大社線の略歴と印象 大社線は出雲大社へのへの参詣客を運ぶために、明治45年に島根県の出雲今市(現、出雲市)−大社間の7.5kmが開業した。山陰本線の優等列車や、全国各地からの団体列車も乗り入れるなど参拝客で活況を呈し、お召し列車も入線するという栄光に浴した事もあった。 だがそんな大社線にもモータリゼーションの波が押し寄せ、大社線を利用して出雲大社へ参拝をする人や地元の利用客も減少し、ただのローカル線となってしまった。そして、第3次特定地方交通線に指定され、JR西日本時代の平成2年(1902)3月31日を最後に廃止、バス転換された。1980年に成立した国鉄再建法で採算の合わない83もの赤字ローカル線が特定地方交通線に指定され、どんどん廃止されていった。その最後として、同日に大社線、鍛冶屋線が廃止、バス転換、宮津線が第3セクター鉄道化され、約7年間続いてきた国鉄赤字ローカル線廃止の嵐が止んだ事になる。 私は大社線に乗った事は無かった。だが、幼い頃、名古屋を出て小浜線、宮津線、山陰本線などを経て大社へ向う急行「大社」は、私の住んでいる所が始発で、一日中走って目的地に至る壮大さに、子供心に「すごい列車だな」と思っていた。また大社駅はお寺みたいな豪勢な駅舎だという事を知っていて、いつか急行大社に乗って大社駅、出雲大社に行きたいと憧れの気持ちを抱きながら思っていた。 だが、成長するにつれ鉄道への関心を一時的に無くていて、再び関心を持つようになった時、気が付いたら急行大社は無くなっていた。鉄道趣味が復活した時は特に北海道の鉄道に関心が向いていた事もあり、大社線の廃止を知りつつも乗りに行きさえしなかった。 |
下り | 9:10 = |
= 8:53 |
11:28 | 13:01 | 14:06 | 15:17 | 17:07 | 18:57 | 20:07 | 20:24 |
名古屋 | 金沢 | 敦賀 | 東舞鶴 | 天橋立 | 豊岡 | 鳥取 | 米子 | 出雲市 | 大社 | |
上り | 18:40 = |
= 18:40 |
16:46 16:51 |
14:56 | 13:59 | 12:52 | 11:04 | 9:17 | 8:01 | = |
*出雲市-大社間普通、上りは出雲市始発
*金沢-米子の編成もあり、敦賀-米子間で併結していた。
*終着駅以外は発時刻。
山陰本線との分岐点跡。乗ってきたムーンライト 八重垣が回送される。ここから大社線跡を転用 したサイクリングロードが始まる。 |
大社線廃線跡を歩く 高架の出雲市駅に降り立ち、駅前のロータリーに出て左に曲がり高架沿いに15分歩くとかつての山陰本線と大社線の分岐点の踏切に着いた。出雲市駅方を見ると山陰本線に沿うように雑草に覆われた大社線の道床跡が残っている。 ここからは大社に向っては、大社線跡の一部が自転車道になっている。自転車道入り口には「自転車道につき一般車両は通行できません」の看板と車止めが立ち塞がり、単線を思わせる幅の細いアスファルトの道路が右にカーブしながら伸びている。 |
大社線跡のサイクリングロード。かつては 鉄道関係の施設だったと思われる電柱が 雑草の間に佇む。 |
サイクリングロードを歩いていると、、制服姿で自転車に乗ってる学生と何回もすれ違う。年始の土曜日でまだ学校は冬休みのはずなのに、部活動か何かだろうか?新年早々ご苦労様だ。休校日でもこれだけ学生とすれ違うのだから、学校がある時の朝夕は結構賑わうのだろう。 今日はとても風が強い日で、まるで私を押し戻そうかとするような風が強く吹く。おかげで無造作にポケットに突っ込んでおいた国土地理院2万5千分の1地形図がいつのまにか風に飛ばされ無くなっていた。大社線の跡が単純なのが幸いして困りはしなかったが・・・。写真を撮る時はカメラがブレないように、風が弱くなった時を狙ってシャッターを切らなければいけなく、いつも以上に気を遣う。 |
踏切関係の機器、遮断機の土台など が随所に残っている。 |
レールは剥がされ、道床は整地され、アスファルトのサイクリングロードが続く。だが随所に鉄道の機器や施設が残されている。踏切跡は踏切の機器、遮断機の土台などがそのまま残り、キロポストなどの鉄道標識もよく残っている。 |
風化しつつある3km(?)のキロポスト |
歩き始めて1時間弱すると、コンクリートのキロポストらしきものがあった。廃止から10年、今日のような強い風に晒され続け削られてしまったのだろうか?かつては真っ直ぐで、先が鋭角的だったのだろうが、ペンキが剥げ落ち、朽ちて形が微妙に変わり、まるで風化してしまったかのような姿だ。かすかに残っている黒いペンキを辿ると3の形になった。 |
鉄橋跡 |
鉄橋もサイクリングロードに転用されていた。錆が目立ち古びている。付いているプレートを見ると、英文で製造元が書かれている下に日本語で「場工分庫兵○○造嵜川」と製造元が昔のように右側から旧字体の漢字が混じりながら書かれていた。かなり古いもののようだが、相変わらず活躍している姿が頼もしい。(※) |
出雲高松駅ホーム |
一つ目の駅の出雲高松駅に到着。廃止から数年はホーム上に待合室や駅名票が残っていたというが、既に撤去されていた。ホーム上には、錆びた駅名票の白いポールが雑草の中に埋もれるように倒れていた。 すれ違いもできる島式ホームで、反対側の線は雑草に埋め尽くされている。それにしても、廃止になったローカル線には不似合いな長いホームだ。東海道本線など本線系のホームが古く、現状ではとても長いと感じるのと同じ印象を受ける。大社線の最盛期は全国から数多くの臨時団体列車が乗り入れ、円滑な運行のためこの駅ですれ違いが行われていたのだろう。華やかだった昔が偲ばれる。 |
サイクリングロードが一旦終り、未整備の 道床跡が続く。 |
出雲高松駅を過ぎ少し歩くとサイクリングロードは一旦終り、無舗装の廃線跡が続く。学校の裏をカーブし、雑草が茂る道床跡が続いたが、目の前に内藤川が立ちはだかる。橋だけでなく橋台も撤去されていた。ただ、対岸で途切れる無舗装道が、こちら側の道床跡といかにもかつては続いていたかの場所で途切れていて、こちら側の廃線跡沿いには鉄道標識がぽつんと残っているのが鉄道の面影を留める。 |
(※)○○の部分ははっきり認識できなかったのですが、英文の社名の「dockyard(造船所)」
という単語から「所船造」、全体を現代風に直すと「川嵜造船所兵庫分工場」と旧字を含み
書いてあったと思われます。ちょっと調べてみると、鉄道車両製造も手がける川崎重工業(株)
の起源となった川崎造船所が1906年に兵庫分工場を設立し、機関車や客車、貨車、橋桁の
製造を始めたとの事です。ちなみに橋梁は川崎重工業(株)となった今も製造され、
日本だけでなく世界中で活躍しています。
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