関門海峡近代建築巡り・門司港編-1〜門司港レトロ、洋館…〜


 門司港の開港は1889(明治22)年で、ロンドンなどヨーロッパなど海外航路や貿易拠点として栄え、最盛期には月に200隻の船舶、年間600万人もの乗客で賑ったという。街には商社や船舶会社などのの洒落た洋館が建ち並び、モボ&モガといわれる現代的な若者が闊歩したという。その時の賑わいは遠い過去のものだが、現在でも当時の洋館や近代建築が門司港地区に残っている。また、門司港地区の観光産業育成と街づくりのための事業「門司港レトロ事業」により、歴史的建築の修繕、整備、港町の雰囲気を大切にした観光施設整備などがなされた。


門司港駅
 門司港駅は最初、門司駅と言い、1891(明治24)年4月に九州鉄道の駅として出来た駅だ。1901(明治34)年5月からは関門連絡船の運航が始まり、門司駅は九州の鉄道の玄関口、本州と九州を結ぶ鉄道の接点となった。尚、九州鉄道は1907(明治40)年に国有化された。

 駅が手狭になると、門司駅は1914(大正3)年に山側から海側の現在の位置に移転した。駅舎も新築され、壮麗な洋風建築のとし有名な現在の駅舎が出来上った。2代目博多駅を模した駅舎との事で、確かに建物中心の本館の形は両者ともよく似ている。

 1942(昭和17)年に関門トンネルが開通すると、九州側の最初の駅になった隣りの大里駅に「門司」の名が付けられ、“元”門司駅は門司港という駅名に変更された。関門連絡船は残っていたものの、門司港駅は九州の玄関口を譲る事になり、門司港地区の衰退へと繋がって行った。
 


門司港駅駅舎。1914(大正13)年築の
ネオルネッサンス様式の駅舎。九州最古
の現役駅舎。
 行き止まりの門司港駅で下車し、駅舎に足を進めると、片隅に「関門連絡船通路」という看板があるのが目に入った。駅隅の薄暗い部分で、始めはどこがそうなのか解からなかったが、階段を下った半地下のような薄暗い空間の上に「関門連絡船通路」という小さなプレートが掛かっていてようやく解かった。かつては地下道が桟橋まで伸び、多くの人々が行き交い、船と鉄道を乗換えていたが、今は塞がれ、先には進めない。通路跡の一部には関門連絡船の説明や写真などが展示してあり、当時の賑わいをしばし偲んだ。

 改札を抜け通路を横切ると門司港駅のあの駅舎だ。駅舎内はレトロな雰囲気が大切にされ、窓や扉の枠もベージュ色の木造と洒落ていて、切符売場などの文字は旧字体だ。

 他に、開業当初からあり、戦時中の貴金属供出から免れたため「幸運の手水鉢」と呼ばれる青銅の手洗い鉢など、歴史を感じるものがいくつもある。だけど、私がいちばん驚いたのはトイレ横の独立した洗面所だ。レトロな室内の洗面所は都会のターミナル駅を凌ぐ広さで、壁の両側には20程の蛇口がずらり並ぶ。今は虚しく広いだけという気がしなでもないが、昔は鉄道と関門連絡船を乗換える乗客などでさぞ賑わったのだろう。門司港駅の、そして古き時代の鉄道旅行を偲ばせる物だ。

 駅舎の外に出ると、夏の太陽が容赦なく照りつけ、蒸々とした暑さだった。そんな暑さにめげそうになりながらも、正面から門司港駅を見てみた。左右対称のネオ・ルネッサンス様式と呼ばれる造りで、2階立ての大きな洋館風の建物は威風堂々とした壮麗な雰囲気で、まさに貴重な骨董品のような駅舎だ。その価値が国からも認められ、鉄道の駅舎では初めて、国の重要文化財に指定された。

 そんな歴史的価値が高く威風堂々とした駅だが、地元の人々が歴史的な駅舎を特に意識するでも無さそうに出入りし、駅前の噴水では僅かな涼を求める親子連れが楽しそうに水遊びをしていた。この門司港駅の駅舎はまだまだ現役だ。

