第二回  さくら


随分と間が空いてしまいましたが、やっと第二回です。
今回は最近感じた、桜についてのいくつかです。
ここに書くようなネタは、実は結構あったりするのですが、
時期的にずれてしまうとちょっとまずいので、あえてこれを書くことにしました。

その1。 花の色。
先日、宙の一言を書く欄に、「今の私に桜の花は白すぎる」と書きました。
学校帰りに公園の桜を見た時、「桜ってこんなに白かったかな?」と思ったからです。
その日は、いろいろな手続きで疲れており、家に帰るなり熟睡したほどでした。
数日後、また帰りに同じ道を通ったとき、今度はそれほど白く感じられませんでした。
この日は、授業があり、それなりに疲れてはいたものの、
前回と違って充実感があった日でした。
ただ単に光の関係でそう見えただけなのかもしれませんが、
気持ちの状態で、同じものでも変わって見えるものだな、と思った日でした。

その2。 花見。
先日の夕方(と言っても6時近かったですが)、近くの公園のそばを通ったとき、
何組かの花見の集団が騒いでいました。
騒ぎが聞こえるほど近いというわけではないので、それはそれで構わないのですが、
そこでふと、「花見とは何なのか」ということを考えました。
率直な感想として、彼らが「桜を見ている」とは到底思えませんでした。
無論、彼らに限らず、一般的に言われる「花見」の多くはそうだと思います。
「花見」という風習が始まった頃はどうかわかりませんが、
今では、「公共の場所で堂々と酒が飲める場」になっているような気がします。
ちょうど、時期的にも、新人との親睦を深めるなど、目的もあるのでしょう。
以上、あまり花見に縁のない人間からの客観的考察でした。

その3。 桜川。
先日、電車に乗っていると、いつもの景色と少し違ったものが目に入りました。
それは、川の水面に桜の花びらが数多く流されている光景でした。
その川は、普段は、川と呼ぶのもちょっと考えてしまうような、
コンクリートで四角く固められているドブ川のようなものなのですが、
その光景を見た時、私は無意識にそこを「川」と認識していました。
いつもは「水が流れている」といった程度で「川」とは思わないのですが、
桜の花びらが流れているだけで「川」と思えるようになるんだな、と、
自分の妙な感受性と単純さを再確認させられた出来事でした。

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