黒猫館へようこそ                                  



 満月の夜だった。
 夜の森は、死人のように静かなものだと云ったのは誰だったか――。森の奥へと、細々と力無 
く続く小道を、ランタンの淡い光で懸命に辿りながら、ベラは考えた。            
 実際に身を持って体験してみると、静かどころの騒ぎではない。ベラに云わせれば、夜の森は 
死人も飛び起きそうな騒がしさだった。そこかしこの暗がりから、引っ切り無しに聞こえてくる 
梟やら烏やらの鳴き声が、やたら恐怖心を増大させるし、時折その合間を縫って遠くから響いて 
くる狼の遠吠が、ベラの心臓を震え上がらせた。木々の間から僅かに漏れる月明かりが、唯一の 
救いだった。                                      
 とにかく、不気味な森だった。ベラは身震いした。ここに生えている樹は――どういうわけか、
どれも悶え苦しんでいるかのように奇妙に捻くれ曲がっていた。それに、ベラの頭上を覆う木々 
の枝は、まるで痩せこけた腕が無数に重なりあっているように見えるし、月明かりによって出来 
た木々のいびつな影は、亡霊が樹の陰からそっとこちらを伺っているようにも見えた。『首縊り 
の森』という不吉な名も、この森にはぴったりだ。                     
 下草が生ぬるい風に吹かれて、ざわざわと、ベラの心を掻き乱す音を立てた。暗闇の森の中で、
目的地があると思われる方向に目を凝らすと、仄かに明かりが見えた。どうやら、あれが例の店 
らしい。明け方に村を出発して昼前に森に到着したから、かれこれ半日以上、森の中を歩き続け 
た計算になる。                                     
 やがて、森の外れと思しき繁みの間から、苔だか蔦で覆われた、三破風造りの館が姿を現した。
「やれやれ、やっと到着。手間を掛けさせてくれるわね」                  
 ベラは毒づいた。だが、その口調には、ようやく気味の悪い森を抜けて、幾分安堵した感じが 
交っていた。                                      
 鎖が半分取れかかっていて、ポーチの屋根から辛うじてぶら下がっている看板には、蹲ってこ 
っちを睨む猫が描かれていた。猫の傍らには『黒猫館』と刻んである。恐らくこの猫は黒猫なの 
だろう。だが、月明かりの下で見る限りでは――看板は風雨に晒されてすっかり色褪せており、 
ベラには黒い猫というよりも灰色に見えた。                        
 館の壁には、屋根の修理をしたのか、梯子が立てかかっている。館の周りには下草が鬱蒼と茂 
っており、店の入口に向かうには、梯子の辺りを通るしかなさそうだ。            
 ベラは肩を竦めると、梯子の下を潜って、入口の扉の前に立った。扉は、何か黒っぽい染みで 
汚れており、よく見ると、それはまるで血しぶきを拭った跡のように見える。ベラは喉をゴクリ 
と鳴らして、そろそろと扉の取っ手に手を掛けた。                     
 扉は建て付けが悪いのか、鶏が絞め殺されるような音を立てて開いた。中は思ったより薄暗く、
様子はよく判らない。ベラは恐る恐る店内に足を踏み入れた――。              
「イラッシャイ」                                    
 耳元で突然声を掛けられたベラは、吃驚して飛び上がった。危うく心臓が口から出かかった。 
声の方に目を剥くと、扉の傍らに吊るされていた鳥籠の中から、血のように真っ赤な色の鸚鵡が 
羽根をばたつかせている。まったく、よく飼い慣らされている――ベラは息を落ち着かせると、 
鸚鵡を静かに睨みつけた。                                
 カウンターの奥の暗がりには、幼い少女が大きすぎるソファーにちょこんと座っていた。まだ、
あどけない顔立ち。七、八歳くらいだろうか。服装は、黒いローブに黒い尖がり帽子――どう見 
ても、魔女のそれだ。いやに赤黒い林檎の入った籠を膝に抱えたまま、眠りこけている。    
 ベラはエヘン、と大きく咳払いをひとつした。                      
 すると少女はたちまち瞼を開いた。少女は、バネ仕掛けの獣罠のように勢い良く立ち上がり、 
