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section― 感性域
 ’80年代に入り新しい表現を待ち望む声は次第に大きくなり、アクティブな表現を受け入れる態勢は終わったかにみえる。しかし期待の大きさに反して具体的な動きはいまだにあらわれる気配はない。今回我々が感性域と名付けやろうとする事は、’70年代の美術表現に対する再考とそれを受け継いだ意味でのアクティブな表現が可能かという問いかけである。

’70年代の特徴は批評がなかった、あるいは批評の基盤を失ったところから表現が始まったと考えられる。それ以前の60年代の美術が美術における楽天的進歩主義であったり、あるいは美術と歴史を短絡的に結びつけるラディカリズムであったりするのだが、結局のところ両方と理想論であるという点では根を同じにしていた。

そしてその理想論が、’70年代大阪万博の時期を境にあらわれてくる物事のもつ両面性ないしは多面性といった現実の前でまったく無力であることを作家達は目の前にし、その過程の中で作家達は自分の身のまわりへ目を向けざるを得なかった。そして内省的、分析的、あるいは認識的手法を自己の表現とするのだが作品は必然的に現実追認論になる。

 しかし見逃してはならないのは作家が日常の生活に於ける基本的問題に目を向けることにより、現在我々が置かれている歴史的な地点へ、あるいはそれのかかえる問題へと接近していたことだ。それは日本の近代化の流れのなかで、依然変化しないまま残ったものと、大きく変化したものが矛盾のまま混在する現状への認識である。この問題はあまりに自明すぎる為に正面切って議論の場に上がることなく、美術は表現の形式論だけで語られるという現象にとどまった。

 今回我々は、そこで問題となった近代の合理思想と生ま身の感覚有す我々との間の距離について、感性域という言葉を使い考えてみたい。感性域とは知識、経験、感覚その他我々の感性を形成する要因が具体化する場所として考える。そして、各参加作家がその場所の中に身を置いて批評的に自分も位置を示し、方向を持った時はじめてアクティブな表現が可能となると考える。
 パンフより抜粋


作家コメント
私は、リアルタイムで物理的に生成される音・光に興味を持っている。例えば、レンズの収差による光の模様など、不完全であるがための作用による美しさ、あるいは大気によって錯乱された空の色、あるいは空中の放電によって生じる雷の響きなど大変興味深い。このような現象は、自然界という一つの大きなシステムの中で作用しているほんの一部に過ぎない。このシステムの中で、私の出来得る事は自然界のなかのパラメーターの組合せに過ぎないのでなかろうか。その試みの一つとして、ディアトープ装置というシステムを作った。

映写機から放出された光は、何の処理もなくスクリーンに投影される。その光にフィルターをかけることで、その像を形成する性分を抽出することができる。その抽出された光の集合体をここでは、一定の速度で回転または、往復運動を繰り返す凸レンズで構成された装置に映写機からの光を通過させ、像を投影した。映写機には物理的な処理を加えたフィルムと風景像のフィルムからなり、それらの像と凸レンズの重なりで、スクリーンに映される像は、リアルタイムな像として進行してゆく。


「加筆追加」
今回のこの場所では、3種類の音が響いている。一つめは映写機とディアトープ装置の駆動音、二つめは小型モーターに取り付けたプロペラを回転させ風を送り風鈴を鳴らす。三つめは壁面に"cds"という光センサーを3箇所設置した。(cdsは光のエネルギーを電気信号に変えるセンサーで光の強弱で大きさが変わる様にセットし)音源には自作のシンセサイザーを使用しアナログ的に音を変化させてみた。風鈴のモーターにも光センサーを接続しモーターの動きを制御してみた

(江間一義)

 

 


 

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神奈川県民ギャラリーにて
昭和55年5月

 

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