おかしい、自分は疲れているんだ。 
こんなふうになるなんて。 
 
「…アーウィンド…殿?」 
闇から声がして、アーウィンドは痙攣的に顔を上げた。 
追いつめられた逃亡者のように、思わず息を殺していた。声の主が、誰だか分かっていたから。 
今は誰にも会いたくない。会いたくないのに。 
 
闇の向こうから、小さな明かりを持って姿を見せたのはやはり、ランスロットだった。 
彼の手にある古ぼけた燭台に、ちびた蝋燭がいかにも頼りなさげに風にあおられている。影が躍った。 
ランスロットは石床を響かせて、ゆっくりとこちらへやってきた。 
アーウィンドは立てた膝を両腕で抱きしめて、顔を伏せた。 
見たくない。見られたくない。そう思うと、顔を上げられなかった。 
ランスロットが、隣に座る。アーウィンドは顔を上げなくても、彼の動作が気配で分かった。足元に燭台を置いて、マントを払う。 
ふわり、と風が動いた。 
「部屋の中が落ち着かなくて、出てきてしまいました」 
そう言うランスロットの声は低く、囁くように耳に届いた。アーウィンドは膝を抱く腕に額を乗せて、目をきつく閉じた。 
「ここは湿原だけあって、風が重い。鎧が錆付きそうです」 
そういってかすかに笑う。 
目を閉じても、耳は騎士の声をしっかりと捕らえている。宥めるような、慰めてくるようなランスロットの声。いつもなら穏やかなその声に安堵を覚えるのに、今の惨めな自分は理不尽な感情を引き起こした。 
だから誰にも会いたくなかった。 
きっと自分はやさしい人の優しさに甘えて、当たり散らしてしまう。 
ひねくれた子供のような、我が侭で愚かな甘えを、許してはいけないのに…! 
「勇者殿も、眠れなかったのですか…?」 
「勇者殿…?それ、私のことなの、ランスロット」 
口を衝いてできた言葉は、自分でも驚くほど掠れ、響きは棘を含んでいた。ランスロットが訝しんでかすかに眉をひそめる。 
「こんな女が勇者だなんて、笑っちゃうわ。いい加減、目を覚ましたら?」 
「アーウィンド殿?」 
「あんたたちは騙されてるのよ。まだわかんないの?勇者?笑わせないで!」 
アーウィンドは自分の声を聞きたくなくて、耳をふさいだ。 
ランスロットが硬直してこちらを見ているのがわかる。 
こんな、訳の分からない混乱で、アーウィンドは恐怖に震えている。理性が手を離れている。あの夢のせいなのか。 
あの夢をみるような、精神状態のせいなのか。 
どうしようもない喪失感、沸き上がる絶望感、訳の分からない恐怖。 
自分は、ランスロットの信頼を裏切っただろう。 
それを思うと身体が鳴るように震えた。 
そのとき、アーウィンドを包んだのは、強い腕だった。 
 
鎧を着ていないランスロットの腕は、暖かかった。 
顎に指をかけられ、上向かされる。混乱したまま、アーウィンドは目の前にある 
ランスロットの瞳をみた。 
ただ静かな瞳。そこには慈しみの光があった。 
「ラ…」 
縋るように名を呼ぼうとする唇に、唇が降りてきた。 
かすかに触れて、離れていく。 
「ランス…」 
もう一度、触れた。 
少し乾いた唇。暖かい腕はアーウィンドの冷えた体を、柔らかく包んだ。 
「呼ばないでいい」 
耳元でそう囁いてくる声は穏やかで、アーウィンドは泣きたくなった。 
「忘れて。何もかも。名も、自分のことも、俺のことも」 
そういって、今度は深く、唇が重なった。 
 
瞼に、頬に、額に。唇に。 
彼の唇から与えられる熱は、アーウィンドを潤した。 
髪を梳く指。じっと見詰めてくる湖の瞳。 
何度も何度も繰り返されるキス。 
ランスロットはアーウィンドの名を呼ばず、アーウィンドも彼の名をよばなかった。 
ただ、やさしいキスが繰り返される。アーウィンドは目を閉じて、子供のようにじっとそれを受けていた。 
 
疲れ果てていた身体は横たえられて、彼の手を握って、啄ばむような口付けをうける。 
戦場では兜でかくされている頬。手甲で覆われている手のひら。鎧の下にある肩。 
アーウィンドは、男の頬をそっとなぞって、その温かさを確かめる。 
ここにいるのは開放軍の彼じゃない。解放軍の私じゃない。 
ランスロットは、アーウィンドの呪縛を解いた。 
唇が、頬をすべっていく。 
今さら気が付いた。自分は怖いのだ。 
戦いが。戦場が。人を切る事が。その生命を断ち切った事の責任を負うことが。 
普段見ない様にしているからこそ、あの夢が訴えてくるのだ。直視しろ、と。 
恐怖を押さえ込もうとするから体が震える。怯えに気付かないふりをするために、刺を含んだ言葉で距離を取る。 
怯えてはいけない、割り切って動くのだ。それが、自分に課せられた義務。 
解放軍の勇者である、自分の。 
 
静かな瞳で、やさしい唇で、ランスロットは、ただの娘にかえしてくれた。 
アーウィンドは手を伸ばして、ランスロットの髪を掻き抱いた。 
 
瞼に忍び込んできた光に目を覚ます。 
窓から差し込んでくる鮮やかな光は、朝の訪れを意味していた。 
仰向けにねころんだまま、アーウィンドはぼんやりと天井を見る。 
頭には枕の感覚がある。 
そうして、アーウィンドは飛び起きた。 
 
「ねえ、…ランスロット見なかった?」 
中庭にあつまって歓談している兵士達に、アーウィンドは分からない程度のぎこちなさで問うた。 
「ランスロット様は、今朝早くに偵察に出立した、との話ですが!」 
兵士たちはみな、自軍を率いる女勇者に問われて、誇らしげな顔で答えてくる。 
羨望と尊敬の対象になっている自分。アーウィンドは少しおかしくなって笑った。 
 
彼の姿は要塞のどこにもなかった。朝の軍議にも姿がない。 
 
アーウィンドが目を覚ましたのは自室のベッドの上。 
 昨夜自分が何処にいて、どうなったのかが、はっきり言って把握できていなかった。 
 
きっと、あのまま自分は眠ってしまったのだろう。 
 
本当に、なぐさめられちゃった。 
ランスロットは、何もしなかったのだろう。 
毛布の下の自分はしっかり服を着込んだままだったし、身体に跡も残っていない。 
彼らしい振る舞いに、アーウィンドは、ちいさく沸き上がってくる笑いを止められなかった。 
髪を背中に払って、空を見上げる。 
恐がって泣く子供をあやす、親のように。キスだけで。 
 
「あ、アーウィンド?」 
呼ばれて振り向くと、清楚な少女が微笑んで立っている。 
ノルンは首をかしげるようにしてアーウィンドの側にやってくると、肩のあたりに流れる真紅の髪をそっと指でかき分けた。 
「な、なに?」 
「さっき見えたの。耳の後ろのあたり、虫に刺されたみたいよ?」 
アーウィンドは決して自分でみることのできない耳朶のかげを指差された。 
 
たったひとつだけ。 
隠す様にして、ランスロットが付けた紅い跡。 
								 
								
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