Act.1 暦の上では既に秋を迎えていたが、まだ残暑の厳しさを引きずっている九月初旬。熱気の漂う自室で一人、論文を作成してた火村のもとに、一本の電話が入った。 呼び出しの電子音はひどく癇にさわる。折角暑さを誤魔化しながらパソコンのキーボードを打っていたというのに、一気に興が削がれた。火村は、やや苛立った仕種で銜えていた煙草を灰皿に揉み消し、受話器に手を伸ばした。 「はい、火村です」 『あ、お忙しい所申し訳ありません。森下です』 大阪府警の森下刑事からの電話だった。 彼とは、知り合ってからまだ日が浅い。むさ苦しい叩き上げの刑事達の中で、彼は一人だけひどく浮いた存在だ。まだ新人だからということもあるだろうが、刑事にしては恐ろしく爽やかな青年だ。人を疑うという事に関しては、専業作家になったばかりの有栖の方が、ずっと毒されている部分がある。メガネ屋の息子だと聞いた事があるが、何時も身につけているアルマーニのスーツは、一体どうやって購入しているのだろう。そこの所は、未だに謎のままだ。 『―――で、例の件ですけど、火村先生が睨んでいた通りでした』 その本題に入るまでの余談が長すぎた。火村は半分あくびをかみ殺した状態で森下の話を聞いていた。 『しかし、あんなものを使って、本当に犯罪を侵してしまうなんて…』 「まぁ、あれも今はまだ合法ですから。簡単に手に入る代物ですよ」 漸く、火村は初めて受け答えらしい言葉を森下に返した。 『合法って云っても、火村先生…。1シート七千円でしたっけ?あんな物が端金で買えちゃうなんて…。今の時代、中学生だって買える金額ですよ?』 新米刑事の安月給でイタリアンブランド物のスーツばかりを身につけている若造がよく云う……。 顔が見えない事をいい事に、火村は声を出さずに、片頬だけを皮肉気に歪めた。 『ほんま、怖い世の中になってしまいましたねぇ…。愛なんて、金や物で手に入れるものやないってことくらい、きっと誰でも判ってるはずやのに……』 この青年は、本当に青臭い事を云う。それが、森下の良いところなのかもしれないが、火村には、その若さがひどく鼻についた。 「……で、出所は判ったんですか?」 『あ…それなんですけど、実はまだなんです。粗方の目星はつけてるんですけど…。それが判ればホシも絞り込めるとは思うんですけどね…』 「こらも見当をつけている所が幾つか在るので、それを当たってみます」 『僕も一緒に行きましょうか?』 「いや、一人で行った方が怪しまれないでしょう」 『大丈夫ですか?』 こらは警察の肩書きなど無い、一般人だということを心慮してくれているのは判るが、森下を一人で行かせるよりはずっと安全だろう。勿論、そんな本音を本人に云う気はない。 「試しに、1シートくらい買ってみようかな…」 『火村先生、意外と冗談が好きですねぇ』 ニヤけた声で揶うようにそう云われ、火村は軽く嗤った。 『火村先生やったら、そんなの必要ないでしょう?』 冗談とも本気とも取れる森下のそんな言葉に、火村はなにも答えなかった。 それから直ぐに、森下との電話を切った。 一つの座布団の上に仲良く寝ている二匹の飼い猫の姿を横目に見て、優しい笑みが不意に溢れた。 寝入っている猫達の頭を交互に撫でてやると、邪魔をするなと言わんばかりに、小次郎が火村の撫でた頭を前足で隠し、それを見て火村は微苦笑を浮かべた。 書きかけの論文のバックアップをとり、火村はパソコンの電源を落とした。 立ち上がり、キャメルとライターをシャツの胸ポケットに押し込んで、火村は京都から 少しばかり離れたその街へと出掛けることんした。 ――――有栖の住む、大阪へ……。 → BACK to INDEX → NEXT → BACK |