1970年代後半、ある日の夜9時、夜遅くにも関わらず、名古屋駅のホーム先端にはカメラを手にした多くの鉄道少年がいた。その中に私もいた。私達の目的はこれから続々と東京からやってきて、西日本、九州方面を目指すブルートレインをこの目で見て、写真に収める事だった。小学生までの男の子と言えば、多かれ少なかれ鉄道への興味があるものだが、その頃は「ブルートレインブーム」と呼ばれるほど、ブルートレインが特に人気を集めた時で、鉄道少年にとってブルートレインは数ある列車の中で、まさにトップスター的存在で憧れの的だったのだ。当時、夜遅くに小学生が一人で出歩く事は珍しかったので、子供には親が同伴していて、私も父親が同伴していた。 トップバッターは長崎・佐世保行きの「さくら」だ。その後も、鹿児島本線経由の西鹿児島行き「はやぶさ」、日豊本線経由の西鹿児島行き「富士」、熊本・長崎行きの「みずほ」、博多行き「あさかぜ1号」、浜田行き「出雲」、下関行き「あさかぜ3号」と、0時までの間、約30分に1本の割合で、寝台特急が名古屋駅に到着しては西へと旅立っていた。列車が来るたびに、先頭に立つヘッドマークを付けた機関車付近には、コンパクトカメラを手にした子供が群がり、2分ばかりの停車時間の間に、パシャパシャと撮影していたものだった。(※列車の到着・出発順は正確ではないかもしれません) そんなブルートレインブームに乗って、人野球漫画「ドカベン」に、ブルートレイン学園という高校が登場した。荒唐無稽だが、漫画らしくそこがまた楽しい設定だ。甲子園で、主役の山田太郎が在籍する明訓高校の対戦相手として登場し、試合が長引き、夜になったら本領を発揮し明訓高校を追い詰めるという内容だったと思う。ブルートレインだけに、夜に活躍するのはさすがだ(笑) 「2426…」、子供の頃に覚え、今でも覚えている数字だ。それは当時、日本最長運転時間・距離を誇った寝台特急「富士」の下りの運転所要時間で、東京−西鹿児島間の1,574.2kmを24時間26分掛けて結んでいた。前日に出た富士号が終点の西鹿児島を目前にしている頃、翌日の富士号は西鹿児島を目指し横浜付近を走っているのだ。丸1日掛けて走る壮大さが印象に残り、私は富士号をブルートレインの頂点に立つ存在と受け止めていた。その印象ゆえ意識して覚えた訳ではないが、頭の中にその数字がスッと入り、まるで頭に組み込まれたかのように、今日まで覚えているのだ。歴史の年号を覚えるのに悪戦苦闘したのに(笑) 小学校の頃、九州ブルートレインの関門トンネル区間専用の銀色の電気機関車・EF81と、一人用A個室寝台のNゲージ車両を買ってもらったのはよく覚えている。レールを敷いて走らせたいとか、レイアウトを組みたいとか鉄道模型をやりたいという欲求があった訳ではなく、ただ憧れのブルートレインを手元に置いておきたかったのだろう。精巧にできたたった2両のブルートレインは私の宝物になった。当時は、ステンレスなど銀色の鉄道車両が嫌いだった。それなら東海道・山陽本線区間を牽引するEF65の方を買わなかったのは、我ながら今でも不思議だ。しかし、関門トンネルを潜る事は、やはり九州ブルトレの象徴で、その先頭に颯爽と立つEF81はやはり印象的だったのだろう。 そんな私がブルートレインに乗りたがらないわけは無い。我が家では夏の家族旅行は毎年の恒例行事で、小学校高学年のある年の夏、寝台特急はやぶさに乗り鹿児島へ旅行へ行く事になった。この旅の帰りは飛行機で、家族5人分で、今思えば相当な出費だったに違いない。旅費を自分で払うようになって、よくそのような旅を実現させてくれたものだと恐縮の気持ちを感じている。 約30年も前なので、細かい事は覚えていないが、初めてのブルートレインの旅は幼い頃の思い出の一つとして深く心に刻み込まれている。とてもわくわくしてていて寝るどころではなく、カーテンを少し開け街の灯りや、すれ違う車とか流れゆく車窓を眺め、関が原付近の闇夜の林の中でさえ、目をキラキラさせながら眺めていてた。そして真夜中の大阪駅に着いた。閑散としたホームを眺めていると、駅務室で駅員さんがデスクに向かっているのが目に入った。駅員さんは車内から外を見ている私にふと気がついたのだろう。