Act.3





〃――――試してみたくないか?〃

 そんな冗談みたいな一言で、本当にそれを口に含んでしまった自分が、一番信じられなかった。そんな馬鹿なことを云い出した火村よりも。

 口の中に入れた瞬間それは、まるでラムネのように舌の上で崩れて溶けてしまった。クスリの効き目が早そうだと、それだけで知れる。

 最初に立ち上がったのは火村だった。無言のままに、彼は有栖の寝室へと向かっていた。寝室の扉に手を掛けるその瞬間、火村が背後にいる有栖を一瞥した。

 視線だけで語っていた。

 本当に試すつもりが在るなら、早く来い…と。

 幾ばくかの時間を置いて、有栖はのろのろとソファから腰を上げた。クスリの所為か、脈拍が速くなっていた。まるで、全身が心臓になってしまったみたいだった。耳鳴りが頭の中で反響しているように、ドクドクと激しく鼓動が波打った。

 火村が消えた扉をそっと開いて、暗がりの中、煙草を燻らせている男に、戸口に立ったまま、有栖は問かけた。

「……ほんまにこれ…そういうクスリ、なんか…?」

 上昇する熱。自分の身体の異変。認めているクセに、どうしても訊かずにはいられなかった。

「さあな。実はただの胃薬かも」

 そんなのは嘘だ。火村は、薄く嗤っていた。

 有栖はさり気なさを装って、ベッドの縁に腰掛けている火村の隣まで近づいて行った。

「……で、どうする?アリス」

 不意に耳元に寄せられた火村の口唇が、そっと囁いた。触れてはいない。けれど、僅かにかかる吐息だけで、全身が粟だった。

 此処まで来ておいて、〃どうする?〃は無いだろう。まだ何もしていないのに上がる息がひどく苦しくて、有栖は火村を睨み付けた。

「た…試してみたいって…云うたのは、お前やないか…っ」

 殆ど泣き言のように有栖は呟いた。

「俺は訊いただけだぜ?試してみたくないか…ってね。それを飲んだのはお前の勝手だろう?」

 確かにそうだ。物凄い好奇心に駆られてこのクスリを飲んだのは有栖の方だ。肉欲など、こんなクスリで簡単に左右される。それを、確かめてみたかった。その延長線上には、愛なんて錯覚で…誤解だって事を知る切っ掛けが見つかるかもしれないと思ったから。そう思い込む事が出来たのなら、ずっと楽になれると思った。

――――だから……。尚更いまの火村が憎かった。

 多分これはクスリの所為ばかりではない。怒りで、顔が一気に火照った。有栖は下唇を噛みしめて、更に火村を睨み付けた。

「ほんまにお前は…嫌なヤツやな…。俺を揶って、そんなに楽しいんか?」

 薄笑いを浮かべている火村は、含みのある声で返した。

「別に。今の儘じゃあ、それほど…」

 火村は、彼の為だけに置いてある、サイドテーブルの灰皿で煙草を揉み消した。

「お前は、おれがどうしたいかが知りたいんやろ?」

 悔しさを隠す事もせずに、有栖は唸るように呟いた。

 火村は、何時もそうだ。肝心な事は何も云わない。何時も有栖に云わせるように仕向けてくる。

 それが火村の狡さだと、有栖は思う。

 けれど、そんな事はずっと前から知っていた。知っているのに、先に口にするのは何時も有栖の方だった。火村のそんな狡猾さが嫌いで……嫌いだけれど、それが火村なのだと諦めて……。いや、多分、そういうのが火村なのだと理解してしまっているから。

 仕掛けて来るのは何時も火村。有栖が答えを出さなければ、何時まででもそこに踏み止まるだけだ。こんな所で、根気の無さが仇になる。

 そして、今回もまた……。

 有栖はベッドから立上がり、踵を返す。リビングのセンターテーブルに置かれたままだったそれを右手に掴んで、再び火村の居る寝室へ戻った。

「これが俺の答えや」

 握りしめた掌を火村の前でそっと開いた。

「お前も飲め」

 僅かに顫える掌に乗せた錠剤のシート。端の一つだけが空虚になったそれを、火村は伏せめがな眼で静かに凝視しているだけだった。

「火村…。お前が何を試したいのか知らへんけど、お前もこれを飲むんや」

「……飲んで―――」

 火村は、そこで一旦言葉を切った。落としていた視線をそこから上げて、座っている火村を見下ろす、薄闇に陰った有栖の瞳を覗き込んだ。

「……それから、どうするんだよ」

「〃それからどうするか〃やって?……そんなん、決まってるやないか」

 云いざま、有栖は裏側のアルミを破って、白い粒を二つ取り出した。そのまま、自分の口の中へと放り込んだ。

 ――――カリッ……

 軽く噛み砕くと、嫌な粉っぽさと苦さが口腔に広がった。そんな有栖の一部始終を冷静な眼で見ていた憎たらしい男に、有栖は覆いかぶさるように凭れ込んで、彼の背中をシーツに押しつけた。

「―――アリ……」

 名前を呼びかけたその口唇を、有栖はそっと塞いだ。どうせ、肝心な事など云ってくれないのだから、いっそ喋らない方がずっとマシだ。

 何時もなら火村から仕掛けて来るようなキスを、今日は有栖から仕向けた。

 口の中に広がる苦さを、火村の舌にも味合わせてやる。

 その時、ゴクリ…と、火村の喉が上下するのを感じた。

 絡み合う舌。何時の間にか、有栖の方が翻弄され始めていた。熱が、躰中を支配していた。押し倒した筈の体勢は直ぐさま反転されて、貪る様なその口接は、完全に火村の独壇場になっていた。

 それでも有栖は口唇が離れたその瞬間、負け惜しみのような一言を火村に向かって呟いた。

 「火…村。お前も…おれと同じ…なれば…いい…」

 躰中が燃え尽きてしまいそうなこの熱を。闇雲に焦がれるだけで先の見えないこの想いを…。様々なジレンマに苛まれながらも逃げる事の出来ないこの不安と苛立を……。

 火村も、自分と同じように味わえばいい。

 ――――凡てを、これの所為にしてしまおうか……。

 今なら、許されるかもしれない。性別、未来、概念。凡てをかなぐり捨ててこの背中に縋ってしまっても…。

 何もかもを超越して、自分には必要なのだからと素直に欲求を曝け出しても許されるかもしれない。

 凡てはこれの所為なのだから……。

 疼く腰を…諦めではなく、貪欲な己の欲望に促されるまま、脚を開いて。

 〃想い〃だけでは物足りないのだから仕方がない。火村の熱に穿たれる事を望み、それを強烈な快楽として受け止める自分の躰を嫌悪する事もなく、なんの躊躇も持たずに心の熱と同じ質量で、躰で火村を受け止める。それを…それが、自分が望んでいたものだと、楽観的に受け止める事が出来そうで……。

 この時を、待っていたのかも知れない。

 ふと、そんなふうに思った。





 ――――火村も今、自分と同じ気持なのだろうか……。





 肉を貪り遭う獣の様に、互いの快楽を貪欲に求める。深い所へ陥る夢を見た。













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