遺産                                        



                                    The legacy   

 うら寂れた村の片隅にオーティス・スワンソンのあばら家はあった。オーティスは洗礼の儀式 
を受けてこの方六十年間、このあばら家に住み続けてきた。妻にはとうに先立たれ、子供もなく、
田舎で一人寂しく静かに暮らしていた。                          
 ところがある日、思いがけない出来事が起きた。遠い遠い親戚から莫大な遺産を受け継いだの 
だ。一族を飛び交う噂によると、その額は何千ポンドとも何万ポンドとも囁かれていた。しかし 
ながら、オーティスは余命幾ばくもなかった。ひょんな事から重い病にかかったのだ。医者の見 
立てではあと半年持たないと云われていた。                        
 すると、世間からすっかり忘れられていたこの老人は、にわかに親類中の関心を集めはじめた。
どこから聞きつけたのか、甥や姪だと称する人物が、オーティスの世話をしようと群れをなして 
あばら家へ押しかけてきた。さながら砂糖に群がる蟻の群れといった具合である。庭で放し飼い 
の鶏は、かつてない家の賑わいに異変を感じて、けたたましく騒ぎ始める始末だった。     
 彼らは莫大な財産の配分に備えて、とにかくオーティスに少しでも恩を売ろうと訪れた連中だ 
った。彼らはこぞってオーティスに好印象を与えそうなポジションを奪い合った。スワニーは、 
叔父の足腰が弱っている事を見て取ると、すかさず専用の車椅子を用意して押し始めた。リサは 
毎日のオーティスの食事を受け持った。ウェインは、あばら家の裏手にある、痩せた畑を耕し始 
めた。                                         
 皆、何かに取り付かれたように甲斐甲斐しくオーティスの世話を行った。オーティスが軽く右 
手を上げただけで、傍らには揉み手をした甥や姪たちが半ダースほど集まった。        
そんな有様を見てオーティスは、ちょっとした幸福感に浸った。不幸にも病気になって長くない 
命だが、偶然転がり込んできた遺産のお陰で、最後の半年間は賑やかに楽しく暮らせそうだ。オ 
ーティスは首に掛けていた十字架を握り締め、神に感謝を捧げた。              
 オーティスの家に押し寄せたそんな親戚連中の中に、チャーリーという若者がいた。一見、背 
がスラリと高く、なかなか利発そうな顔つきをしている。常に周りを伺うようにきょろきょろと 
よく動く目が特徴的だった。チャーリーは一族の中でも抜け目が無く、抜きん出た切れ者だと評 
され、一目置かれていた。切れ者の評判よろしく、チャーリーは叔父の家を訪れてすかさず、牛 
舎にいた黒い大岩のような牛に目を付けて、世話を開始した。オーティスがこの「悪魔の暴走」 
号という不吉めいた名の牛を、我が子のように大事にしていたのを思い出したからである。他の 
親戚たちは感嘆の声をあげた。この牛を世話すれば、財産の分け前が増える事は間違いなかった 
が、誰にもその勇気はなかったからだ。皆、金よりも命の方を天秤に掛けたのだ。「悪魔の暴走」
号はその名に違わぬ恐ろしい牛だったのである。その体躯は、全身が赤黒い毛と、戦いによる傷 
で覆われており、引き締まった筋肉が小山のように盛り上がっていた。また、頭部には二本の鋭 
い角が禍々しく天にそそり立っていた。そして、「悪魔の暴走」号は、オーティスを含めて人間 
という人間を憎んでいるらしく、牛舎に入ってくる全ての人間に向けて、常に威嚇の唸り声をあ 
げ、鼻息を荒くした。その物騒な姿を見た全ての人間は即座に回れ右をして、安全が確保できる 
場所まで早足を敢行するのだった。村人の間ではこの牛は狂っていると、もっぱらの評判だった。
実際に牛を見た人間は、その評判を更に飼い主のオーティスにも当てはめた。         
 そもそもオーティスがこの牛を飼う事にした由来からして尋常ではなかった。なんでも、オー 
ティスが森の中で狼の群れに取り囲まれて絶体絶命だったという時に、突然「悪魔の暴走」号が 
狼の群れに狂暴な突進を行って、オーティスの窮地を救うという、ひどく眉唾な事件があったら 
しい。その後「悪魔の暴走」号は、感謝の愛撫をしようと近寄ったオーティスにも、狂暴な追撃 
