No。075
改めてマーケティングを考える
2001.9.17
by Y.Tomizawa

色々考えたのですが、やっぱり書かざるを得ないでしょう。
ニューヨークで起きた同時多発テロ。
アメリカから見れば「テロ」ですが、別の人たちから見れば「聖戦」。
アメリカの「正義」も、別の人たちから見れば「悪魔」。
物事をひとつの視点から見てはいけないのは、マーケティングの鉄則。
今回の悲劇は悲劇として、哀しみの気持ちとは別に、冷静なマーケティングの目も忘れてはいけないと思います。

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折しも今日、あるところでマーケティングリサーチの勉強会をやらせていただくので、「市場調査ケーススタディ」(みき書房;後藤秀夫著)を読み返していました。
すると、日本マーケティング協会(JMA)によるマーケティングの定義が、次のように書いてありました。
『マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合活動である』
いいこと書いているじゃないですかJMAも。(^-^;)
そう、「グローバルな視野」に立って、「顧客と相互理解を得て」、「公正な競争」をするのがマーケティングなんですね。

今の世界は、この視点を忘れているような気がします。
アメリカも、その同盟国も、突っ込んできた彼らも、そして日本の宰相も。

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こういう事件が起きると、普段何気なく考えている企業間の競争も、当たり前だけど、絶対に侵してはならないことの上に成り立っているということを再認識させられます。
それは実は、単なる「きれいごと」なのかも知れません。
とくに、ああいう事実を突きつけられると、「きれいごと」を保ち続ける意志が揺らいできます。

でも、世の中、いや世界中どこであろうと、「きれいごと」があるから、健全に暮らしていけるのではないでしょうか。
この「きれいごと」は、「倫理観」ともいえるでしょうか。

少し論点がずれるかも知れませんが、日本ラグビーの頭脳でもあった大西鉄之祐氏の言葉を、ちょっと長いですが、ご紹介したいと思います。
元来スポーツ的行動は、種々の目的をもったものであったにせよ、それらと宗教とは非常に深い関連性を持っている。その関連性の根源となるものは闘争であり、闘争にともなう生と死、愛と憎悪、人間の誇り(尊厳)等は、解決をせまられた問題であった。(中略)闘争という非科学的な条件下において、科学的な技術と宗教的な無欲とが、見事に人間的な行動において統一されている。現代スポーツ精神に非常に大きな影響を与えたキリスト教と武術追求との融合であるヨーロッパの騎士道、禅と武術の融合である日本の武士道等の中にはその例証といえるものが多分にふくまれている。かれらは闘争の中に宗教的な倫理を注入し、人間的な行動にとって闘争を処理しうる先鞭をつけたと言えるであろう。
(『闘争の倫理』/大西鉄之祐、伴一憲、大竹正次、榮隆男/二玄社)
スポーツには、わかりやすく言ってしまえば、闘争心と倫理観をいかに合わせ持つかということだと、彼は問うていたわけです。
今回のできごとを見て、大西の言う、この「闘争の倫理」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。

では、マーケティングが、戦争と全く関係ないのかというと、そうではありません。
そもそも「キャンペーン」なんて「会戦」のことですし、「ロジスティック」は「後方支援」。
スポーツも、マーケティングも、所詮は、「戦争」がかたちを変えただけのものなのでしょうか?