No。117
今こそ「精神論」を
2002.7.8
1.日本と韓国の成果を分けたもの
盛大なサッカーの宴も終わってしまい、「燃え尽き症候群」なる言葉も、また呼び起こされているらしい。
日本代表の試合について、「予選リーグを突破できてよかった」という意見よりも、「ベスト16で(勝てる試合を)なぜ負けた」という論調が増えてきたのは、何も韓国がベスト4に残ったからということだけが理由ではないだろう。
たしかに、シロウト目に見ても明らかにおかしかった、トルコ戦でのトルシエ監督の采配は、我々を「燃え尽きさせた」というよりも、「不完全燃焼のまま燃え尽きさせられた」と表現した方が正しいのかも知れない。
「あの試合のスターティングメンバーが、こうだったら…?」
「あのタイミングで、○○を投入していたら…?」
逃がしたものは、あまりにも大きく、そして「自国開催」という大いなるアドバンテージをもったビッグチャンスが次に訪れるのは、一体いつになるのか、それは誰にも分からない。
今、分かるのは、そんな不可解な采配をした彼が、母国の監督にまで上り詰めようとしているらしいということだけである。
共催国の韓国は、あれこれ言われながらも、「ベスト4まで勝ち進んだ」。
審判のミスジャッジの問題は残るにせよ、そのような結果論的な事由だけで、世界最強を決定するスポーツの試合、それも団体競技のスポーツで、ベスト4に残ることは不可能だろう。
韓国が勝ち進むことができた理由もまた、今後分析されていくことだろう。
トルシエ監督とヒディンク監督の、戦術の優劣を語ることは、私にはできないが、それぞれのチームが得た成果を分けたものは、ひとえに「精神力の差」なのではなかったかと思う。
真っ赤に染まったスタンドの強力な後押しがあったとはいえ、欧州の強国との連戦で疲れ切った彼らの身体を突き動かしたのは、「精神力」だろう。
過去5回の出場にも関わらず、「1勝もしていない現実」は、選手を勝利への欲望にかき立てたはずである。
もちろん、「監督との信頼関係」や「チームに即した戦術」があってこそ成り立った「精神力」であるが。
反対に、日本は、同じ「未勝利国」とはいえ、出場はわずかに2回目。
前回大会の惨敗からして、「1次リーグ突破で十分」と考えてしまう関係者・選手を責めるのは、酷な話だろうか。
さらに、韓国と大きく異なり、選手と監督の信頼関係は、全くなかったようでもあるのだから。
しかし、そんな結果だったからこそ、日本人は、「精神力」という言葉について、改めて、真剣に考える時が来ているのではないかと思う。
スポーツに携わる人だけでなはなく、すべての人が。
2.精神力
「精神力」。
もしかしたら、中田英寿やイチローが、最も嫌う言葉の一つなのかもしれない。
彼らほどのスーパースターでなくとも、学校の部活や、それこそ職場でも、「精神力」なんて言葉を用いたら、真っ先に嫌われることだろう。
でも、「精神力」という言葉は、30年くらい前なら、かなり日常的に使われていたはずだ。
高校野球が、今ほどプロフェッショナル化する前には、NHKの放送で解説者が、何度も使ってきた言葉ではなかったかと思う。
ビジネス社会でも、「お前は精神力が足りない」などといわれることは、当たり前だったのではと思う。
しかし、いつの間にか、「精神力」という言葉は、人々から、特に若い世代には疎んじられる言葉の代表格になってしまった。
日本で、「精神力」という言葉が用いられる時には、概ね、「体育会的」という言葉とセットである。
そして、それはもっと遡れば、「軍隊的」という言葉につながっている。
第二次世界大戦の旧日本軍が、国内、国外で犯した数々の罪が、あまりにも「理不尽」であったことは事実なのだろう。
しかし、そのために、「精神力」という言葉までもが、「理不尽なことを飲み込んでまで発揮すべき心の力」と解釈されてしまうのは、大きな誤りなのではないだろうか。
「理不尽なこと」とは、「部下を納得させることを拒否した指導者層」が、「具体的で実現可能な戦略を持たないこと」から生まれる。