門司港駅駅舎内コンコース

門司港駅の駅舎内。レトロな雰囲気を随所に
感じさせる。


門司港駅から旧三井物産門司支店を見る。
旧三井物産門司支店(→国鉄九州総局→現JR九州第一庁舎)
 門司港駅を出て右手を見ると、古めかしいコンクリートのビルがある。このビルは1937(昭和12)年に三井物産門司支店として建てられたビルだ。アメリカ式のオフィスビルで、当時では九州一の高層建築だったとういう。後に、戦後の財閥解体で国鉄に払い下げられ、国鉄民営化までは国鉄九州総局として使われ、現在はJR九州第一庁舎として使われている。

 シンプルで、一見、他の洋館と比べ、華やかさの無いビルだ。しかし、道路側の玄関の装飾は黒い大理石(?)が使われ重厚さを醸しだし、明治期の一流商社、或いは国鉄九州地区の中枢だったという威厳を感じさせる。
旧門司三井倶楽部

旧門司三井倶楽部。
旧門司三井倶楽部(→門鉄会館
→現林芙美子資料室等)

 旧三井物産門司支店前の道路を隔てた向かい側には「旧門司三井倶楽部」が建つ。深緑色の壁で、ハーフティンバーと呼ばれる木組みを露出させた建築方法の洒落た洋館だ。三井物産の社交場として1921(大正10)年に建てられたが、その後国鉄の所有となっていた。元は門司の別の地区にあったが、1990(平成2)年にこの地区に移築された。

 この洋館を有名にしている物は大正時代の洋館という建物自体の価値もあるが、ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタイン博士が夫妻でが一週間滞在したという事もあるだろう。今では、アインシュタイン博士夫妻が宿泊した2階の部屋が「アインシュタインルーム」として保存されている。レトロで洒落た感じはするが、室内は広くなく、落ち着いた雰囲気のある部屋で、アインシュタイン夫妻が使用したベットも展示されている。

 部屋には門司に滞在した時の様子を伝える記事も掲示され興味深い。歓迎行事の中の餅つきに、博士が飛び入り参加し婦人を大笑いさせたなど、博士が門司の滞在を楽しんだエピソードもいくつか紹介されている。そして、一週間の滞在を終え、博士は惜しみながら門司を離れ帰国の途に就いたという。

 その他、1階にはレストラン、2階に門司区出身の女流作家、林芙美子の資料室がある。



アインシュタインメモリアルルームの一角
旧大阪商船

旧大阪商船。レンガ建築に見えるがタイルが
使われた木造建築。
旧大阪商船(現海事資料室等)
 旧門司三井倶楽部の裏側に出ると、第一船だまりに出た。海岸から少し入った所にある小さな船の停泊場で、今では観光船が出入りし、岸壁にはレトロな建物がいくつも建つ。その1つに旧大阪商船の洋館がある。1917(大正6年)に大陸航路の待合所として建てられ、多くの乗船客で賑わったという。一見レンガの建物に見えるが、オレンジ色のタイルの外観の木造2階建ての建物だ。この建物で特に目立つものは、灯台として使われていた洋館から伸び出た八角の塔だ。わざわざ八角形にしたり、塔の付根あたりには鱗のような紋様が入るなど凝った造りで、上部が丸い縦長の大きな窓と、その窓に合わせカーブを描く庇も印象的だ。重厚感のある洋館だが、この塔のため、華やかな印象を受ける建物でもある。

 現在、1階は多目的ホールとして使用されているというが、今は椅子が数脚置かれているだけでがらんとしている。塔下の大きな窓の部分が階段だ。光注ぐ階段を上がると、2階には海事資料館となっていて、関門海峡の海運始め、様々な海運の資料が展示されている。
旧大阪商船の塔屋

印象的な旧大阪商船の塔屋。


ホームリンガー商会。現在も同社の
日本支社として使われている。
ホームリンガー商会
 旧大阪商船の斜め向かいに、白っぽく小さな可愛らしい洋館、ホームリンガー商会の建物がある。同社は長崎のグラバー社の社員「E・ホーム」「F・リンガー」が設立したスコットランド系の商社で、1952(昭和27)年に下関から門司に移転してきた。現在もホームリンガー商会の日本支社として使われている。以前は支配人がスウェーデンの名誉領事も務め、スウェーデンの国旗を玄関に掲げていた事もあったという。

TOP旅の写真館

関門海峡近代建築巡り・門司港編[1]→[2]

my旅BOX-鉄道旅行と旅 Copyright (C) 2003 solano, All rights reserved.