Act.2





 時刻は午後十一時を少しばかり回った頃だった。多少親しいだけの間柄の友人の家を訪問するのであれば、間違いなく非常識だと思われる時間帯だ。

 火村は、何の躊躇いも無くそのインターフォンを押した。

 こんな時間に訪れる相手など知れていると思われているのか、その部屋の住人は躊躇せずに玄関の扉を開いて火村を迎え入れてくれた。

「アリス…。最近は物騒なんだから、誰が来たかくらい確認してからドアを開けるように習慣づけろよ」

 余りにも無用心な有栖につい、小言が出た。

「実際開けたら火村やったんやから、ええやないか」

 女子供やあるまいし…と、有栖は火村の心配を軽く笑い飛ばした。そう云われてしまうと、二の句も出ない。

「ご苦労さんやなぁ。こんな遅くまで、フィールドワークか?」

 玄関から繋がるリビングへと先に歩いて行く有栖が、背中越しにチラリと振り返りながら訊ねて来た。

「まぁ、そんなところだ」

 緩く締められたネクタイの結び目に人差し指を引っかけて、火村はそれを完全に解いてしまう。ドサリ…とソファに腰を降ろしながら、ポケットの中から煙草とライターを取り出した。

 火村がキャメルに火を点けたその瞬間に、センターテーブルの上に灰皿が用意された。

 この部屋では、火村が現れた時以外は殆ど使用されない灰皿だ。

「―――で、今回はどんな事件を追ってるんや?」

 向かい側のソファに腰を下ろした有栖は、興味津々といった態で身体を僅かに乗り出し、訊ねてくる。

「一週間ほど前に、N市のラブホテルで女の変死体が発見されただろう」

「ああ、それなら知ってる。新聞に載ってたやつやな」

「死斑の出方から見て、殺害されてからそのホテルに運ばれたのが判った」

 センターテーブル越しに前のめりに顔を突き出している有栖にわざと煙草の煙を吹き掛けてやったが、彼はその煙を右手で散らしただけで遠ざかろうとはしなかった。

「車で運ばれたって事なんか?」

「あの辺りは大阪って云っても田舎だからな。地方に行くとよく見かける様な、車でそのまま部屋の前迄で入れるタイプのラブホテルとか在るだろう。平日の午後っていう時間帯も、多分計算の内だろう。目撃されることもなく、犯人は死体の女と一緒にホテルの部屋へしけこんだんだ。しかも、死体は堂々と助手席に座らせてな」

「大胆な奴やなぁ…。死体と一緒にしけこんだやなんて…。なんか、グロテスクやな」

「これくらいの事でグロテスクだなんて云ってるなよ」

 眉間に皺を寄せて顔を歪ませている有栖に遠慮することなく、火村は続けた。

「犯人は被害者を彼女の自宅で殺害している。顔見知りの犯行ってヤツだな。しかも犯人と被害者は付き合ってたんだ」

「……恋人同士…だったって云うんか?」

「らしいな」

 煙草の煙を吐き捨てながら、火村はつまらなさそうな声音で云った。

「怨恨の縺れってところなんか?」

「いや、そうでもないらしい」

「じゃ、どうして自分の彼女を殺してしまったんや」

 疑問、というよりは、有栖のその眼はやはり好奇心に促されているといった色で火村を見ていた。毎日、人を殺す事ばかりを考えている。その手段を、理由を。人間が人間を殺す為の動機と方法を考えている有栖にとって、火村のフィールドワークでの話は、子供が欲しがる菓子よりも甘いそれなのだろうか。

 無邪気な顔をして、こんな恐ろしい話を瞳を輝かせて先をせがむ有栖は、ある意味怖い存在だと思う。

 ――――しかし、そんな有栖に惹かれているのだから、仕方がない。

 諦めにも似た心境の中、火村は僅かに身体を前のめりにしてテーブルの上に在る灰皿に喫いかけの煙草を揉み消した。

「ちょっと、試してみたんだとさ」

 ぶっきらぼうな言い方でそう云うと、有栖は訳がわからないといったふうに顔を歪ませた。

「……試したって、何を…?」

 火村は徐に、内ポケットからそれを取り出し、テーブルの上に置いた。

「これ、なんや?」

 横二列、縦十二列、計二十四粒の白い錠剤のシートを手にとって、有栖は訝しげな表情を浮かべた。

「クスリだよ」

 火村はぽつりと、どこか億劫そうに呟いた。

「クスリって…。そんなん、見れば誰だってわかるっちゅーねん。これが何のクスリか訊いてるんやないか」

 そんな有栖の反応は至極当たり前で、だがそれを説明するのは少しばかり億劫だ。

「習慣性の無い、一種の興奮剤」

「せやったらこれ…び…媚薬か……?」

「つまり、そう云う事さ」

 口を半開きにして惚けた表情を見せる有栖の指先からそれを掠め取って、火村は口許だけで薄く嗤った。

「犯人はこれを…試した訳やな。その…自分の彼女と」

 云いにくそうに有栖は表情を僅かに歪めていた。

「運が悪かったんだな。クスリを飲んでやっちまってる間に、犯人の男が我を忘れまったっていうか、本性が出ちまったって云うか。元々そういう趣向の奴だったのかもしれない。気分が良いまんま、思わず女の頸を締めて殺してたんだ」

「……………………」

 有栖は絶句したまま、火村が人指し指と中指とで挟んでゆらゆらと揺らしている錠剤のシートを見つめていた。

「なぁ、アリス」

 火村はその白い粒に視線を合わせたまま、有栖を呼んだ。

「……ん?……なんや…?」

 火村の声に軽く弾かれたかのように、有栖は、指先に挟んだそれを見つめる火村を物憂げに見遣った。

「我を忘れちまうくらいの強烈な快楽ってのは、一体どんなもんだと思う?彼女の命と引き換えにしたほどの快楽だ。…さぞかし、凄いんだろうな」

「………………」

 何も応えない有栖に、火村は尚も続けた。

「一度くらい、試してみたくないか?……なぁ、アリス……」

 低い火村の声。

 汗が一筋、有栖のこめかみの辺りを通り過ぎた。

 ゴクリ…と我知らず、喉を鳴らしたその時、火村がひどく悪戯っぽい眼で嗤った。













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