眠る時のお話                                      



                                  The Goodnight Tale   

「ねえ、お母さん、何かお話してえ」                             
 五歳になるエレノアはベッドの中から母親にねだった。                    
「今日はお母さん疲れちゃったのよ。明日にしてくれない?」                  
「やだやだ。眠れないの。目が冴えちゃったんだもの」                     
 エレノアは巣の中で母鳥に餌をねだる雛鳥さながらに喚いた。エレノアがこの状態になると、何か 
「お話」をしない限り死ぬまで泣き叫ぶであろう事はアンジェラには身にしみて分かっていた。この 
ままでは、隣の部屋ですでに眠っている夫のスティーブまで起こしかねない。           
「わかったわ。あんまり騒がないで。お父さんはもう寝ているんだから」             
 アンジェラは優しくあやした。                               
「それで、今日はどんなお話がいいの?」                           
「うんとねえ、赤頭巾がいい」                                
 またあの話か! アンジェラはため息を押し殺した。赤頭巾はエレノアの、お気に入りのお話のひ 
とつだ。すでに何十回も読んだ、ということはなるべく考えないことにする。きっと主人公の台詞は 
すべて空で言えるだろう。いつものように悪いオオカミの腹に、石を詰め込んで縫い付けるという結 
末で、エレノアは大喜びするはずだ。そして満足してようやく眠りに就くのである。        
「はやく、はやく」                                     
 エレノアは母親に催促した。                                
 アンジェラは観念して、絵本を開いて読み始めた。                      
「むかしむかし、ある所に――」                               
                                              