そして、自己の非戦略的な発想を覆い隠さんがために、「誤った精神論」が押しつけられてきた。
しかし、このような「誤った精神論」は、「精神論」と表現すべきではなく、「玉砕論」とでもいうべきだろう。
「玉砕」という漢字を見れば、どこか正当化しやすいのかも知れないが、それは間違いなく、パレスチナの「自爆テロ」と同義である。
「玉砕」などという言葉は、言葉の世界だけに閉じこめておくことこそが、若くして散っていった先達への、せめてもの「はなむけ」となると私は思う。
では、「精神力」とは、果たして何であるのか。
「勇気」と言い換える人もいるだろうし、「平常心」という人もいるだろう。
自分が携わるモノによって、表現の仕方は異なってくるはずである。
ただ、いずれにしても、「個人の心の持ち方」であることは間違いない。
19世紀の戦略家、カルル・フォン・クラウゼヴィッツは、「互いに戦う2つの国の兵力に差がある場合、最後の決め手となるのは精神力である」と語っている。
「兵力」というものは、(仮に2国間に差があっても、その差を埋めるべく)簡単に増強できるものではない。
だからこそ、統率者や兵隊一人一人の「精神力」が、極めて重要になるという意味である。
(近代軍事学の礎ともいうべき彼の言葉は、もしかしたら、彼の本意でない解釈をされたために、数多くの悲劇が生まれてしまったのかも知れない)
同じことが、スポーツにも当てはまらないだろうか。
今の日本では、幸いにも、戦争を、スポーツに置き換えて、論じることができる。
現代の世界レベルのスポーツにおいて、「研究(=マーケティング)されていない相手と戦うこと」は、ほぼありえないだろう。
例えば、今のサッカー日本代表が、ブラジルと戦ってすぐに勝てるかどうかは分からないが、「ブラジルチームの戦力分析」は、いとも簡単にできるはずである。
ブラジルに較べて、どの部分を、どのように強化すればよいかも、すぐに判断できるだろう。
しかし、日本の戦力を、一日にして強化することはできない。
だから、もし日本が、今、ブラジルと対戦するならば、比較弱国である日本の選手は、「精神力」こそが、重要なポイントとなると、私は思う。
勝手な推測だろうか。
では、先月のW杯におけるベルギー戦で、先制された日本の選手が肩を落としていたときに、「顔を上げろ」と中田英寿が檄を飛ばしたのは、なぜなのだろうか。
中田は、何を日本の他選手に求めたのだろうか。
先日見たテレビ番組で、中田はその時の心境を、「気持ちで負けるのがイヤだったから」と語っていた。
私は、その時、中田英寿こそ、「最後は精神力が勝負を決める」ということを、最も理解していると思った。
おそらく、彼が嫌悪するのは、「技術」や「体力」の伴わない「上辺だけの精神力」が語られることであり、技術も体力も十分なものを持つ、日本代表クラスのメンバーには、むしろ「精神力の重要性」こそ説きたかったことなのではなかったか。
サッカーの世界では、ドイツチームを表現するときに「ゲルマン魂」、アイルランドチームを表現するときに「アイリッシュ魂」という。
前者は、先日のW杯では、十分に発揮できたとは思えない。
しかし後者は、そのドイツ戦で、終了直前にアイルランドのロビー・キーンが奪ったゴール(決勝戦前までで、唯一ドイツのオリバー・カーンから奪ったゴール)で、その一端を垣間見た。
我々日本人は、「大和魂」という言葉を、正しく使える日は、来るのだろうか。
3.ビジネスでも精神論が語られるべき
翻って、我々が直面するビジネスでも、こんな時代だからこそ、ますます「精神力」が重要になってくると思うのである。
「マーケティング」というと、どうしても著名な理論や、分析モデルなどの「技巧」に走りがちである。
上述したように、インターネットがここまで浸透した現代では、「敵(競合)をマーケティングすること」は、さほど難しいことではない。
そのための戦術も、ちょっとした理論書を読めば、すぐに導き出されることだろう。
