まず始めに、「私は日本人である」。
このことを明記しておきたいと思います。
無論、「日本人で日本語がわかるから好き」というわけではありません。
日本人であっても英語のほうが堪能である人もいるでしょうし、
その逆も十分ありえると思います。
ですが、言語は文化です。
日本文化に長く慣れ親しんだ私には、日本語について、
より細かい部分が理解できるように思います。
小学生か中学生の頃の国語の教科書に、
様々な地域における言語の違いについて書かれた文章があり、
その中では、いくつか面白いものが例として挙げられていました。
「日本語では『水』と『お湯』という別の単語があるが、英語は『water』に『hot』が
つくだけである。」
「日本語では、『稲』、『米』、『ごはん』と分かれているが、英語では『rice』だけである。」
その文章によると、詳細な意味を持つ単語があるかどうかが、その地域にとって、
その単語が如何に重要であるかを表しているんだそうで、
「砂漠の多いある地域では、ラクダが生活に密接な関係にあり、
そこでは、『妊娠しているラクダ』なんて単語まである」んだそうです。
この文章を読んで、日本語に興味を持つようになった、というわけではありませんでしたが、
印象が強かった文章として、私の頭の中に残っていました。
話はいっきにとんで、大学2年の夏。
私はサークルの友人たちと、中国の南京へ1ヶ月の短期留学に行きました。
語学留学でしたので、中国語の勉強になったのはもちろんなのですが、
あちらの大学で日本語を教えていらっしゃる方にいろいろとお世話になり、
その関係で日本語を学ぶ中国人の学生さんたちと交流する機会がありました。
その学生さんたちにいくつか質問されて気付いたことがあります。
私(たち)が普段何気なく使っている日本語。
これについて、私(たち)は本当に「何気なく」でしか使っていなかったのです。
私は、自慢するわけではないのですが、昔から「国語」というものが得意で、
そのため、「日本語」についてもそれなりに自信がありました。
ところが、その質問を受けた時には「国語」の知識はほとんど役に立たず、
私の中の自信は、実にあっさりと崩れてしまったのです。
自分の周りの日本語について、細かく深く考えるようになったのは、
おそらくそれからだと思います。
次回からは、その頃からの思索の内容や、
ふと思った日本語に関することなどについて、書いていこうと思っています。