1.失われた渋谷川を探して
別に、「昔の方がよかった」「自然を取り戻せ」という議論はしようとは思っておりません。
でも、渋谷に「川が流れていた」ことを、ご存知の方は、どれほどいるのでしょう?
正直言うと、かくいう私は、渋谷に事務所を構えるまでは、知っていたような、知らなかったような、という感じ。
記憶の断片を振り返ってみれば、「そう言えばあったかな」と思うくらい。
そもそも「この写真」を見て、「川」を感じる人は、どれだけいるというのでしょうか。
鋭角に切り立ったコンクリート。
川の両脇に連なる無機質なビル群。
ちなみに、渋谷川は川底が見えるくらい、水量が少ないです。
もう少し多ければ、W杯の時に、飛び込む輩がいてもおかしくなかっただろうにねぇ。
渋谷川にかかる並木橋のたもとに、こんな看板が立っています。
「清流」だそうです。
「復活」だそうです。
ちなみに、川の中はこんな感じ。
魚一匹いません。
マジで。
看板の地図にもあったように、この渋谷川は、今は、新宿区にある落合処理場の高度処理水を引っ張ってきているみたいなんですけど。
いくら高度に処理をした水でも、魚一匹いない川なんてねぇ。
この渋谷川、実は、原宿のあたりも流れていたみたいなんですね。
ということで、先般の「この夏最も暑かった日」に、テクテク取材してみました。
このリンクから表示される地図の「右下」あたりに、「水色」の線があります。
これが、地上に顔を出している渋谷川。
この右下方向に流れて、途中「古川」と名前を変え、東京湾に注ぎ込んでいます。
この渋谷川は、渋谷駅近辺の、首都高速(と国道246号)の下あたりから上流は、地下に潜ってしまいます。
「一体どこを流れていたのかな〜」と思って、渋谷駅近辺を歩いてみると、ちゃんとありました。
そう、ご存知の方も多いでしょう、「宮下公園」です。
ここは川だったんですねぇ。
ちゃんと「渋谷川遊歩道」とあります。
今は遊歩道、というよりもホームレスの皆様のニュータウンという感じですけど。(^-^.)
(写真で見えるでしょう?)
ホームレスのお住まいもちゃんと「花壇」に作っていて(オイオイ)、遊歩道の邪魔はしていないから(イイノ?)、彼らも、もしこの遊歩道が小川だったら、どれほど楽な生活ができることか。
きっと、みんなせっせと洗濯したり、米でもといだりしちゃうのかな…。
で、この先で、JR山手線と明治通りにおさらばして、いよいよ原宿方面にまいります。
地図で行くと、この辺。
この明治通りの右側に沿っている小道が、「渋谷川」だったようです。
この通りは、最近は「キャットストリート」という名称でも呼ばれているようで、原宿に近い方は、若者向けのおしゃれな店が通りを賑わしています。
ちなみに、クソ暑さのためもあってか、ネコちゃんは1匹も見かけませんでしたが、
そして、さらに進んでいくと、「表参道」とぶつかる。
「参道橋(さんだうばし)」とかかれた橋の名残りしか残っていませんが、こんなところにも川が流れていたんですねぇ。
この辺からも、ずっーっと遊歩道は続きます。
とりあえず終点らしきものは、「外苑西通り(キラー通り)」かなという感じ。
ここで、お寺さんがあって、行き止まりっぽい。
よくよく調べてみると、渋谷川は、今の国立競技場あたりの森を水源としていたみたいです。
それが、地下水の汲み上げによって、水量が減り、排水の流入によって、水質の汚染化が進んで、「フタ」をしてしまったみたいです。
今、考えれば、「どうして、小川みたいな感じで残せなかったの?」と思うでしょうけど、たぶん末期は、こんな感じの川だったのかな…。
自分の家の前を、こんな川が流れていたら、正直言って、「フタをしてよ」と言いたくなるでしょう。
あってもなくてもいいという感じ。
ただし悪臭がしなければねという感じ。
たぶん、私も、「フタする派」になると思います。
で、お決まりの「サイクリングロード」にでもしろ、と。
ふと思い出したんですけど、私の実家の近所でも、小さい頃は、「どぶ川」だったのに、いつの間にか、小学校高学年になるまでに、「サイクリングロード」になっていたという道があります。
昭和40年代から50年代くらいは、「臭いモノにフタをするブーム」だったのでしょうか。
そういえばあの頃は、光化学スモッグなどの公害が、連日のようにマスコミを賑わしていた。
そんな時代背景もあっての、「臭いモノにフタ」だったのでしょう。
渋谷川が、もしこんな「川」だったら、どうだったでしょう?
ふふふ、どうです、涼しげな感じでしょう?