しかし、それでもなかなか、「ヒット商品」は生まれない。
なぜなのだろうか。
その商品は、「本当に開発したかった商品」なのだろうか。
「誰かに押しつけられて、やむなく作った商品」なのではないだろうか。
実は、世の中の商品開発においては、この問題は大きい。
商品開発のサイクルが短い業界では、開発担当者も、一人でいくつもの商品を担当するため、すべての商品に、同じだけの「愛情」を注ぐわけにもいかない。
本来なら、それではいけないのだろうが、時間的制約からも、それが許される状態ではないことは、多々ある。
現実には、そうであったとしても、おそらくどこかで、「勝負を賭ける商品」を開発しなくてはならない時が来るだろう。
その時に、いつもと同じモチベーションであってはならないことは、自明だろう。
なにも商品開発だけではない。
日々、地道に営業をする営業担当だって、システム管理の担当だって、テクニック的なものは、本を読めば分かる。
本に書いていなくても、ネットで少し調べれば、様々なことが簡単に分かる時代である。
しかし、いい営業ができるかどうか、いいシステムを構築できるかどうかは、一人一人の精神状態が、健全なものでなければ為し得ないのもまた、事実なのではないか。
NHKの「プロジェクトX」で取り上げていることが、すべて事実に即しているとも思えないが、あれについ感動してしまうのは、男たちが成し遂げようとすることに対しての、「熱い想い」が感じられるからだと思う。
そして、あの番組は、「ビジネスにおける精神力の重要性」を伝えようとしているのではないかと、私は思うのである。
4.健全な精神論を
本当に、ジーコが、サッカー日本代表の監督になりそうである。
彼が、日本の鹿島に来たときに、選手に植え付けようとしたのは、「プロ意識」だという。
フリーキックを決めるためには、「かく蹴るべし」ということを教えたのではなく、「プロであるために意識」を、まず教えたのである。
ジーコが、代表監督になっても、おそらく最初は、鹿島に初めて来たときと同じようなことを説くのではないだろうか。
「熱いハートで戦え」とか、「気持ちを前面に出して」とか。
そんな「戦術を教えないジーコ」に対して、もしかしたら批判が出ることがあるのではと、私は思う。
しかし、それはそれで間違っていないことを、是非証明して欲しい。
「3バック」がどうとか、「1トップ」がどうとか、そんなことは、すぐ模倣できることであるし、また模倣されることでもある。
でも、我々が、「アイリッシュ魂」を模倣することは、容易ではない。
できれば、リーダーとなった中田英寿が、きっぱりと言い切って欲しい。
「精神力こそが重要だ」と。
そしてここが、今後、サッカーの日本代表のレベルが上がっていくかどうかの、分かれ目となるはずである。
少し前に、「頑張れニッポン」と、日本を元気づけようとした総理大臣がいた。
国民にしてみれば、「無策の政治を棚に上げて、何を言うか」としか思えなかった。
「痛みを伴う構造改革」と、就任当初の小泉首相は言った。
気持ちとしては理解できたから、支持率も高かった。
しかし、なかなか成果が見えてこず、国民も我慢できずに、支持率は下がった。
韓国ヒディンク監督も、実績が挙がらず、敗北を続けていた頃には、「解任騒動」が起きたそうである。
精神論も重要だが、精神論だけで、実績が伴わないのは、もっと辛い。
誤解しないでいただきたいのは、「精神力」や「精神論」だけを語るのではなく、前提となるべき自分たちの「資産」や「技術」が何であるのかを、十分吟味した上で検討されるべきことである。
このことを踏まえないと、前述の「玉砕論」にしかならない。
W杯を機会に、日本で、もう少し「精神論」が語られるようになるといいと思う。
「健全な精神論」が、あちこちで語られるようになったとき、日本という国は、ビジネスの面でも、スポーツの面でも、もう少し前進できると思うのであるのだが、いかがだろうか。