![]() 廃線された年の中標津駅跡付近(1989、7) 赤錆びたレールの向こうの踏切跡から入られ ないように長い木の板で線路が塞いである。 腕木式信号も残る。 |
標津線(標茶、厚床−根室標津) 標津線は1回乗車した事があり、廃止直前の1989年3月だった。時間が夕方だったため、厚床から根室標津の間は帰宅の学生でそこそこに賑わっていた。終着の根室標津駅は乗客が去った後は人もまばらだった。外にはかすかな光しかなく、少し暗い待合室は夕暮れの寂しさを漂わせていた。根室標津から標茶まではもう外は真っ暗になっていて回送車同然で走ったという記憶がある。 私が廃線跡に興味を持つようになった原点は、廃線の年の夏に観光で乗った標津線代替バスの車窓から見た標津線廃線跡だろう。レールが残る道床跡、根室標津駅、中標津駅の駅舎などまだ残る鉄道を偲ばせる物に心惹かれた(今思えば、都会の市街地で無い限り、廃線後数ヶ月で鉄道施設が一掃される事は滅多に無いので、それらの物がまだ多く残っていてあたりまえだった)。一方で赤錆びたレール、駅の窓や戸に打ち付けらた板、整地される踏切跡など鉄道があった事を証明する物が徐々に朽ち、あるいは失われていく様にも心惹かれた。 その後も何回か標津線の廃線跡を通りかかったり、訪れたりした。変わりゆく標津線跡を見てきたので、私にとってむしろ廃線跡の方に強い印象を持っている。 特に終点の根室標津駅の廃線前と廃線後の駅の風景はまだ記憶に残っている。廃線後はすぐ脇にバス待合所ができていた。再利用の予定があったのか、町中にありながら駅舎はなぜかしばらく取り壊されなく、外観はそのままだった。鍵がしっかり掛けらていたり、板で塞がれていたりで中には入にれなかったけど、物置のように駅に関係のない物が置かれているのが見えた。だけど、雑然とした中にある赤い通票閉塞器や切符入れは、ここはかつて鉄道の駅だったんだよと語りかけているかのようだった。 構内にはキハ22が2両があるはずで、ホームに回ってみたらおかしな事に気づいた。1989年夏は確かホームに横付けされていたのに、構内の隅の方に移動されていたのだ。解体するならまだしも、なぜわざわざ移動させたのだろう?もしかしたら再びエンジンを動かして廃線の上を移動させたのかなと楽しい想像してしまった。 雑草だらけの構内の隅に例のキハ22は野ざらしにされていた。すっかり色あせてしまい、駅舎や木々に遮られ、いたずらの対象になってしまったのか、ガラス窓のほとんどが割られているのが痛々しくて哀れだ。 廃線後何回か根室標津駅を見て多少の変化はあったが、相変わらず駅舎はあたりまえのように同じ場所にあり、キハ22は放置されていた。 だが1997年9月の自転車旅行の時に立ち寄ったら、あったはずの駅舎とキハ22の姿は消滅していた。 (次ページへ続く) |
![]() 根室標津駅構内(1993、7) 隅にキハ22気動車が放置されている。 状態は悲惨な程悪かった。 |
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![]() 根室標津駅の改札口。(1990年前半) もう乗客を出迎えたり、見送ったりする事は 無い。或る冬の日、陽光を浴び佇む。 |
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![]() 川北駅跡のキハ22(1993、7) 駅跡の広い空地にキハ22がぽつんと放置 されていた。キハ22の下にだけレールがあり、 行き場を失っているようだった。中に入ったら すごくほこりっぽく汚かった。その後整備され、 行事などに使われているらしい。 |
![]() 旧奥行臼駅(1993,7)木造駅舎もホームも ほぼ現役時のまま。 駅舎の中にいると、 列車に乗りに来たと言う感覚に襲われる。 |
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