この写真、実は、我が家の前の小川です。(^▽^
でも、実はその前のもう1枚の写真も、うちの近所の同じ川。
もう少し下流の方なんですけどね。
どうして、同じような整備ができないのか分からないけど、まあ、予算がなかったんでしょう。
いずれにしても、こんな川に「フタ」をしようなんて考える人は、まずいないでしょう。
で、もしこんな川が、渋谷の街を横切っていたら…。
渋谷の街の人の流れも、少〜し変わっていたのではないでしょうか。
いちいちデパートに駆け込まなくても、もう少し涼しい街だったのじゃないかなぁ〜と思った次第です。
たしかに、「水が枯れて」「衛生上問題がある」ことは分かります。
さらに、「子供の安全面」や「豪雨時の排水」などを考えると、昭和40年代前後のお役所としては、フタをしてしまった方が、どれだけ管理がラクかと考えたのでしょう。
綺麗に整備するには、お金もかかるだろうし。
武田信玄の時代から、為政者は「水をコントロールする」しようとしてきた。
コントロールしてくれればいいんだけど、こういう「臭いものにフタ的対策」だと、二度と後戻りできないですよね。
後戻りしようとして、何とか「復活させた」のが、最初の写真だもの。
皆さんだったら、どうしますか?
枯れて汚い小川にフタをしますか?
それともお金がかかっても、整備しますか?
灼熱の渋谷をトボトボ歩きながら、そんなことをとりとめもなく考えてしまったのでした。
2.1枚のDVD
ちょっと話を変えて、あるDVDの話です。
ちょっとマニアな話になるかも知れませんが…。
ここ数年、ずーっと探していたDVDがあります。
私は、CDとか、DVDとか、まあ他のものでもそうなんですけど、「注文」ということを一切しません。
店に置いていなければ、買うのをやめてしまう。
注文して、取り寄せてもらえば、すぐに確実に手にはいるのに、それはしない。
「そうまでして欲しくない」というものなのでしょうか。
自分でもよく分かっていないけど。
でも、自分で浪費癖に一線を引こうとしているのかも。
そのDVDが、つい最近手に入ったんです。
こちらです。
「The Prince's Trust Rock Concert 1987」という名称のコンサート。
イギリスのチャールズ皇太子が、「プリンス・トラスト」という若年失業者救済のための基金団体を持っていて、その資金集めコンサート(?)なんです。
実は、この前年(86年)に、設立10周年を記念して、ポール・マッカートニーをはじめとする豪華メンバーが集まって、コンサートをやって、大成功をおさめた。
この86年のコンサートも、たしかNHKでオンエアされて、ポールが、ビートルズ初期のロックンロールナンバー、「I Saw Her Standing There」を熱唱するのを見て、感動したのを覚えています。
で、この87年は、「ポールの次は、ジョージだろう」ということで、ジョージ・ハリソンがトリを務めた(らしい)。
この模様も、NHKでやってくれました。
(たしか86年のと連チャンでオンエアしたのかな…)
ビデオに録画して、結構何度も見ました。
というのも、その時に、ジョージが、ビートルズの「Here Comes The Sun」という曲を、ELOのジェフ・リンたちとやったんですね。
この「Here Comes〜」は、ビートルズの最後のアルバム「Abbey Road」におさめられている曲。
アコースティック・ギターの美しい音色と、絶妙のコーラスが絡み合う名曲の一つ(と私は思ってます(^-^.))。
ジョージ・ハリソンは、おそらくこの曲を自身のコンサートでやったことは、たぶんないはず。
「ないはず」というよりも、ジョージ自身、70年代初期の頃以来、コンサートツアーをまともにやっていないので、やっていたかどうかを知る由もなしという感じ。
えー、実は私、この曲、ギターで弾けるんすよ。(^▽^ハハ
フラットピッキングで、アルペジオっぽくプレイする、結構面倒な曲ですけど、若かりし頃、時間がたーっぷりある時に、せっせと練習して弾けるようになりました。
こういう自分が弾ける曲を、オリジナルの人がプレイするのを見ることができるのって結構感動しません?