ローブの袖で口元の涎を拭うと、堰を切ったようにぺらぺらと愛想良く喋り始めた。      
「いらっしゃいませ! こんな夜分にご苦労様です。何をお探しでしょうか? この毒リンゴな 
んかどうです? 食べたら最後、たちどころにあの世行きですよ」              
 少女は抱えていた籠から、赤黒い林檎をひとつ取り出してベラにかざした。         
 少女のお薦めを無視して、ベラは部屋をきょろきょろと見回した。ようやく薄暗い部屋に目が 
慣れてきたのだ。                                    
 店の中は、明らかに如何わしい物で満ち溢れていた。頭蓋骨の頭に立てられた蝋燭が、部屋の 
あちこちに置いてあり、それらをやんわりと照らしている。                 
 壁には一見して胸の悪くなるような、拷問や磔刑の絵がズラリと掛けられている。部屋の奥に 
ある細長い箱――よく見るとそれは棺桶だ。天井の梁からは、牛ほどもある巨大なトカゲらしき 
動物がからからに乾いたミイラになって、ぶら下がっている。見たところ、どのように使うのか 
判らない器具もごろごろと転がっていたが、そのどれもが一目で血と、そして死を連想させた。 
「そう云えば、『黒猫館』という名前の割に黒猫がいないじゃない」             
 ベラは少女に一瞥をくれて、口を尖がらした。                      
「ああ。黒猫はこの間の儀式の時に生贄が足りなかったもので、つい使ってしまったんですよね」
「ふうん」                                       
 一通り店内を見回したベラは、少女をじろりと訝しげにねめつけた。            
「魔女の婆さんが経営してるって聞いたんだけど――子供じゃない」             
「あら、本当はあたし、二百九十二歳なんです。前の体、相当ガタがきてたんで、この前この体 
に取り替えたんですよ。ほら、先週隣村で子供が一人行方不明になっていたでしょう?」    
「ああ、あの子。確か鍛冶屋の娘の……」                         
「あれですよ、あれ。ヒッヒッヒッ」                           
 少女は白目を剥いて、舌を出しながら喘ぐように笑った。                 
「笑い方は婆さんぽいわね」                               
「こちらの空飛ぶ箒はいかがです? 今ならおまけでチリトリも付いてきますけど」      
 少女は隅に立て掛けてあった粗末な箒を手に取った。                   
 ベラは、傍らに据え付けてあった木製の簡素な椅子に腰を下ろして、ゆったりと足を組んだ。 
椅子は硬く、座り心地はあまり良くない。                         
「またの機会にしとくわ」                                
 ベラは肘掛の横に奇妙な突起が飛び出ているのに気付いた。指先で何気なく、その突起を撫で 
回してみる。                                      
 部屋の隅に箒を放り投げた少女は、世間話をするように朗らかに声を掛けた。        
「その突起は捻らないように注意して下さいね。魔女狩りの異端審問の時に使うんですよ、その 
椅子。突起を捻ると、手枷と足枷が体を固定して、椅子から棘が飛び出して全身串刺しですよ」 
 ベラは慌てて椅子から跳ね起きて、少女を睨みつけた。しかし、少女はまったく悪びれた様子 
がない。                                        
「あっちの鋼鉄の処女はどうです? 中古品ですけど新品同然ですよ。まだ三人しか使ってない 
んですよ。三人使っていても、処女ってね。ヒッヒッヒッ。――いらない? あ、そう。ところ 
で、うちにはどなたからの紹介です?」                          
「うちの隣のシンデレラ、あの貧相な顔の痩せっぽちがね――ここのドレスと馬車でうまく玉の 
輿に乗ったって聞いてね、同じ手を使う事にしたのよ。私も王子をたらし込んで、モノにしよう 
と思って」                                       
「はいはい、シンデレラさんね。では、あなたもドレスを?」                