を企てようとしたらしいのだが、その真偽の程は定かではない。とにかくオーティスはそれ以来、
この狂牛に惚れ込んでしまい、無理やり捕えて牛舎で飼っているというわけである。      
 このいわく付きの牛の世話という、チャーリーの向こう見ずな行為は、オーティスと親類たち 
の称賛を確かに集めた。チャーリーは生傷を擦りながら、早くも財産分与の皮算用を始めた。  
 だが、チャーリーの地位を脅かす、強力なライバルが台頭した。チャーリーの従姉妹のジョア 
ナである。彼女は、自分の美貌をよく弁えていて、それを上手に利用して今までのらりくらりと 
生きていた女だった。彼女を知らない男は、まずは薔薇のように美しいその美貌に引き寄せられ 
た。そして、随分後になって気付くのである。自分の身体がいつの間にか、無数の棘によって痛 
々しく傷を負っている事を――。ジョアナはオーティスに、上得意の客に流し目を送るホステス 
のように甘い声で囁きかけ、可愛いらしい姪御を効果的に演じた。オーティスもまんざらではな 
い顔つきだった。                                    
 さらにジョアナは、とどめの一手を打った。オーティスが一人暮らしの寂しさを紛らわす為に 
飼っていた様々なペットに目を付けたのだ。それは、鸚鵡や猫や犬というオーソドックスなもの 
から、イタチ、亀、鶏、蛇、中には手長猿と云った一風変わったものまでおり、再び世界に大洪 
水が訪れるのではないかと懸念するほど、多岐に渡っていた。おかげで、オーティスのあばら家 
は常にそれらの動物でひしめき合っており、初めて訪れた人は一様に動物園の檻の中に入ったと 
錯覚を起こした。そんな動物達の厄介な世話を一手に引き受けたのだ。これが大変な苦行である 
ことは、誰の目にも容易に想像出来た。故にオーティスへの大きなアピールになった。     
「叔父様。私は動物が大好きなんですよ」                         
 ジョアナは、彼女をよく知る人が聞けば噴飯物の台詞を、朗らかに口にした。        
 そんな様子を横目で見ていたチャーリーは、焦りを感じた。そして内心ではジョアナの見事な 
手口に舌を巻いた。今や風は誰の目にもジョアナに向かって吹き始めている。         
 そこでチャーリーは隙を見計らって、叔父の耳に、ジョアナについてのある事ない事を吹き込 
むことにした。ジョアナの株を下げようという作戦である。                 
 チャーリーは、やり手のセールスマンのような底抜けの笑顔で叔父の側に寄り添った。    
「叔父さん、知っていますか。ジョアナはまた男を替えたそうですよ。一体、何人目の男なのか 
僕には見当も付きません。恐らくジョアナ自身にも分かっていないでしょう。神のみぞ知るって 
やつですな」                                      
「こら、神を冗談の種にしてはいかん」                          
「それに彼女は、金遣いも荒いと評判でしてね。聞いた話によると、一晩で百ポンド使い切った 
事があるそうですよ。それもただ使ったんじゃありません。なんでも札束を火口にして暖炉に火 
を点ける、なんて無茶苦茶な事をしたそうです。彼女は金の使い方なんてまるで分かっちゃいま 
せん。彼女に金を与えるなんて、猿に百科事典を与えるようなものですよ。何かが書いてある事 
は判るが、使い方は判らないって訳です。もしもお金があるのなら、僕なら教区の教会に寄付し 
ますね。その方がよっぽど世の中の為になる」                       
「ほう、チャーリー。なかなか良い事を云うじゃないか。お前がそんなに真摯な奴だとは知らな 
かったよ」                                       
 オーティスは感心したように頷いた。                          
「叔父さんは僕をあまりご存知なかったようですね」                    
 チャーリーは得意げに云った。                             
 どうやら、天秤は自分の方に傾いてきたようだ。チャーリーは大きな手応えを感じてほくそ笑 
んだ。                                         
 ところがその有様をジョアナがこっそり見ていたのだ。ジョアナは、チャーリーの作戦を敏感 