私と目が合うとにこりと微笑んでくれた。それからは少し寝たのだろうか・・・。覚えていない。 翌朝、関門トンネルを潜る時の下関や門司駅での機関車交換作業と言った、朝の一大イベントの事など、翌日の記憶はほとんど無い。ただ、上段のベッドに上っていて、何度か車掌さんに注意された事はよく覚えている。当時、国鉄は既に赤字がちになり、色々と難しい問題を抱えて、士気の低下から接客態度が悪いと言った批判があったのは、小学生だった私もおぼろげに知っていて、はやぶさのこの車掌さんはそんなタイプの車掌なんだと、少し嫌な思いを抱いていた。揺れる車内で子供が上段寝台で遊んでいると危険なので、注意するのは当然の事と理解できたのは、年月が過ぎてからだった。 午後に西鹿児島に着き、一旦、ホテルにチェックインし、磯庭園など市内観光に出かけた。 翌年の旅行はブルートレインではないが、名古屋始発の電車寝台特急「金星」に乗り、津和野、秋芳洞、萩への旅へ行った。子供心に自分の住んでいる都市が始発の寝台特急を誇らしく思っていたものだった。 |
しばらく鉄道趣味から遠ざかっていたのだが、図書館で目にした鉄道雑誌を見た時、再び鉄道というものに強く引き寄せられた。当時は国鉄の分割民営化を控えていて、国鉄時代は画一的な感があったであろう車両に変化が訪れていた時だった。費用など制約があり新車は多く造れないものの、既存の車両の内装やシートを改善して快適性を向上させる取り組みが盛んに行われていた。そんな動きの中で、私の印象に残ったのは、やはりブルートレインだった。「あさかぜ」用には2人用B個室寝台「デュエット」が登場し、シャワーも併設され、食堂車はオリエント急行風の内装に改装され、博多行きの寝台特急「あさかぜ」は、昔から変わらずブルートレインのフラッグシップの風格を漂わせていた。寝台特急「ゆうづる」には、青函トンネルを通過する寝台特急に連結される2人用A個室寝台「ツインデラックス」が先行して連結されていた。それらより先に、「さくら」には4人用B個室「カルテット」が登場し、「富士」「はやぶさ」にはロビーカーが連結されるようになっていた。これら写真を見た時、ブルートレインの新時代を感じ、昔のようにブルートレインの旅に強く魅かれるようになった。 そして、高校の卒業旅行ではぜひブルートレインで行く九州の鉄道ひとり旅をと願うようになり、時刻表を開きプランを練った。旅立ちは小学生の頃、ブルートレインの頂点と崇めていた「富士」だ。ただ、運転区間は小学生の頃と違い、宮崎までに短縮されていた。利用する寝台は一人用A個室寝台。あさかぜ用デュエットなど新しい寝台車が登場したものの、一人用A個室寝台は昔のままで、一両に14室とやや詰め込み気味の細長い部屋のため狭く独房≠ニ揶揄される事さえあった。それにも関わらずA寝台≠ノは最上級を感じさせるどこか特別な響きがあり、日常を離れちょっとした贅沢へ誘ってくれる存在に思え、いつかは必ず利用したいと思っていた。 ・・・と、あれこれ考えたのだが、やはり高校生には費用的な負担は重く、卒業旅行だからというこじつけで、母親にご同行願った。そこで二人なら一人用A個室より、目新しい2人用B個室デュエットを連結したあさかぜ1号にしようと思った。帰路に選んだのも、新幹線でも飛行機でもなくブルートレインだった。 |
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名古屋駅ホームの行き先表示板。昔懐かしいパタパタ式。フォントもレトロで懐かしい雰囲気。 |
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あさかぜ一号が入線。鉄道好きの・・・、そして夜行列車好きの私にとって、旅の気分が最高潮に達する瞬間。 デュエットは現在の北斗星に連結されているデュエットと同じで、半二階建て構造のように個室が配されている。私たちの部屋は上段の部屋で、ちょっと高い視点からの眺めを楽しめる。何よりも親子二人で他人に気兼ねなく、プライベートな空間を保てるのが嬉しい。 |
