君に会いに行く 1 -Side A- 梅雨はまだ明けない。今年はらしい梅雨だと思う。強い雨の日が一日二日と続いてその後は曇り空が一日。そして、中休みのように晴れた日がやってくる。雨の後に時折訪れる晴れた日は、夏の存在を徐々に色濃くしてやって来るのだ。 そんな風に、今年の夏はやってきた。 有栖が火村の住む京都へ出かけたのも、そんな梅雨の合間に覗いた良く晴れた一日だった。 とても天気が良かった。雨の後の晴れた日は、空までもが情かされたように鮮やかな水色をしていて、ひどく気分が良かった。 火村のいる元下宿屋へ行く前に、学生時代に良く立ち寄った四条の本屋へと足を伸ばした。 もう、十数年になる。それなのに、この街はあまり変わり映えがしない。立ち並ぶ店が変わっていっても、この空気だけは変わらない。何時来ても学生でごった返した街だ。 ふらふらと一人で歩きつづける。それでも、何となく楽しかった。 紙袋に入った買ったばかりの本が三冊。一週間前に発売した自作の上製本もその中に入っている。勿論、そんなものは編集者から幾らでも送ってもらえるのだが、有栖がその本屋にいた間、彼の彼の新作は誰も手に取ってはくれなかった。そんな訳で、家に帰れば知人用にと送って貰い、書斎の片隅に山積みになっている同じ本を思い出しながらも、思わず買ってしまっていた。 自分の財布からお金を出して買ってしまったその新刊は、火村への手土産にしよう。幸か不幸か、家から持ってこようと思っていた新刊を、すっかり忘れて此処まで来てしまっていた。 京都の夏はとにかくきつい。そんな学生時代の記憶だけが、有栖の脳裏にくっきりと刻み付けられていた。しかし、まるで暑くて重い湯気の中を歩いているようなあの嫌らしい暑さは、今日は何処にも無い。 少しだけ懐かしくなってしまった町を、久しぶりに散策した。 気の向くまま、有栖は歩きつづける。 三条通りを一本中に入ると、懐かしい雰囲気の錦市場が現れる。 賑やかで華やかな世界から、がらりと空気が変わるこの市場が、昔は好きだった。勿論、久しぶりに訪れた今もやはり好きだ。 日用品を安売りしている店や、味噌、干物、豆腐屋。オレンジ色のはだか電球を吊るした店が連なっている。“懐かしさ〃が、こんなところからも現れる。住みなれた大阪の街でも思い出すことが難しくなっているというのに…。不思議な町だと思う。京都に来ると時折そんなことを思った。 揚げたての豆乳ドーナツを売っている店から、いい匂いが漂ってきた。昼食は済ませたはずなのに、不思議と空腹感がかき立てられる匂いだった。 まるで、祭りの屋台を思わせる。ふと、そんなものを連想していた。 和菓子屋の前を通った時、『水無月』と書かれた文字を発見した。 ―――― そう云えば、今日は六月の三十日やったか…。 胸の裡で、有栖はそんな風に呟いた。 もう、随分昔の話になる。 あの時も、こんな風に市場を歩いていた。その日も、今日と同じ、六月の三十日だった。 あの時は、隣りに火村がいた。 その時、火村が云っていた。六月の三十日。京都では、その日に『水無月』という和菓子を食べる風習があると…。 店先のショーケースに入れられた水無月を、少し離れた場所から暫し見つめた。 水無月…。つまり、六月。六月が終わるその日に、『水無月』と云う名の菓子を食べるその訳は、今でもはっきりとは判らない。ただ、『みなづき』とは『みなつき』とも云い、『な』は『ない』の意に意識されて『無』の字が当てられているが本来は『の』の意で、『水の月』ととり、〃田に水を引く必要のある月〃とも云われている。陰暦六月の異称だそうだ。 また、陰暦六月四日の伝教大師の忌日に、比叡山延暦寺で行われる法会は『水無月会』と云われるそうだ。 『水無月祓』と云うのもあるらしい。これは陰暦六月の晦日に、宮中や各地の神社で行われる祓えの行事で、〃水無月のみそぎ〃なのだそうだ。ようするに〃夏越〃の祓えらしい。京都で『水無月』と云う名の和菓子を食べる風習は、多分、此処から来ているのではないだろうか。凡てが陰暦…つまり旧暦で解釈するならば、何となくそれも納得が行く様な気がする。 あの時火村に教えてもらった『水無月』がどうしても気になって、そんな調べ物をしたはいいが、あの時は確か、書きかけの小説がどうにも上手く進まずに、出来る事なら他の事をやって現実逃避したかっただけだった。 それでも、夏越の祓えと云われては、妙なところで律儀さを見せる有栖にとって、無視することの出来ない存在ではある。 ――――婆ちゃんのお土産に、買って行くか……。 表面に小豆の粒が見えるその『水無月』のガラスケースの前に立ち、有栖は抹茶味のそれを選んだ。 昔の出来事をつらつらと思い出しながら、久しぶりに眼にした水無月を買い、有栖はまた、あてどもなく歩きだした。 夏が近づくと、色々な事を思い出す。 思春期にひどく傷ついた事がある。あれは夏の思い出だった。最近では殆ど思い出すことのない、苦い思い出だった。 苦いだけの思い出は、ひどくくすんだ色をしていた。そのくすんだ色を、上から、綺麗な空色に塗り替えられたのも、やはり、七月の初めだった。 火村が灰色だった思い出を、綺麗な色に塗り替えてくれた。 あれから、もう二年が過ぎていた。 あの時の空の色を、夏が訪れる度に、思い出す。 あの時の夕焼けの色を、空を見上げる度に思い出していた。 錦市場が終わる、少し手前だった。 ――――火村……? その瞬間、火村の匂いがした。 火村の…キャメルの煙の匂いだ。 こんな所に、火村がいるはずがない。火村と同じ銘柄の煙草を吸う人間など、幾らでもいるはずだ。そう思いながらも、有栖の双眸は無意識に火村の姿を捜し出していた。 辺りを見渡す。殆ど条件反射のように、有栖の足は前方へと向かっていた。火村の匂いがした、その方向へと…。 ――――火村……。 間違える筈もなかった。それは確かに火村の後ろ姿だった。 人並みの間を見え隠れする火村の背中へと、有栖は後ろから駈け寄ろうとした。 ……が、途中で足を止めた。 ほんの悪戯心だった。何時火村が自分に気がつくか。そんな事に興味を抱いた。 つかず離れず、有栖は火村の背中を追った。途中、幾度か道行く人にその背中が隠されたが、見失うことはなかった。 火村はまだ、気づかない。 火村が自分に気づくまで、この儘その後ろ姿を追いかけていようか…。 幾度か伸ばしかけた手を引っ込めてはまた伸ばし、有栖はその機会を窺っていた。 火村がこちらへと振り向いた時、最初に云う言葉はもう、決めてある。 『君、意外と鈍感やなぁ』 笑いながら、そう云ってやるつもりだった。 君に会いに行く。 その途中で君を見つけた――――。 [END] |