第三回 山月記・上(序文)


まず始めにおことわりです。
この文章、及び「山月記」を高校生以下の方は読まないでいただきたい。
これは、自分でも極めて自分勝手かつ理不尽だと思われる理由によるもので、
あえて説明するとすれば、「わからないだろうし、わかってほしくない」ということになります。
どうしても読みたいというのであれば仕方ありませんが、
もし、この文章及び「山月記」を読んだことで人生に悪影響が出ても、
(尤も、私の拙文でそのようなことが起こるとは思えませんが)
当方では何ら責任を負いませんので。悪しからず。

ここで、この文の対象である、「山月記」について。
これは、中島敦という人が書いた短い小説です。
あらすじを説明しても、この小説の重要な点はわからないと思いますので、
「李徴という人が虎になってしまう話」とだけ言っておきます。
私が高校の頃には、国語の教科書に載っていました。

参考までに、私と「山月記」の関係について述べておきます。
最初に出会ったのは、私が中学生の頃で、父親の薦めでした。
といっても、「この本、面白いから読んでみろ」といったかたちでしたから、
薦め、というのとは少し違うかもしれませんが。
小学生の頃に読んだ三国志の影響で、やや中国に興味を持ち始めていたため、
父がこの本を紹介してくれたのだと思っています。
その時は、一通り読みはしたのですが、何が言いたいのかさっぱりわからず、
まさに、「人が虎になる話」というイメージしか残りませんでした。
次に読んだのが、高校2年のときの国語の教科書でした。
この時は、授業で取り扱ったこともあり、かなり深く接したはずなのですが、
当時の私にはまだ李徴の心情は理解できず、
なんとなくわかった気になっていただけでした。
この頃に理解できなかった理由についても、後ほど述べようと思います。

その次は、大学3年の時でした。
授業の発表でうまくいかず、ちょっと自己嫌悪に陥った時に、
昔読んだ記憶から(やや間違ってはいましたが)、ふと読みたくなり、
その日のうちに本屋で購入しました。
本当の意味で理解できたのは、この時が最初だと思います。
(本当に、というのは、今の自分の理解が正しいものとした場合です)。
今までは表面的にしか理解していなかった李徴の心情が、
ようやく共感できるレベルまで近づいていました。

そして、今年四月。
どうやら最近は、自己嫌悪に陥ると読みたくなるようです。
自分の感情の共感と、自分の状況の再確認のために。
やや長くなってきましたので、
内容等については、別に書き直すことにします。

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