「そうよ。来週は隣国で舞踏会があるのよ」                        
「なるほど。ところでこの黒ミサ用のヤギの被り物はどうです?」              
 少女は尖がり帽子を脱いで、その代わりに作り物のヤギの頭蓋骨を頭に被った。眼窩の奥から、
ベラを覗き見る。                                    
 ベラは顔をしかめて手を振った。                            
「いらないわ。馬車も仕立ててもらえる?」                        
「馬車ね。今の一番人気はカボチャですねえ。他にナスやキュウリもありますけど」      
「カボチャでいいわ」                                  
 ヤギの頭蓋骨を脱いだ少女は、今度はカウンターの裏から青白い手首を取り出した。にんまり 
と笑みを浮かべて、自分の頬にその手首を擦り付ける。                   
「この死刑囚から切り取った左手! なんかは気になりませんか? まだピチピチですよ」   
 ベラは苛立たしげに首を振った。                            
「興味ないわ。それと、ドレスはあの女より派手にしてくれない?」             
「はい、シンデレラさんより派手なドレスですね。ええと、シンデレラさん予算を渋って当日レ 
ンタルにしたもんで、夜中の零時でドレスが消えちゃったんですけど、お客さんどうします?」 
「おかしいじゃない。聞いた所によると、会場にはガラスの靴が残っていたという話よ」    
「ああ、お金にほんのちょっとだけ余裕が出来たので、靴だけ一泊二日のご契約にしたんですよ」
 ベラは悔しそうに舌打ちした。                             
「ちぇっ、あの忌々しい灰まみれ女め。靴も当日レンタルにしておけば良かったものを。私は一 
式全て一泊二日レンタルにしておくわ」                          
 ベラは懐から、わびしい音が響く財布をもったいぶって取り出し、会計を済ませた。金額はベ 
ラの有り金ほぼ全部に達した。                              
「毎度有難うございます。こちらのカードのポイントが一杯になりますと、もれなく蝙蝠の干し 
首をなんと十個! プレゼントさせて頂きますよ」                     
「それはいらないわ。ふふ……これで、私も――王女」                   
 満足げに呟いたベラは、まだ見ぬ王城へと思い馳せた。そして王女としての華やかな暮らしぶ 
りに、想像の羽根を広げた。王女って、毎日何をすればいいのだろう? 毎日詩や歌を詠んでい 
ればいいのだろうか。国儀の時には、家臣どもにせいぜい愛想良く手を振らないと駄目だろう。 
それに舞踏会では、若い侯爵や子爵たちから必要以上にちやほやされて、王子が嫉妬して不機嫌 
にならないよう、気を配らないといけない。それから、身の回りの世話をさせる小間使いの侍女 
は何人くらい必要だろうか。三人、いや四人くらいか? 着替え係、髪を結う係、風呂で体を洗 
う係、それに腰を揉む係も必要だろう。(ベラはひどい腰痛持ちだった)庭園を散歩する時の話 
し相手に、若くハンサムな小姓を抱えるのもいいかもしれない。               
 こうやって考えてみると、王女という身分もなかなか大変そうだ。こうしてはいられない――。
 ベラは、夢想から我に返ると、                             
「そうと決まったら忙しいわ。早く帰って、髪を梳かして、爪も磨かないと。それじゃあ、うま 
く王女になれるよう、宜しく頼むわよ」                          
 と、少女に威勢良く告げて、意気揚揚と黒猫館を後にしていった。その背中は、揺るぎない自 
信と気合が溢れていた。                                 
「では、舞踏会当日に、お宅にカボチャの馬車でお伺い致しますよ。頑張って下さいねえ。ヒッ 
ヒッヒッ」                                       
 少女は小さな手を振りながら、ベラの背中に声を掛けた。                 

 ――そして舞踏会当日。ベラは器量が並以下だったため、王子の目には映らなかった。