第四回 自分の切り売り


私は自分のことを他人に晒すのが嫌いだ。
そのこと自体は話したこともあるので、知っている人もいるかと思う。

理由を考えてみた。
自分の中に「理想の自分」と「現実の自分」がいて、
「理想」を演じようとするも、「現実」から脱却しきれていない。
その前の段階で、「理想」と「現実」の差が大きすぎることが問題なんだろうが。

だからこそ、理想を演じようとし、現実の自分を嫌悪する。
誰よりも、そして、おそらく実際以上に自分自身を蔑み、必要以上に嫌う。
そんな現実の自分に自信など持てるはずもなく、
理想の自分としては、醜態を晒すことを避けようとする。
結果、できる限り自分を見せないようにする。

もしかしたら、と言うより、おそらくは、
誰でも少なからず持っている、もしくは持っていた感情ではないかと思う。
ただ、その感情にどう対応していくか。
正面からきちんと向き合って克服できる者もいるだろう。
私のように飾り、誤魔化すことで目を背けようとする者も少なくないとは思う。
だが、こんな私でも、このままでは逃げ続けるだけにしかならないことはわかっているつもりだ。
一つ嘘をつけば、その嘘のためにまた嘘をつかねばならず、
この悪循環で生まれた大量の嘘は、精算しきれないものになっていくから。

先日読んだ本の中で、三島由紀夫が「小説家は自分を切り売りしている」と書いていた。
別に三島由紀夫でなくても、みんな言っていることなのかもしれないが、
そういうものなのか、と思った。
私は小説家ではないし、いろいろな作家の中には自分の切り売りでない方法を
採っている人もいるのだろうが、
今の自分のHPにあるような文章を見てみると、なんと表面的なことか。
「自分は何かを創り出すのは苦手だが、すでにある物を作り変えるのは得意だ」と思っていた。
それは自分を出すことを避けてきた結果であり、誇れるようなものでは決してない。

今の自分を切ったところで商品価値などないだろうから売らないが、
自分を晒してみるという行為は無駄にはならないと思う。
無論、自分の全ての情報を暴露するというわけではないが、
少しずつながらにせよ、自分の内面も含めた何かが創れればよいと思う。
今の私が願うには遠すぎる目標なのかもしれないが、
いつの日か、自分の切り売りに商品価値がつくように。

若き老人序文へ