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夜が明けて食堂車へ。「オリエント急行風」という言い方が正確かどうかは知らないが、赤を基調とした洋風の装飾はとても洒落ていて高級感が漂う。時代遅れで野暮ったい雰囲気の他の寝台特急の食堂車とは別世界。何を食べたかは覚えていないが、どんよりと曇り空と、沈んだ色をした海を見ながら食事をしたのは記憶に残っている。 |
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その後、やはり列車内でシャワーを体験したいと思い、食堂車でシャワーカードを購入。厚紙に磁気テープがついたカードだった。裏面を見ると、利用時間が「3月7日、8時から8時30分まで」と記入され、完全に忘れ去っていた乗車日を留めていてくれた。 |
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そして小雪が舞う下関駅に到着。改めて編成を眺めると、金線3本が入った車両が誇らしげだ。下関駅と次の門司駅では、鉄道ファンにとっては九州ブルートレイン最大のイベント、機関車付け替え作業が行われる。私も当然、車外に出てこの作業を見ていたようで、この時の写真が何枚か残っている。 こうして見ると、下関駅はこの写真を撮影してから約20年経っているにも関わらず、現在でも雰囲気があまり変わっていないのは凄い。 |
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ヘッドマークを付けたEF81が凛々しい。子供の頃に見た銀色のEF81でないのが少し残念。 終点博多への到着は確か11時前。その頃は東京発の博多行きひかり号の始発も、まだ博多に到着していなかった。下車後、間もなく運転開始となる新型特急電車「ハイパーサルーン」こと783系電車のモックアップがコンコースに展示されているのを見たのを覚えている。 |
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帰りは長崎発の寝台特急「さくら」で。長崎観光の帰りに便利だったのと、上り九州ブルートレイン中では、名古屋到着が朝の7時前と1番遅かったからだと思う。 写真はさくらより一足先に東京へ向けて旅立つ寝台特急「みずほ」。約20年前の事とは言え、東京行きのブルートレインが同じ駅から1日に2本も存在していた事は、九州ブルートレインが風前の灯となっている今から見ると隔世の感。 「さくら」で利用した寝台は開放型A寝台。夕方の出発で、夕日に彩られ輝く浅瀬が息を呑む程、美しかったのを鮮明に覚えている。これまでの人生の中で、最も印象に残っている夕景の一つだ。 |
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佐世保線との分岐駅、肥前山口駅で。これから隣のホームに控えている「さくら」の佐世保発編成との連結作業が行われる。そのためこの駅で10分程度の停車時間があり、手持ち無沙汰な車掌さんと食堂車のお姉さんが、車外に出て立ち話をしている。 |
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そして隣のホームに入線していた佐世保発編成が2番ホームに移動してきて、長崎発編成と連結される。 夕食で帰路も食堂車を利用した。場末の食堂を思わす時代遅でくたびれた内装で、雰囲気はあさかぜ1号の食堂車に敵うはずも無い。だが、九州ブルートレインは、一時期、目的地の郷土料理をメニューに入れていて、この時は長崎ちゃんぽんを食べたような気がするのだが・・・。 |
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早朝7時前、名古屋駅に到着。今は亡き「さくら」はもちろん、少し写り込んでいる名古屋駅の旧駅舎も懐かしい。 |
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思い出の東海道・九州ブルートレイン[1]→[2]これまでの乗車記録と印象
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