No。118
多機能型人材と環境適応力
2002.7.15
1.トルシエの「功」
P・トルシエ監督は、日本の選手を「子供」のように扱ったという。
選手を表現するときには、「自分の息子たち」と言っていた。
この表現自体は、悪いものではない。
選手たちにしてみれば、すでに大人なのだから、不満はあったと思うが、「自分の子供」である以上、愛情も注がざるを得ない。
監督は監督で、その言葉に縛り付けられる部分も出てくることになる。
ただ、「しつけ」には一層厳しくなるだろうが。
もっとも、大会終了後に冷静に見れば、監督の方が、よっぽど子供で、選手は結果的に大人になった(人間的に成長した)ともいえるのかもしれない。
功罪相半ばするトルシエ監督が残した遺産で、意外と語られていないことがある。
それは、「1人の選手が複数のポジションをこなせることを求めた」ことである。
このこと自体は、W杯が始まる直前の試合ですら、突然柳沢をサイドで使ったり、はたまた、件のトルコ戦では、アレックス(三都主)を事実上のFWとして起用して、観客どころか、選手までをも愕然とさせたりことにも象徴される。
また、人気優先と取られがちだった中村俊輔が、まだ当落線上にいたころ、「別のポジションもできること」を、また(苦手といわれた)「ディフェンスもこなせるように」とも監督に求められていた。
そのためか、このような要求をするトルシエの戦略自体が、はたしてどこまで確かなものであるのか疑問視する向きも、少なくなかったように思う。
ただ、彼の選手に対する接し方の稚拙さや戦術の拙さに目を奪われて、そのアイデアまでも誤りと考えるのはおかしい。
一人の選手が、複数のポジションをこなせるということは、チームにとって、確かに大きい効果をもたらす。
サッカーのように、攻守が一瞬にして入れ替わり、かつ1試合での選手交代が限られているスポーツでは、極めて重要なポイントだろう。
1つの専門ポジション以外に、複数のポジションを一定レベルでこなせる選手がいるということは、事実上、倍以上の戦力を持っているに等しくなる。
また、選手自身も、多角的な視点でプレイを見つめることができるようになるため、尚一層のレベルアップを図るにはもってこいだろう。
だからこそ、トルシエは、複数のポジションをこなすことを、選手に求めたと考えたい。
2.なぜ複数のポジションを求めるのか
一人の選手に複数のポジションをこなすことを求めるのは、何もトルシエ監督のオリジナルというわけではない。
少し前に、まだ阪神の監督だった野村克也が、こちらもまだ阪神の選手だった新庄に、「投手」をやらせていた。
これなど、「もてあましていた」といわれる新庄の「才能」を、なんとか開花させるための、苦肉の策として考えたものであろう。
もうひとつ。
今から20年ほど前になるが、明治大学ラグビー部が、全盛時代を迎えていた。
日本代表に選手を何人も送り込み、「大学史上最強チーム」と名を欲しいままにしていた。
明治大学ラグビー部監督を70年近く務めた北島忠治は、そのような選手の中で、フッカー(HO)として日本代表にも招集されるレベルにあった藤田剛選手を、センター(CTB)として試合に起用した時期があったという。
フッカーとセンターというポジションは、野球でいえば、キャッチャーと外野手くらい違う感じ。
サッカーであれば、DF宮本に、突然、中田ヒデのポジションをやれという感じといえば、ご理解いただけるだろうか。
明治の藤田選手のケースは、結局、「なぜそのような起用をされたのか」は、監督から本人にも結局告げられなかったらしい。
ただ結果的に、藤田選手は、その後長く「フッカー」として、日本代表のポジションを守り続けた。
これなども、その選手の才能を、一層高いレベルに引き上げるための「荒療治」ともいえないだろうか。
3.多機能型人材の育成
今は、福岡ダイエーホークスの球団社長となっている高塚猛氏は、元は盛岡グランドホテル(GH)の総支配人で、さらにその前は、リクルートの一社員だった。
彼が、江副浩正の命をうけて、リクルートから盛岡GHに出向したとき、その硬直化した企業体質を変えるために取った策の一つが、「さまざまな仕事を、一人ができるようになる」ことだった。
つまり、「フロントの人の手が空いている時には、厨房を手伝う」、反対に、「厨房の手が空いている時には、フロント業務を手伝う」ということである。
一流のホテルでは、ドアマン一筋何十年という方もいるように、一つの仕事を全うしてこそホテルマンということが常識だったようだ。
