Act.4 まだ〃友人〃という関係だけの時、火村への想いの丈に押しつぶされそうになって、幾度も眠れぬ夜を過ごした。友情だけではない想いを互いに確かめ合った直後は、片思いというものは、なんて辛く哀しい日々だったのかと、つくづく痛感した。一旦は消え去った不安と孤独感。けれど、時間が流れる毎に再びそれは増え始めていった。何故だろう。もう、独りではないはずなのに、何故こんなにも不安なんだろう。 離れていれば、何時だって火村の事を考えていた。 そして、漸く気づく現実――――。 思いがけず、躰に触れてくるその手のソフトさに胸が高鳴った。鋭い眼差しを裏切る優しいその触れ方に、胸が苦しくなった。女性の躰ではないのだから、そんな風に壊れ物を触るみたいに触れなくても大丈夫だということは、火村も承知の筈なのに……。想像以上に大切に扱われるその現実に、何故か翻弄された。 こんな風に扱われるのは堪えられない。 どうしたらいいのか判らなくなってしまう。 火村の前ではもっと毅然としていたいと願っているのに。彼の隠し持っている〃痛み〃を知りながらも、素知らぬ顔で接していられるくらい強くなりたいと願っているのに…。 火村に依存し過ぎないよう、生活していきたいだけだ。男女の恋愛ではないのだから、そこを弁えて接していきたいと思っていたのに。 そう云うのが、火村との付き合い方だと思っていた。 絶対に交わらない平行線。その距離は時には狭まって触れそうになるけれど、やはり何処まで行っても平行線の儘なのだ。 それで良い。そういうのが良いと思う。 交わらないけれど、何時までも離れない距離と想い。 それまでの人生で培ってきた有栖の概念を、火村は時折、事も無げに覆す事がある。 けれどそれは不愉快なものではなく、寧ろ心地の良い敗北感だった。 世間に捕らわれた…偽善にも近い良識ある思想。本当にそれは正しいのだろうか。理想ではあるが、結局は奇麗事を並べ立てているだけかも知れないではないか。そんな風に思っていても、誰もその考えを覆してくれる人間はいなかった。それが一般的に望まれる〃優しい人〃の在り方だったから。 何処かで僅かな矛盾を感じながらも、これでいいんだと、自分に言い聞かせてきた。誰も間違いだとは云わない。誰も否定しない。誰も…そんな考え方だけではないのだと、あからさまに議論してくる者などいなかったから。 だから、火村と出会った時には何故か楽になった。 自分とは異なる考えを持っている男で、だがそれを押しつける訳でもなく、口論はするが、その儘の自分達でいられる相手。それが、火村だった。 胸の裡では少しだけ、誰かに否定して貰いたかったのかもしれない。納得がいかない、それは偽善だと、素直な意見を述べて貰いたかったのかもしれない。 万人とは違う見解を持って生きている男。そんなふうに生きていても、世間から逸脱してしまう訳ではないと知って、有栖は救われた様な気がした。 だからといって、それまで自分が培ってきた概念を捨てる事もしなかった。逆に、火村という男を知って、それは捨ててはいけないものだと、それの必然性すら感じた程だ。 火村がそれを否定し続けてくれるのなら、心置きなく、自分はキレイゴトを唱え続けていこう。切実に、そう思った。 小説の中でとはいえ、何人もの人を殺している自分にとって、そのキレイゴトだけが、唯一自分の残された〃良心〃だと思っていたから。 それを捨ててしまったら、書く事が危ぶまれると感じていたから。だから、捨てられなかった訳だから。 誰かがそれを否定してくれるのなら、気持は楽になる。 物語の中で人を殺しておいて、〃良心〃を振りかざさなければやっていけない己のなかのジレンマ。だがそれで、傾き欠けた内側の何かの帳尻を合わせているのも確かで……。 自分は狡い…そんな風に思って生きて来たけれど、これからは胸を張って生きて行く事が出来る。否定されて安心するのも変だとは思うが、火村に否定される事で、自分は強がっていけるのだから。 そしてある日、ふと気づいたのだ。 