君に会いに行く 2 -Side H- 折角の晴れた日だというのに、火村のベンツはひどく機嫌が悪かった。その日は朝一から講義が入っていて、一旦は乗り込んだベンツから苛々しながら降りるやいなや、火村はそのタイヤを一発蹴り飛ばした。寝坊をした日に限って、これである。重い溜め息をひとつ洩らして、腕時計をチラリと見やる。完全に遅刻かな…と、胸の裡でぼやきながら、火村は足早に歩き出した。英都大学の若き助教授も、形無しな朝の出来事であった。 こんなトラブルは日常茶飯事だが、朝っぱらからではやはり気分は良くなかった。…が、午前中で講義も終わり、幾らか気分も浮上すると、ポジティブな思考も何とか訪れ、交通機関を使う事を余儀なくされたついでに、日頃は駐車場に入れるのが億劫で意外と足が遠のいてしまう本屋へでも寄ってから帰ろうかと云う気分にもなった。有栖が火村の住む北白川の元下宿屋へ来るまでには、まだ充分に時間があった。暇つぶしに本屋というのも、悪くない。 火村が籍を置いている英都大学から四条までは地下鉄で三駅。母校の生徒に時には声を掛けられながら、暫しの間地下鉄に揺られて、火村は四条にあるとある本屋へと向かった。 そこは昔、有栖とよく通った本屋だった。平置きされている新刊コーナーの中に、ベストセラーとは程遠い、有栖川有栖の新作も、一応は並べられていた。 火村はそれを手に取ると、我知らず、頬が緩んだ。ふと、昨夜の有栖との電話のやり取りを思い出す。 『なぁ、火村。もう、七月やで、七月。めっちゃヤバいって感じ、せえへんか?』 有栖は奇妙に興奮した声音でそう切り出した。 「なんだよ。まさか、明日締め切り何て云うんじゃないだろうな、アリス」 『んな訳あるか!そんなんやったら、明日そっちへ行くなんて、云うわけないやろう?』 「お前の事だから、現実逃避にでも来るのかと思ったんだよ」 『アホやな、君は…。おれはそこまで情けない人間やないで。…せやから、一九九九年の七月って云うたら〃ノストラダムス〃やろう。…ったく、何て呑気なやっちゃ』 ひどく呆れた口調で有栖はそう云い、電話越しに大きな溜め息を火村に聴かせた。 「なんだ、そんな事か…」 余りにもつまらない展開で、火村の方が呆れていた。 『〃何だ〃って…お前!判ってるんか?人類滅亡の危機やで?火村!』 大袈裟な口振りでそう云う有栖は、本当に本気で云っているのだろうか…。 「例え人類が滅亡したとしてもだ、別にお前独りが死ぬ訳じゃねえだろう。みんな揃ってあの世行きなら、これ以上公平な〃人生〃も無いだろう。〃何で俺が〃なんて云って死んで行く奴は五万といるんだ。その中で、みんな平等に死ねるなんて、幸せな事だと、俺は思うんだがな」 『そない簡単な問題で片づけられへんことやろう!』 「まぁ、お前の云うように、そんなら簡単な問題でもないな…。俺は神もノストラダムスも信じちゃいない。…が、仮にもし、予言が当たったとしたら、ノストラダムスとその弟子達、そしてノストラダムスの研究をしてきた奴らは、人類最大の犯罪者にならなくてすむわけだ」 『なんで?どうしてそうなるんや!』 「考えてもみろよ、アリス。そのノストラダムスの大予言とやらで、一体、どれだけの人間が恐怖に晒されたと思う?奴が生まれたのは一五○三年の事だ。一五六六年までの六三年間生きて来た間に、奴は様々な予言をしてきた訳だ。奴が死んでから今年で四三三年だ。その間、ある程度の文明を築き上げてきた人類は傍迷惑なあの大予言とやらで脅かされて来たんだせ?ノストラダムスと奴の信者もどきは、人類始まって以来の犯罪者だ…と、思っても当たり前だろう?