盛岡のホテルとはいえ、昭和天皇も宿泊されたような一流ホテルだった盛岡GHに、同じような考えの人間がいても、何らおかしくはないだろう。
しかし、フロント業務が忙しいのは、チェックイン、チェックアウトの時間帯。
それ以外の時間は、比較的手が空いている。
その反面、厨房は、食事時間の前後は火事場のような忙しさだろうが、アイドルタイムは必ずある。
彼、高塚氏は、その「繁閑期」をうまく組み合わせて、削減した人員を補う人材活用をしたわけである。
今となっては、当たり前の策に映るかも知れないが、25年も前に、しかも若干29歳で、ホテルマンたちの意識改革を伴って、実行し、成功したことは、賞賛に値するだろう。
このようなことは、一つの職種を、もっと極めたい願望がある従業員にしてみれば、「はた迷惑なこと」と考えてしまうこともあるはずだ。
そのため、「企業の人材活用」という点で、同じようなことを行うには、少し慎重になるべきだろう。
盛岡GHのケースは、「それをやらなければ倒産する」という危機感から、ついてくる従業員もいた。
危機感が醸成されていない時に、やみくもに職種転換を行うのは、リスクが大きい。
転換された先で求められるスキルも、新人が仮配属された時などに行われるジョブ・ローテーション程度と考えては甘い。
それぞれの配属先で、「最低限のレベル」ではなく、「一定水準以上のレベル」であることを求められるからである。
10年くらい前に、日本では「就職」(職に就く)といいつつ、実態は「就社」(会社に就く)だといわれていたことがあった。
ちょうど、「社畜」などという言葉もあった頃で、「日本人は、会社に就職するのではなく、自分の手に職をつけるべき」という意味も、その裏側にあった。
さらに、その背景には、「アメリカがそうだから」ということもあったと思うが、はたして、企業としてより「強い組織」を作り上げられるのは、どちらなのだろうか。
アメリカ型「就職」では、プロフェッショナルという言葉に覆われた単機能型人材を大量に抱えることになり、仮に企業に不適格な人材がいた場合には、代替を採用せざるをえない。
そのため、人材の流動率が高くなることは避けられない。
ご存知の通り、多民族国家であるアメリカでは、そのための人材が豊富にいるため、このようなシステムが成立しうる。
一方、日本型「就社」は、会社に入ったときはアマチュアで、まだ収益を生み出す人材ではない。
収益は生み出さないものの、プロフェッショナルではないため、変な色に染まっていることもない。
そのため、その後の教育で、「うまく育って」くれれば、その企業にとって好都合な多機能型人材を育成することが可能である。
「人材」を、一つの「商品」と考えた場合、やはり単機能よりも、多機能の方が、効力を発揮する場面は自ずと多くなる。
実際の商品の場合、単機能の方が、使いやすいことはありえるが、こと人材の場合は、多機能の方がいいことは自明である。
事業部門間などの人員構成の変化に、より迅速かつ柔軟に対応できるためである。
もちろん、そのための「開発コスト(=育成コスト)」もかかることにはなるが。
単機能型人材は、「スペシャリスト」ともいえるし、多機能型人材は、「ゼネラリスト」と言い換えられてしまうかも知れない。
しかし、これから求められるのは、過去にいわれてきたような「ゼネラリスト」ではなく、「スペシャルなゼネラリスト」だろう。
営業担当だから営業しか知らないのではなく、システム担当だからプログラム言語しか知らないのではなく、あらゆる職種の人が、「経営全般の知識」を必要とされる時代が来ていると思う。
だからこそ、本屋に行けば、どこもかしこも「MBA本」だらけなのではないか。
企業は、一人の無垢な人材を、その企業に合った「多機能型人材」にするためには、個人の成長を見守りながら、行うべきであろうが、その反面、「個人」に求められるのは、「環境適応力」であろう。
個人の側も、すぐにキャパシティが一杯になってしまうようでは、企業にとって不必要な人材と言われても仕方がない。
さまざまな「環境」に適応できる能力は、実はこれからの時代を生き抜くのに、不可欠な能力といえる。
4.環境適応力
「環境適応力」とは、何も「人間」だけでなく、「商品」や「サービス」にも求められる要素ではないかと思うのである。
商品やサービスに求められる「環境適応力」は、大きく2つに分類できるはずである。
1つは、「様々な商品バラエティに対する適応力」である。
これは、先ほどの「人材」の例では、「フロント」も「厨房」も「営業」もできる能力を持つということだろう。
