
あれやこれや
カイト化学工業という会社があります.ラミネートフィルムのスペシャリスト.大田区大
森の東海道線の線路際にあった海渡化学の工場はカイト化学工業の前身ではなか
ったかと思います.間違っていたらお許しを.
小学校高学年の頃,つまり昭和30年代中程の話です.学校の裏100m程の所に東
海道線,その向こう側に海渡化学という大きな工場がありました.その工場が火事
になったのです.今と変わらない業種だとすると有機化学合成の工場だったはずで
す.ということは,並みの火事ではありません.濛々たる黒煙.その黒煙の切れ目に
見え隠れする炎,“見よあの怖ろしい炎を”.←横道にそれそうなのをジッと我慢(オ
ペラファンのひとりごとです).何千台(実は数十台?)という消防車のけたたましい
サイレンと鐘の音.最近,防災思想が普及したせいか消防車の出動風景を余り見
なくなりましたが,当時は日常茶飯事でした.“火事と喧嘩は江戸の花”の伝統が色
濃く残っていたのです(まさか).その日常の消防車の出動とは桁違い.今に至るまで
これほどの騒ぎは見たことがありません.
当然,授業どころではありません.屋上で火事見学をしているクラスもありました.こ
ういう特殊な火事を見るのは単なる野次馬根性ではありません.得難い社会体験.
最高の教育の場だと思います.そのクラスの機転のきく先生は生徒に貴重な体験を
させることができました.ところが,我らがN先生は名うての頑固者.平然と授業を続
けるんです.なにしろ食えないという私に無理矢理肉のかたまりを飲み込ませようと
した人です(2006.3.24 偏食).千載一遇のこの教育の機会をノイズとしか捉えられな
かったのです.
授業時間も終わり,地獄の給食も終わり,待ちに待った昼休み.やることは決まって
ますよね.そう,自主的社会見学.と言っても,現場までは怖くて近づけません.精
一杯線路際まで行って,将来の,工場災害への対策と心構えの考え方をしっかりと
身につけてきました.その体験学習の成果が現職場(化学会社)で生きているという
訳です.そろそろ昼休みも終わるし,社会見学も果たしたし,ということで学校に戻っ
て見たものは・・・別名:原爆先生として怖れられていたN先生の伝家の宝刀,原爆
の炸裂でした.
“誰が行って良いと言ったんですか?”・・・“誰も”・・・“じゃどうして行ったんです
か?”・・・“みんなが行くから”・・・“それは卑怯者の言い訳です”・・・“ギャフン”.言
い訳でも何でもなく事実だったんです.今でもそうですが,卑怯者という言葉に私は
弱い.正義の味方である私にとって最も憎むべき輩こそが卑怯者ですので,自分の
ことを卑怯者と言われてしまうと,もう頭の中はパニックでシッチャカメッチャカ.みん
な(多くの子供達)の流れが火事現場だったので,下らない給食に付き合わされた
私も後れを取るまいと大あわてで見に行ったというのが紛れもない事実なのです.
卑怯でも何でもありません.今,考えてみても卑怯者と言われた理由が分かりませ
んし,未だに,偏食の強制矯正とともに卑怯者呼ばわりされた不愉快さを何かにつ
けて思い出してしまうのです.
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