楽器を演奏される方なら、お分かりいただけると思うんですけど…。
「あ〜、同じように弾いてる!」とか、「ああ、こういう風に弾くんだ〜」みたいな。
このコンサートの「86年版」も、すでにあって、こちらは結構お店に置いてあるんです。
そりゃ、ポール・マッカートニーをはじめ、ティナ・ターナーなど豪華メンバー。
「需要」が、それだけありそうなメンバー構成。
一方、私が欲しい「87年版」は、ジョージ・ハリソンがトリですから、やっぱりポールの時よりは、セールスは落ちるのでしょう。(T-T)
そのためか、ショップもなかなか在庫を補充してくれない。
そもそも入荷すらしていなかったのかも…。
銀座の山野楽器や、渋谷のタワーレコード、HMVなど、CDショップに立ち寄った時には、必ずDVDコーナーにも行ってみて、探しました。
でも、全然なかった。
86年版は、ほぼ必ずあるのに…。
それが、今年の春先、突然入手できた。
たしか、銀座の山野楽器だった。
見つけた瞬間、私は心が躍って、速攻でレジに持っていき、購入しました。
「やったよ、ついにあったよ〜(T-T)」と心で叫びながら、早く家に帰って、見てみたくて、ウズウズしていました。
それとともに、「なんでこんなDVDが、いきなりあったんだろう?」、そうも思いました。
で、少し考えて、分かってしまいました…。
ビートルズが好きな方なら、お分かりでしょう。
そう、ジョージ・ハリソンは、去年の11月末に亡くなりました。
アーティストが亡くなれば、その作品を改めて買う人は多いはず。
そう思って、お店が商品を仕入れるのは、当たり前でしょう。
ジョージが死んでしまったから、このDVDは手に入った。
でも、生の演奏は、二度と聴けない。
もしかしたら、違う理由で仕入れたのかも知りませんが、もしそうだとすると…ちょっと複雑な心境。
これを仕入れようと判断した担当者のマーケティングセンスは、正しいのでしょう。
でも、ファンとしては、哀しいですよね。
仕入れ担当者が、ビートルズのファンだったら、少しは考えてしまうでしょう。
ハイエナのようなことをしてしまう自分の判断が、はたして是なのか非なのか、と。
マーケティングとしては、絶対に正しい。
需要が生まれたのなら、そこに適切な量を供給することは、当たり前すぎるマーケティング。
世の中綺麗事だけではない。
もしあなたが好きなアーティストが亡くなったときに、あなたがそれに関係する商品に携わっていて、その時に、それに関係する商品を、あなたは売ろうとしますか?
こういうどこか「哀しいマーケティング」ってあるんだな〜と、つくづく実感させられたできごとでした。
3.水の都銀座
そしてまた、「川」の話です。
東京の、皇居を中心としたあたりには、実は「橋」「堀」「川」を地名にもつ場所が、結構多い。
「新橋」「数寄屋橋」「京橋」「日本橋」「八丁堀」「外堀通り」…
これらの地名・道路名は、東京以外にお住まいの方でも、おそらく一度くらいは聞いたことがあるはず。
でも、これらの場所には、今はどこにも「水」はない。
もちろん、ここでも「つい50年前」にはあったみたいですが。
徳川家康が江戸幕府を開いて以来、江戸(東京)は「水上交通」の都市だったようです。
その証拠となる地図がネット上にないか、苦労に苦労して、無条件でリンクを貼れるサイトをようやく探し出しました。
東京都中央区の広報紙からです。
(中央区さん、ありがと〜(^―^)/)
現在の同じあたりは、こんな感じです。
この地図を、右に45度傾けて見てください。
古い地図の方で、「築地川」とあるのが、現在の首都高速環状線(グレイの線)。
「昭和通り(ピンクの太い線)」の少し上あたりが、古い地図にある「三十間堀川」だったようです。
そして、このもう少し広域の地図を見ると、銀座をグルっと、首都高速が囲んでいる図が見えてくるでしょう。
ここは全部、「川」もしくは「お堀」だったんですね。
そう、川がなければ、「君の名は」の数寄屋橋もなくなってしまうんですから。
ちなみに数寄屋橋は、「外堀」にかかっていたようです。
これらの川が、なぜ埋められてしまったのか。
皆さんはご存知でしょうか?
