北海道廃線跡紀行-9 手宮線1


南小樽駅手宮線ホーム跡?

南小樽駅の手宮線ホーム跡と思われる遺構。
手宮線略歴
 小樽を歩いていると、市街地を堂々と横切る廃線跡が不思議なほど残っているのを目にする。まるでつい最近、廃線されたかのようにレールなど道床跡はしっかり残り、踏切などの鉄道施設も目にする。だがこれは16年前の1985年に廃止された鉄道の跡で、北海道最初で、日本でも3番目の鉄道となった手宮線の跡だ。

 手宮-札幌-幌内間の官営の幌内鉄道として計画され、アメリカ人技師の指導により1880年(明治13年)11月11日に手宮-銭函間で仮運転をした後、同年同月28日に手宮-札幌間が開通した。そして明治15年には札幌-幌内間も開通し、石炭の搬出、札幌などへの荷物の輸送などに活躍した。 1889年(明治22年)に北海道炭坑鉄道に譲渡された後、1906年(明治39年)に国鉄に買収され、1918年(大正7年)に南小樽-手宮間は手宮線という名称に改められた。

 旅客輸送は1962年(昭和37年)5月14日で止められたが、貨物輸送は続けられた。だが石炭からから石油への産業エネルギーの転換、鉄道からトラックへの輸送手段の変化で1985年(昭和60年)11月4日で貨物輸送も終了し手宮線廃線となった。だが廃線後15年過ぎた今も、廃線跡2.8kmのほとんどは手付かずで放置と言っていい状態にある。

 小樽観光の折に何度か手宮線跡を見たり通ったりしたが、廃線跡巡りと言える事はしていなかったのでじっくり見ようと思った。

手宮線廃線跡探訪
 朝8時前に南小樽駅に降り立った。島式ホームの隣りにかつての手宮線ホームがあった。ホームは崩れかけ、跨線橋には手宮線ホームへの階段の造りが残っている。レールは剥がされているが、小樽側の少し先からはレールが見え、道床跡はほぼまっすぐ市街地に下り、函館本線高架はカーブをし手宮線と別を告げた。これは手宮線が先に造られた路線だという証なのかもしれない。

 南小樽駅の外に出た。外は生憎の小雨で、これ以上ひどくならなければいいがと願いつつ歩き始めた。花園橋から手宮線の掘割を見て少し歩き、住宅街の中にレールが残る道床跡を見つけた。雑草が茂っており、露で早くも靴を濡らしてしまう。単線のレールの両側に十分な空間があり建物を立てれない事も無いだろう。15年も残されている事がつくづく不思議だ。この先では寿司屋通りの上を通る橋があったが、さすがに橋桁は撤去され、道床の途切れ目にレンガの橋台が残るだけだ。

 雨が本降りになり自分の身とそれ以上にカメラを濡らさないようにと気を使いながら歩く。道床には踏切後も残る。道床後は中心街にさしかかり付近には店舗が多くなりアーケード街も近い。浅草通り近くに中間駅の色内駅があったという。小樽のメインストリートの中央通りには踏切遠くからでも認識しやすい位はっきり残っている。もう列車が通らない踏切のため「この踏切一時停止の必要ありません」と目立つように大きく書かれている。中央通に面した道床跡には、手宮線の成り立ちを説明した案内板が設置されている。

 さらに先に進むが雨は止まず、道床跡の露を含んだ草のせいで靴は既にびしょ濡れで、ジーンズの裾さえ濡れている。それならなんとか進めるが、あまりにも雑草生い茂り、また植物が背の高さまである道床跡もありそんな所を通ったら裾どころか全身びしょ濡れになってしまうので、さすがに避けて別の道を歩く。
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  函館本線分岐点付近

函館本線と別れ、横の掘割を行く手宮線跡。
まだ残るレール。

函館本線から少し離れた所に道床跡
が姿を現す。レールもしっかり残る。
寿司屋通りに残る橋台。

寿司屋通りの橋台跡。
中央通りの踏切跡

中央通りの踏切跡。「ここは一時停止の必要
ありません」の看板が目立つ。道路を横切る
レールはアスファルトに埋もれるように残る。
レールに寄り添う花

打ち棄てられたレールに寄り
添うように可憐な花が咲く。

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