に察し、こちらも負けずと叔父にチャーリーの雑言を吹聴することにした。          
「叔父様。ちょっといいかしら」                             
オーティスがひとりになるのを狙って、ジョアナは適度に品を作りながら、叔父に擦り寄った。 
「どうしたんだね。ジョアナ」                              
「チャーリーの事で少し。叔父様に教えておいた方がいいかと思って」            
「チャーリーがどうしたというんだね」                          
「チャーリーったらね。もう結構な歳ですよね、三十五といったら。あの歳で未だに定職にも就 
かないで、つまらない博打にうつつを抜かしているらしいですわ。博打打ちのご多分に漏れず借 
金漬けの身で、今じゃ素寒貧同然なんだそうですよ。憐れんで、彼にお金を与えると彼を経由し 
て、そのままあちこちの借金取りの懐に流れるらしいですわ。チャーリーのことを、身内じゃあ 
切れ者だと噂する者もいますが、私に云わせれば、どこの神経が切れているのか知れたものでは 
ありませんわ」                                     
「ほう、そうなのかい。それは知らなかったなあ」                     
「叔父様がご存知ない、チャーリーが隠している愚かしい性癖は山というほどありますわ」   
 ジョアナはそう云ってせせら笑った。                          
 物陰でその様子を伺っていたチャーリーは、歯軋りして悔しがった。そして急いで次の効果的 
な案を練り始めた。オーティスの預かり知らないところで、チャーリーたちの水面下での泥仕合 
は長期化の様相を見せ始めた。                              
 やがて、チャーリーたちにとって長い長い半年が過ぎた。少なくともチャーリーの牛を扱う技 
術と、身体に出来た生傷の数は、ちょっとした博労よりも抜きん出るようになっていた。    
 親類内での下馬評では、切れ者のチャーリーがジョアナを頭ひとつ抑えて、オーティスの信頼 
を勝ち得ていると、もっぱらの評判だった。やはり例の「悪魔の暴走」号の評価が高いらしい。 
 冬に入ると医者の見立て通り、オーティスの病状は、にわかに悪化した。そしてとうとう床に 
伏せってしまい、もう誰の目にも駄目だろうと映った。医者も首を振って匙を投げた。オーティ 
スは自室で一族の連中に見守られながら、死を待つばかりとなった。             
 部屋には、オーティスの荒い息遣いの音だけが響いていた。その時が刻一刻と近づくにつれて、
ベッドを取り巻いていた全員が、そわそわと落ち着かなくなった。オーティスが、誰もが気にな 
っている例の件を全く語ろうとしなかったからである。居た堪れなくなったジョアナは、叔父の 
枕元に詰め寄った。                                   
「叔父様。遺言は?」                                  
 その他全員が聞きたい事柄もまさにそれであった。                    
「心配するなジョアナ。既に書き記してある。そこの引き出しに入れておいた。わしが死んだら、
皆で見るがよい」                                    
 オーティスは震える指で、部屋の隅にある粗末な机を指差した。気を揉んだ皆の目が一斉に机 
に注がれた。皆の熱い眼差しで、机は燃え上がらんばかりだった。気の早いスワニーは机を食い 
入るように見つめ、早くも喉をゴクリと鳴らした。                     
 皆の期待を一身に背負ってオーティスは、その日の明け方、ついに天へと旅立った。立ち会っ 
た神父に云わせれば、期待を背負いすぎて、重さのあまり天に昇るのに支障が出るのではないか 
と危ぶんだ、との事だった。                               
 やがて親戚一同の前で、遺言状は、見苦しいほど慌てて開封された。            
 オーティスは受け継いだ遺産のあらかたを、教区の教会に寄付してしまっていた。彼は敬虔な 
カトリック教徒だったのだ。遺言により、チャーリーには「悪魔の暴走」号が、ジョアナにはそ 
の他の全ての動物が、それぞれ贈られた。