少し考えてみてください。
※この埋められた理由がうろ覚えだったのを、確実にするために、本屋を必死で探し回ったのでした。
江戸時代が始まって、徳川家康はもちろん「独裁者」ですから、都市計画もやりたい放題(今考えれば)。
江戸城(現皇居)の東側は、すぐ「葦」の生える入り江だったようで、これでは「黒船」から城を守れないと、次々と埋め立てていった。
それが、「八重洲」であり、「銀座」「築地」だったようです。
当時は、「船」が大量輸送の手段ですから、その「埋め立て地」にも、「お堀」を作った。
当時のお江戸は、結果的に水の都だったんですね。
何か、いいな〜。
うらやましいっすよね。
渋谷川なんてメじゃないくらい涼しいだろうし。
「ベニス」なんかも比較にならないだろうな〜。
W杯の時には、ドッカンドッカンみんな飛び込んだだろうな〜。
オレも、たぶんイっちゃったかもな〜。
で、江戸時代は、「火事と喧嘩は江戸の華」の言われの通り、火事がしょっちゅうあった。
火事があるたびに、江戸という街が、都市として整備されていったようです。
ご存知「明暦の大火」では、今でいう「千代田区」「中央区」「港区」大半が焼けてしまって、それ以来、「大きな通り」で街区を区切るようにして、その結果、火事が起きても、延焼が防げるようになったそうな。
それでも、江戸の街はゴミゴミしていて、当時の下町の人口密度は、今の東京以上だったということでもある。
しかし、江戸から東京となって、大正末期、東京という街が、一瞬にして消えた。
そう、「関東大震災」です。
ただ、多くの人に不幸をもたらした震災も、当時の為政者にしてみれば、「ゴミゴミした街を計画都市に変えるチャンス」だった。
元東京市長だった内務大臣後藤新平は、大震災の翌日には、帝都復興計画を一人で練り上げたらしい。
ただ、その壮大な計画も、資金難や地主の反対にあい、規模はみるみる縮小していった。
東京の「環八」「環七」などの「環状道路」は、すでにこの時代から整備されて、そして大半は全線開通もしていない…。
この計画の絵図を見るたびに、「これが本当に実行されていたら…」と思います。
だって、環八は、計画通りだったら、幅員100mの道路になるはずだったんだもの。
計画された道路は、当時田畑ばかりだったというのに…。
その反面、「自分が地主だったら、素直に従うか?」とも思います。
自分が、今、土地を全く持っていないから、「そんなもん、すぐ差し出せよ」と思うのかも知れない。
どうなんだろう?
皆さんは、どうです?
ご先祖様から受け継いだ土地を、お国に差し出しますか?
そして、再び東京という街が、焼け野原と化した1945年。
この時までは、前述の「川」は埋まっていなかった。
水質は、かなり悪化していたみたいだけど、まだまだ「水の都」だったらしい。
戦後計画された「東京復興計画」では、市街地の10%以上を緑化地域にするはずだった。
道路の幅員も拡げ、そこを緑地帯とするはずだった。
しかし…。
GHQが、「敗戦国らしくない」との理由から、これらの計画は一気に縮小されたらしいです。(T-T)
そして、その一方で復興計画では、実は、「河川を重視した計画」が立案されていた。
復興計画の中心人物だった石川栄輝は、「河川の沿岸を緑地帯にし、都民に大洋と空気を与える計画を立てた」(※)。
※「この1冊で東京の地理が分かる」正井泰夫監修/三笠書房より
さらに、戦後すぐは、陸上交通が混乱していたこともあって、むしろ水上交通を発達させようと、運河などを新たに作ったり、拡幅する計画もあったらしい。
しかし、これらの計画も、猛烈なインフレに端を発する緊縮財政によって、大幅に縮小された。
それどころか、かの石川はGHQから、あちこちに大量に残っていたガラ(灰燼)の処理をする役割を負うことになった。
そして…。
石川は、都心の川を、「船の運航に焼く立たない川」と「浄化の難しい川」を「不要河川」として、「ガラで埋め立て、土地を造成し、それを売却して事業費に充てる」ことを考えてしまう。
そう、東京の「景観」は、この時を境に大きく変わってしまったのです。
そして、1947年の「外堀」から順番に、先の地図に見えた川(お堀)は、あっという間にすべて埋め立てられてしまった。
あなたが、この石川氏の立場だったら、「ガラ」の処理をどうしますか?
今だったら、トラックで何度も往復すれば、「海に捨てる」ことで問題ないでしょう。
海に捨てなくても、埋め立て地に持っていけば、何とかなるはず。
しかし、戦後すぐで、しかもコワイGHQから、「急げ」と命令されたら…。
この時の、石川氏の「判断」を責めることが出来る人がいるでしょうか?
責められるどころか、「資金まで生み出した」のだから、誉められて当然でしょう。
でも、石川氏も相当悩んだのではないでしょうか。
「河川を拡充しよう」とすら思っていた人が、「埋め立てる」役割を担わされるなんて。
どう考えても、哀しすぎます。
先の渋谷川がなくなってしまった理由とは、あまりにも異なる哀しい理由で、水の都東京はなくなってしまった。
マーケティングとは、基本的には人を喜ばせるために行うものなのだろうだけど、時として、こういうマーケティングをしなくてはならないこともあるはず。
その時には、何をどのように考えたらいいんでしょう?
渋谷川が地下に潜ってしまう、橋のたもとに、こんな雑誌が落ちていました。
皮肉ですね。
明日は、広島原爆の日。
そして、もうすぐ8月15日。
哀しいマーケティングなど、必要としない世の中に、我々がしなければいけないことだけは確かですね。