Shangri-La | angelique
  
 
Angelique
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満ち月
<<Part:1>>


街並みの隅にたまる影が、今夜は濃いように思える。
この街を解放して半日、依然として戦場の最前線となっている夜の街は張り詰めた緊張感に包まれていた。
小さな街を取り囲む様に掲げた篝火が風に煽られ、その度に通りの裏や館の壁の影が動く。その小さな影の中に、闇の生き物が蠢いているように見える。
アーウィンド率いる部隊はその街に駐留を続けていた。かろうじて帝国部隊を退却させてはいたが、そろそろ限界が近い。
街の中央に立てられた教会の鐘堂に遠見を置いて周囲を警戒させているが、風の強い今夜は月の光が頼りにならぬ。
明暗を繰り返す月光に翻弄される。奇襲めいた攻撃が続いていた。
そろそろまずいな。
息をひそめて成りゆきを見守っている街。その音のない街をひとり、アーウィンドは歩く。こんな戦いを強いるのは辛いものがある。
援軍が欲しい…
もう到着しても良い頃だが、どこかで足留めを喰っているのだろう。彼らが来てくれないと、アーウィンドたちはヒットアンドアウェーを繰り返す帝国にむざむざと体力を削られて、倒れることになる。
そこまで考えて、アーウィンドはゆっくりと首を振った。
自分がこんなことではいけない。
ここで堪えなければ。皆が皆、自分の持てるかぎりの力を振り絞らなければ、前に進めないのだ。自分達はいつもそうして必死で前進してきたのだ。
この戦いはそういう戦いなのだ。
顏を上げ、前方を睨みつけるようにしてアーウィンドは歩みを速める。
頭上にたれ込めていた黒雲が風に流され、銀の盆のような月が再び姿を表した。辺りがさっと白い光に包まれ、家屋が濃い影を落とす。
アーウィンドが見上げると、いつもより大きく満月が輝いていた。
空が明るい。
夜空は光に満たされている。その代わりに地上の闇が濃いのだろうか。
アーウィンドは吸い込まれるように月を見上げた。太陽の光をただ反射しているだけの星。蒼白い満月。
どれだけそうしていたのか、見上げる銀月の一点に、小さなインクの滲みのような影が見えた。アーウィンドは眉をひそめる。
滲みは気のせいかその大きさを増していく。それは月の表面で分裂し、空中に散っていく。
それ、と気付いたときは遅かった。
「敵襲!!」
アーウィンドは叫ぶ。
インクの滲みは月の光を厚い背に受け、濡れたように輝く漆黒の皮膜を大きく伸ばし、静かに地上に舞い降りてきた。
隆々とした筋肉を黒の衣装に包んだ、男。病的な蒼白い顏に唇だけが滑らかに赤い。
背に、蝙蝠の翼が音もなくたたまれていく。
アーウィンドは息を飲んだ。冷や汗が流れる。圧倒的な黒い気配に、肌が泡立った。
ヴァンパイア…!
話には聞いていた、闇の眷属。人であることを止め、闇に身をしずめて生き続ける者。身の丈は軽くアーウィンドを上回り、握る拳は赤子の頭ほどもありそうな巨漢は、静かに大地を踏み締めて、こちらに歩いてくる。
アーウィンドは剣に手をかけ、ぐっと身を沈めた。
仲間を別れているときに、ついてないな。
汗が止まらなかった。呼吸が早く浅くなる。心臓が耳のすぐ内側にあるような鼓動を伝えてきた。意識とは別に、アーウィンドの体は恐怖に震えていた。
なぜ。
闇の男は背後に満月を従えてゆっくりと歩み寄ってくる。表情のない顏。
ただ、両目にだけ、生気が満ちていた。眼球が赤く血走っている。
剣の柄握る手のひらに汗が滲んだ。アーウィンドは額にはりついた髪を払うこともできずに、闇の波動を吹き出して一歩一歩近付いてくる妖魔とたったひとり対峙しなくてはならなかった。
月が、近い。
アーウィンドはそんなことを思う。暗黒の眷属にとって、月は力の象徴であるという。今宵の満月は目の前に立ちはだかる者にどれだけ力を与えているのだろう。
頭上にあったと思っていた満月は、今やヴァンパイアの背後に降りてきて蒼白く佇んでいるように思える。
アーウィンドは訳の解らない恐怖を断ち切るように剣を鞘から抜き去り、相手と同時に走り出した。
黒いマントに風を孕んで、男はこちらに走ってくる。その強靱な肉体で、どうして、と思わせる程身が軽い。
アーウィンドと互角の走りで、ふたりは交差した。振り上げた拳と、振り上げた剣がぶつかり、弾かれるように飛び退る。
固い。
剣で捕らえたはずの相手の拳には傷もついていない。アーウィンドははやくも息が上がっていることに気付かなかった。
長くかかりそうだな。
「アーウィンド!」
「アーウィンド殿!」
そのとき、聞き覚えのある声が背後から聞こえて、アーウィンドは思わず振り返る。救われたと思った。
援軍が到着したのだ。赤い翼と、銀の鎧が見えた。
それが、いけなかった。
闇の男は影のように移動して、アーウィンドの背後に音もなく立ち現れた。ぎょっとしてアーウィンドが振り向く。
吐息と感じる程目の前に蒼白い顏があった。
切れ長の瞳には理性は感じられない。それはどうしようもない倦怠感と飢えを同時に映して、アーウィンドの瞳を捕らえる。
くもりガラスのような目だ、とアーウィンドは思う。
「あ」
次の瞬間には、首筋に鈍い痛みと、その痛みを感じる場所から、なま暖かな液体が溢るのを感じた。
何が起こっているのかよく解らないが、痛みのする場所に手をやろうとすると、手のひらに触ったのは男の髪だった。
噛まれているのか。そう認識したときにはもう体が動かなくなっていた。
そのわりには引き千切ろうとは、魔の男はしようとはしない。いつまでもアーウィンドの首筋に顏を埋めたままでいる。
何を、しているのかな。
世界がアーウィンドから遠退いていく。痛みも、血の感触も、風の音も。
月も。
背後から抱きすくめられるようにして立っているのに、足元に地面を感じない。誰かが遠くで叫ぶ声がした気がしたが、随分遠くから聞こえたから、きっと自分を呼んでいるわけではないのだろう。
ただわかるのは、背に覆いかぶさっている男の気配。密度の濃い闇を背負っているような感覚だけが、最後にアーウィンドに残された。
背後の男が手を離す。アーウィンドは膝を折って、ゆっくりと前に倒れた。

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