あやふやでもやもやとした己の中のそんな違和感を、全く逆の方法でキレイに必然性を得るものとして片づけてくれる〃火村〃という男の存在がひどく絶大になっていたことに。 気がつけば、かけがえのないものになっていた。 それは所謂、愛とか恋とかという感情で、それと気づいた時にはもう手遅れだった。 それでも想いは叶って、今は友情と愛情とほぼ同じ比率で付き合っている。 けれど…火村を〃恋人〃と呼べるのだろうか? そんな安直なものではないような気がしてならない。 男女の仲ならば、恐ろしく簡単なその答えすら、火村との間では上手く成立しない。 けれど、こんなにも物事の見解が違う二人なのに、ずっと一緒に過ごしてきた。 付かず離れずの距離を保ながら……。 けれどそんな〃距離〃に最近、苛立と不安を抱き始めていた。 或る部分では相変わらず噛み合わないくせに、ある時ふと、あんなふうに優しく触れられる。そして、急に不安が沸き上がる。 大切に思われているのかも知れない。狡猾で隙が無く、ある意味不器用なこの男は、自分からは肝心な事を何一つ云わないくせに、彼が何を促しているのかが、手に取るように判る。 言葉では得られない〃愛〃だと思うそれを受ければ受ける程、どんどん不安は募るばかりだ。 こちらの手札は凡て曝け出しているというのに、火村の方は、有栖の知らないカードを幾つも隠し持っている。これだけが凡てじゃない。 自分が抱く火村への必然性は嫌と言う程判っている。なのに、火村が有栖でなければならない必然性を、彼は一向に見せてはくれない。 己の内に付随する、欠けた部分を埋めるように、小説を書いてきた。 〃火村〃という男の存在を知って、ある意味、書く理由を失いつつあった。 それは〃満たされている〃という充実感。この儘留まっていてもいいと思ってしまうくらいの安堵感。けれど、それは〃恐怖〃と背中合わせだ。 書けなくなった自分を本当に認められるのか? 凡てを書きつくしたのか? 溢れる創作意欲は、既に涸れてしまったのか? 本当に、書く〃必然性〃はないのか? 流されている―――― そう、気づいたのは最近の事だった。 危機感も無くお互いに逢える時間だけを共有して、逢えば躰を重ねて……。 火村がそうしたいと思っているから、躰を開いているだけだ。 言い訳にも似たそんな想いを、見透かされていたのかもしれない。 試してみる必要が在ったのは、自分だけだったのだ―――― 「……ひ…むら…ぁ…」 意識は混濁していた。けれど、躰の熱は一向に冷めなかった。 何時も以上に煽られていた。何時もからは考えられないくらいに、有栖も火村を煽っていた。塞いでいた欲望の赴く儘に。 もう駄目だと、幾度も弱音を吐いて、それでも際限なく膨れ上がる淫猥な欲望。躰を搦めて腰を卑猥に揺らめかせて、とっくに限界を越えた快楽にずぶずぶと沈んでいった。 濡れた声で幾度も火村の名前を呼んだ。そこにいるのは判っているのに、名前を呼んでいないと気が狂いそうになる程不安になった。 様々な屁理屈を並べ立てて、何も云わない火村だけを悪党呼ばわりしていた自分の浅はかさを、今なら認めてしまえる。 狡いのは、お互い様なのかもしれない。 溺れそうな、こんな悦楽の前でなら、素直にそう思ってしまってもいいと感じた。 「…あ…ぁ…っ、火…村ぁ…っ」 だから、もっと貪欲に在るがままに曝け出してしまおう。 「〃自分だけが〃…なんて、思ってんじゃ…ねぇぞ、馬鹿アリス」 余裕を装ってはいるが、火村の息もひどく上がっていた。 素直になれ…と、火村は云ってるのだろうか。 被害妄想のように深く思い込んでいる、その思い上がりを何とかしろと……。 火村が自分を必要とする〃理由〃は、まだ判らない。けれど、火村もまた、〃不安〃だから自分と一緒にいるのかもしれない。錯覚ではない愛情を捜しているのは、自分だけじゃないかもしれない。 「…ひむら……―――も…、もっ…と…や…」 口に出してしまえば、呆気いほど簡単な事だった。 → BACK to INDEX → NEXT → BACK |