そりゃ、のらりくらりと与太話を書いているお前には、理解できないだろうな」 『ほんまに、ひと言多いんや、君は!』 有栖はひどく怒っていたが、そんな有栖の抗議の声も、火村は嗤って受け流した。 「しかしな…。〃ノストラダムス〃はともかくとして、俺達人類はかなり行き詰まってるってのは確かだよな。〃流行〃ってやつも、一九七八年以降、目新しいものは一向に出て来ないし、凡てがリバイバルだ。それは犯罪も一緒だ。何処かで誰かがやった〃犯罪〃を真似る奴がゴロゴロいる。そういう意味で云えば、人類はすでに終わってるって云えるだろうな。それこそ、ノストラダムスなんて関係なく」 『そんな講義はもうええよ、火村…。それよりも、もし、仮に後一週間で地球が終わってしまうなんて云う事になった時、君はどうする?』 此処まで火村が力説しても、まだ〃恐怖の大魔王〃を信じているらしい…。火村はつくづく、子供の頃から刷り込まれた記憶というのは、何時まで経っても消えないものだと、改めて痛感した。今現在、この日本で生き、それなりの年齢に達している殆どの人間が〃ノストラダムス〃を知っている。完全な土壌が出来てから生まれて来たのだから仕方が無いと云えば仕方の無い話なのかもしれないが…。それにしても、下らない。 「よし、判った。〃万が一〃の話だな?」 諦めたように、火村は有栖にそう聞き直した。 『そうや、〃万が一〃の話や』 有栖はひどく機嫌が良さそうな声でそう云った。その時火村は、有栖はどうやら、火村の〃究極の選択〃を聴きたいだけなのかもしれないと、ふと思った。 それならば…と、火村は一番下らない答えを云ってやる事にした。 「限られた時間は一週間。多分、世界全体がパニックに陥るだろうから、何をするって云っても、結局は寝るか食べるか、…後は、腹癒せ紛れに人殺しくらいしか出来ねぇだろうな」 『はぁ〜?なんや、そのつまらん回答は!』 有栖は予想通りの反応を見せた。相変わらず、思考パターンの乏しい奴だと、火村は電話で顔が見えない事をいい事に声を出さずに嗤った。 「そう云うお前は、どうするんだよ」 『ん?おれか?おれはもう、明確な予定が在るからええねん』 「明確な予定って…お前…。そんな当てにもならん〃予定〃を入れる暇が在るなら、ベストセラーの一本でも書いてみたらどうだ?」 『煩いなぁッッッ、火村のアホ!』 怒った有栖の顔が、電話越しから見えそうだったと、昨夜の事を思い出しながら、ひとりにやついた笑みをこぼしていた火村は、手にしていた本を、そっと元の場所へと戻した。此処でこの本を買わなくても、きっと有栖はこの新刊を持ってやってくる。 その時だった。見覚えのある姿が、本屋のドアを押し開けて入って来るのが見えた。こんな所で逢うはずがないと思っていた、有栖だった。 有栖は火村が立っていた新刊コーナーを通り過ぎ、奥の方へと歩いていった。信じられない事に、有栖は火村に気づかなかったのだ。全く鈍感な有栖に、火村は呆れ果てた…が、それも面白い。有栖が何時、自分に気づくのか、確かめてみるのも悪くない。 有栖の行動を、暫くの間観察した。本屋で ―― 何故か ―― 自作の本を購入した後、有栖は錦市場へと歩いていった。ゆったりとした足取りで、辺りをきょろきょろと見渡し、時には立ち止まり。そして和菓子屋の前でぼんやりしていたかと思うと、徐に 『水無月下さい』などと、和菓子屋のおばちゃんに抹茶味のそれを指さした。三十男の行動とは思えない、ひどく落ち着きの無いその仕種や行動に、火村は独り、嗤いを噛みしめた。 しかし、有栖は一向に火村に気づかない。