谷汲線廃線跡を歩く(2)


谷汲線廃線跡、管瀬川の鉄橋

管瀬川の鉄橋。
谷汲線廃線跡11.2kmを歩く
 長瀬から更に道床の上を歩き、管瀬川の鉄橋に突き当たる。危険防止のため、ここにも柵が設置されている。少し長く、万が一落ちたら危ないので、ここだけは廃線跡を忠実に辿るのを避け、道路へ迂回をした。

 再び廃線跡に戻り、少し進むと、長良川の支流の根尾川が見えた。向こう岸には樽見鉄道のレールがあり、ちょうど単行のレールバスが川岸沿いに走り過ぎていく。谷汲線亡き後の谷汲の最寄駅は樽見鉄道の谷汲口だ。谷汲口から谷汲山までは約4km,、バスで8分で、観光をするのに困らない程度の本数はある。また、樽見鉄道の終点、樽見駅からは樹齢おそよ1500年の薄墨桜が徒歩圏内で、毎年多くの人で賑わう。桜の開花時期は薄墨桜と谷汲山という、この地方有数の桜の名所へ行ける列車として魅力的だ。

 山の間を川が流れるのどかな景色を眺めながら歩くのは、ハイキングのようで楽しい。だが空気がいまいち良くない。道路がすぐ右側に寄り添い、車が頻繁に通り排気ガス臭い。ダンプカーが通る時は、思わず息を止め、口に手を当てるが、排気ガスから逃れる術は無い。

 約2時間も道床跡のバラストを踏み歩き続け、北野畑駅に着いた。谷汲山命日や桜の開花時期は列車が増発され、この駅でモ750やモ510などの古豪同士が行き違いをしていた。谷汲線にしては広い構内やポイントが、一年の内のほんのひと時の賑わいを偲ばせる。周りに住宅は少なく、住友セメントの工場があり、そのせいか空気はあまり良くない。

 そう言えば、谷汲線廃止後の初の谷汲山の命日に訪れた人は激減し、参道のお店の人などを嘆かせたという。車社会と化し利用者が減り廃線となったが、それでも谷汲線を頼りに命日には谷汲山に行っていた人も少なからず居たのだ。谷汲線が無くなり、訪れる人まで減ってしまったら、谷汲村があまりにも惨めな気がするので、これが一時的なものだといいのだが…。

 更地駅を過ぎた辺りからは山の景色からどんどん遠ざかり、平地に至り周りの景色が開ける。畑や空地が多い中に伸びる谷汲線跡沿いに住宅が徐々に増えてきた。

 午後4時になり太陽は傾き、レールの行く先にあるかのように見える。そして、太陽の光が赤錆びたレールに強く射し、輝きを失ったはずのレールが眩しく光を放つ。まるで谷汲線が蘇ったかのような幻想…。

 暗くならないうちに黒野駅に到着したく、少しピッチを上げバラストをジャリジャリ言わせながら歩く。稲富、豊木、北黒野はまだ駅が残り、沿線はもうすっかり住宅街だ。竹鼻線の時のように、何度も飼い犬に吠えられる。

廃線跡上で身を休めるモ750
 谷汲線と同じ日に廃止された揖斐線末端部の廃線跡が右手に見え、少し先でレールは初めて途切れた。途切れ目にはコンクリートの電柱が立ち行き止まりになっている。そして電柱の向こう側の残っているレールの上にはモ750形の754が鎮座していた。そして、隣りの揖斐線末端部の廃線上にはバラストを積む保線用の貨車が何両も連なり留置されていた。2つの廃線跡はまるで黒野駅構内に取り込まれたかのようだ。

 黒野駅の構内にはモ750の755がモ510と共に留置されている。モ751はどこかに行っているのか、黒野駅構内では見なかった。モ750形は定期運用は離脱したものの、まだ廃車ではない。時々動かさないとすぐガタがきてしまうので、パンタグラフを昇降させたり、黒野駅構内を動かされているらしい。

 モ750は誕生から70年以上が過ぎ、谷汲、揖斐線末端部が廃止になった今、廃車にされてもおかしくない。だが詳しい理由は解からないが、今も除籍されていない。一時は保存という話もあったというが、立ち消えになったらしい。いずれ廃車にされる運命にはあるのだろう。ファンの勝手な願いだが、70年以上の活躍を称え、責めて1両は美しい状態で静態保存される事を願って止まない。
北野畑駅駅舎

北野畑駅駅舎。中間駅では唯一、駅舎らしい
駅舎があり、構内は交換設備もある。
谷汲から下ってきた

山から下りるように谷汲線跡を歩き続ける。
更地駅

更地駅。春になるとホーム上の桜が満開し
華やかなムードだった。谷汲線亡き後この
木はどうなってしまうのだろう…。
まだ残るレール

線路に腰を降ろし一休み。
住宅街に伸びる谷汲線のレール

豊木辺りから周りはすっかり住宅街
の風景になる。
黒野駅付近の谷汲線廃線跡とモ750形

黒野駅付近の揖斐線末端部跡と交わる
直前でレールが途切れる。反対側の
レール上にモ750(754)が留置されていた。

TOP鉄道廃線跡の旅

谷汲線廃線跡を歩く[1]-[2]

my旅BOX-鉄道旅行と旅 Copyright(C) 2003 solano, All rights reserved.