では、「商品」の場合、どのようなことになるのか。
例えば、ある「緑茶」のブランドが開発されたとしよう。
そのブランドが、「緑茶」だけに使われて終わるのか、それとも「烏龍茶」「麦茶」「ほうじ茶」などにライン・エクステンションできるのか、企業にとっては、大きな違いである。
一つの強いブランドを基幹に据えて、その周辺をライン・エクステンションしたブランドで固めることは、経営効率的には絶対によい。
ただ、そのメインブランドが、何らかの理由で傷ついた場合、すべて共倒れを引き起こす可能性もあるため、リスクヘッジもしなくてはならなくなる。
そのため、企業は「複数の強いブランド」を作ることを優先して、ブランドを乱立させているのだろう。
しかし、そのようなリスクはあるものの、一つのブランドだけを注視した場合、様々な商品バラエティに展開できる力を備えたブランドである方がよいことは、言を待たないだろう。
もう1つ求められる適応力とは、「時代の変化に対する適応力」とでもいうべきだろうか。
いくらヒットした商品でも、一時的に売れるだけではいけない。
企業としては、できるだけロングセラーになってもらった方がよい。
そのためには、どのような時代であっても、受け入れられる素地があった方がよい。
時代は変わる、絶対に変わる。
去年のヒット商品番付で、今年もまだ売れ続けている商品・サービスは、まだ数多く残っているだろうが、では、10年後残っているのは、どれだけだろうか。
「今売れている理由(買ってもらっている理由)」で、明日も売れるとは限らない。
人の心は移り変わって当然である。
そのような人の心の変化に合わせて、商品・サービスも変化しなくてはならない。
もちろん、コアとなるコンセプトを大胆に変更するのではなく、10の要素のうち、1から2くらいを、少しずつ変化させていくという感じだろうか。
ミッキー・マウスやハロー・キティの「顔」が、時代によって、少しずつ変化してきたように、少しずつ変えて、時代の要請に合わせなくてはならない。
少しずつ変化させる理由は、「変わったことを気付かれない」ということが、重要なポイントとなるからである。
全く気付かれないということは、無理であろうから、「言われなければ気付かない」という程度の変化になるのだろうか。
すでに、ヒットしているブランドが、「明らかに変わった」と評価されることは、必ずしも芳しいことではない。
ロングセラーになっている(なりつつある)ブランドは、すでにユーザーの生活時間、生活空間に入り込んでいるものである。
そんな「ロイヤルユーザー」のブランド使用理由は、「長年使っているから」という項目が高くなり、そのブランドの「機能的な評価」は、使用理由の順位から下がるものである。
だから、「ロイヤルユーザーの気持ち」に、わざわざ「波を立ててしまう」ことは、改めて、「そのブランドの使用理由を問い直してしまうきっかけを作る」ことにもつながる。
「どうして、この商品使っていたんだっけ?」
「そういえば、最近新しい商品も出ているみたいだな」
蜜月関係にあるのに、わざわざ破局のきっかけを持ち出すカップルが、世の中にいるだろうか?
5.縦と横の適応力
このような、「時代の変化に合わせる環境適応力」は、前述の、商品バラエティに適応する力を、「横の適応力」とすれば、「縦の適応力」とでも言おうか。
実は、この「縦の適応力」こそ、「人材活用」でも、今まさにキーになっている。
そう、「リストラ人員対策」である。
企業で、リストラにあうような人員は、概ね、「時代の変化に適応できなかった人材」である。
「コピーすら取れない」「ファックスすら送れない」のは論外として、「メールを使ってコミュニケーションする意味が未だに理解できない」などという輩も、実は世の中には少なくない。
もちろん、個人が所属する組織によって、その程度は異なるだろうが、仮に、その組織に長期的に属したいのであれば、その組織で起きている「変化」を敏感にかぎ取って、時代に合うように、己も少しずつ変化させなくてはならない。
どこかのパソコン教室のコマーシャルではないが、「昔はこれで乗り切ったんだ」とは、最悪の言葉である。
「横と縦の環境適応力」を身につけることによって、人も、商品も、サービスも、長く生き延びられることとなろう。
なかなか簡単なことではない。
しかし、これから何十年かは、かつてのバブルのような時代はおろか、「昭和元禄」などと呼ばれるような、太平楽な時代は来ないだろう。
そんな厳しい時代を乗り切るために、この「環境適応力」という言葉は、ますます求められるキーワードとなると思う。