何時まで経っても自分に気づかない有栖に業を煮やし、そろそろ気づいてくれないものかと、火村は有栖の直ぐ横を通り過ぎた。…が、やっぱり無駄だった。此処まで鈍感だと、揶い甲斐も無い。何を馬鹿げた事をやっているんだ…と云う気分にもなって、火村は有栖を置いて北白川へと帰る事にした。どうせ、後で直ぐに逢うのだ。 胸ポケットに押し込めていた煙草を取り出し、火村はそれに火を点けた。胸の奥まで吸い込んで、深い溜め息と共に煙草の煙を吐き出した。煙草が半分くらいの長さになった時、コンパクト型の携帯灰皿を取り出した、その時だった。 「火村!」 呼び掛けの声と共に、後ろから、左腕を掴まれた。 「君、鈍感やなぁ。おれ、ずっと君の後を付けてたんやで?火村、全然気づかへんのやもん」 小憎たらしい顔でそう嗤われて、火村は苦虫を噛み潰したような笑みを作った。 「なんで、俺だって気づいたんだよ」 二人で肩を並べて歩きながら、火村は有栖に訪ねた。 「え?…それは、キャメルの匂いがな、したんや」 「お前って、犬並みだな…」 「犬並みやて?火村はおれに気づきもせぇへんかったくせに。…ほんま、よく云うわ」 あれだけ傍を通っても気づかなかった癖に、煙草の匂いで火村だと気づくなんて…。何となく、情けない気分になった。だから、もうそれ以上は何も云いたくない気分だった。 君はアホや…とか鈍感やなぁ…などと云われながら、火村は有栖と四条の町を暫く歩いた。些か疲れていて、言い返す気分でも無かった。違う会話は無いものかと、本屋で思い出していた昨夜の電話でうやむやになった件の会話を持ち出した。 「ところで、アリス。昨日の電話の続きなんだが…。結局、お前は残された七日間で何をするつもりなんだ?」 「ああ、あれな。そんなん、決まってるやないか」 ひどく爽やかな笑みを浮かべて、有栖は続けた。 「君に、会いに行くんや。七日間もあれば、車が使えんでも交通機関が麻痺してても、歩いて京都まで来れるやろう?一日二日は掛かるとしても、残りの五日間くらいは、ゆっくり二人で過ごせるやん。ちょうど季節もええし、また、海でも行けばええやん。あの小さな入り江やなくっても、きっと、何処へ行っても貸し切りや」 とても嬉しそうにそう云って微笑った有栖が、一瞬にして火村を幸せな気分にしてくれた。 この人込みで、自分が先に火村を見つけたのだ…と思い込んでいる有栖に、火村は真実を語らなかった。 その笑顔に免じて、甚だしい勘違いをしている有栖を許してやる事にした。 この先も、夏が来る度にこんな風に思い知らされるのだろうか。 自分がどれだけ、この間抜けなミステリ作家に参っているかというその事実を。 自分の左側を歩く有栖を眩しそうな眼で見た後、火村は空を見上げた。 太陽を近くに感じるその空は、いつか有栖と一緒に見たあの夏の海を火村に思いおこさせた。 色々な事が在ったが、結局、有栖は火村の傍に居る。狡いばかりの火村を許してくれている。 今はただ、それだけで充分だった。 予言が当たって、人類が滅びてしまっても、その時に有栖が逢いに来るのなら、それでも構わないか…と云う気分になってきた。 有栖のそんな与太話も、案外、馬鹿に出来ない。 〃君に会いに行く〃 有栖のその言葉は、鮮やかな空色と共に、火村の胸に深く刻みつけられた。 「なぁ、アリス」 隣りを歩く有栖に、火村は前を.向いたままこう云った。 「〃人類最後の日〃がやって来たら…。その時は、俺がお前に会いに行くよ」 有栖は少し照れたように、無理するなよ…と云って火村の肩を叩いた。 この夏一番の笑顔で、有栖は微笑っていた。 [END] |