「アンジェラ、疲れたのかい」                                
 次の夜、夫は暖炉の前でぐったりと肩を落としている妻を優しくいたわった。アンジェラは今日も、
エレノアにお話を聞かせて寝かしつけてきたのだ。せがまれた話は今日も赤頭巾だった。      
「赤頭巾はね、いつも話の最後まで起きてるから時間がかかるのよ。他の話はたいてい途中で寝てし 
まうから、そうでもないんだけど」                              
「そうだ、明日からは僕が代わりにエレノアに読んで聞かせよう」                
 スティーブは妻のカップにコーヒーを注いだ。                        
「あなた、絵本はただ読むだけでは駄目なのよ」                        
 アンジェラはコーヒーを一口飲み、                             
「子供っていうのは、何でも聞きたがる性質なんだから。すべての心無い質問に澱みなく答えられな 
くてはいけないのよ。こういってはなんだけど、あなた、不意の質問にまったくアドリブが利かない 
じゃない」                                         
「へえ、そうなんだ。例えば?」                               
「今日なんか、赤頭巾はどうして赤い頭巾を被っているの、なんて聞くのよ。あなた答えられる?」 
「……」                                          
「そもそも寝かしつける為に本を読むわけだろう。ゲーテの『ファウスト』なんか聞かせたら、すぐ 
さま眠りこけるんじゃあないか?」                              
 スティーブは、我ながら上質のジョークだと思ったのだが、妻は力なく微笑みを浮かべただけだっ 
た。その後しばらく、沈黙が二人の間を支配していたが、やがてスティーブが思いついたように語り 
始めた。                                          
「そういえば何かの本で読んだことがあるんだけど。子供が幼い頃に受けた様々な外的刺激が、その 
子の性格を形成する上で大きな影響を与えるそうだよ。例えばそう、毎日エレノアに聞かせる童話な 
んかもそれに当てはまる」                                  
 スティーブは舌で唇を舐めて続ける。                            
「僕は前から思っていたよ。その類の話ははたして子供に聞かせても良いものか。教育上悪影響を与 
えるんじゃあないかとね。だっていきなり人がオオカミに食べられたり、殺されたりするんだぜ。今 
はやり流行の、例のドイツ兄弟の民話集を知っているかい? あれなんかひどいもんだ。地方に伝わ 
る平凡な民話に彼らがずいぶんと手を加えてしまっていて、すべてが血塗られた残酷絵巻に仕上がっ 
ているんだ。子供への影響は二の次で、猟奇性で興味を惹かせて版数を伸ばそうという、あの兄弟の 
浅ましい考え方が伺えるよ」                                 
 スティーブはしたり顔でうなずいた。                            
「それで?」                                        
 アンジェラは夫を促した。                                 
「つまり僕が云いたいのは、子供を寝かしつける為に読む話にしても、もっと子供の為になる話を読 
んだ方が良いと思うってことだよ」                              
 スティーブは自分の述べた意見に満足して、コーヒーを旨そうにすすった。           
「子供にあんな話を毎晩聞かせていたら、将来どんな大人になるか知れたもんじゃない」      
 スティーブは、大人に成長したエレノアが、存在もしない継母に熱した石を入れた靴を履かせ、無 
理やり躍らせて、それを見て笑い転げている、という様を頭に思い浮かべて身震いした。      
「そうは云っても、エレノアに読んでやっている本はどの家庭でも普通に読んでいる本ばかりよ。私 
が子供の時、読んでもらった話もあるし」                           
「そう、その手の残酷な童話が世間に広く受け入れられていることがね、問題なんだよ。そこで考え 
たんだけど――」                                      
 と、ここで一息置き、劇的な効果を狙った。                         
「ひとつ僕は子供の為になる童話を創作してみようと思うんだ」                 
 スティーブは手を広げて少壮の政治家のように立ち上がり、温めていた考えを披露した。妻の顔に 
は、この突飛な思いつきにあまり感銘を受けた様子が見られない。だがスティーブは、先ほど語った 
自説には大いに自信があった。そして、                            
「僕は教師だぜ。子供向けの童話を作ることなんて訳ないさ」                  
 と付け加える。                                      
 アンジェラはどうしたものかと訝しく思ったが、彼女の夫は大いに乗り気になったようだ。    
「愛や友情や希望がたっぷり詰まっている善にまみれた話を作るつもりさ。構想はすでにあるんだ。 
エレノアにそれを毎日聞かせれば、将来どこに披露しても恥ずかしくない素敵なレディになるぞ」  
 スティーブはこの素晴らしい思いつきににんまりと口元をほころばせた。            
「あなた、作るのは勝手だけど、仕事を疎かにはしないでよね」                 
 とアンジェラは夫が示したような情熱は全然見せずに、そっけなく一言だけ告げて、さっさと寝室 
に下がった。                                        
 さっそくスティーブは次の日から創作を開始した。まずは娘の蔵書を読み漁り、童話への理解を深 
めることにした。思っていたとおり、そこにはナンセンスな戯言と、常軌を逸した残酷さがあちこち 
にちりばめられている。年相応に好奇心旺盛なエレノアは本棚にある、買ってもらった絵本はあらか 
た読んでしまっていた。こんな話ばかり読んでいたら、娘はどんな子に育ってしまうだろうか。政府 
は何故この様な悪書を取り締まらないのであろう。スティーブは憂鬱そうに頭を振り、改めて自分の 
作成する童話の重要性を認識した。                              
 スティーブは学校で教鞭を振るいながらも、頭の中では童話について考えを巡らせた。そもそも童 
話には必ずといっていいほど王様や城が出てくるが、これは如何なものだろうか。王や城というのは 
云うまでもなく封建制の象徴だ。産業革命を経て、資本主義の先駆国とも言える我が国において、そ 
の様な危険な思想を持った物語が世に横行していて、はたして良いのだろうか。また童話において、 
太陽や犬や花など人間以外の物や動物が擬人化され当然のように人間と語らうが、こんな馬鹿馬鹿し 
い事象、天地がひっくり返っても在りえない。正に噴飯ものだ。こんな話を聞かされて、子供が花と 
一緒に語らうようになったら、いったいどのように責任を取るつもりなのだろう。そしてあの目を覆 
いたくなる残虐な描写の数々。童話の中の住人はしょっちゅう手を切られたり、目を潰されたり、逆 
さ釣りにされて火あぶりにされたりと散々な目に遭う。一見可愛らしく装飾されているように見える 
が、一皮剥ければ死屍累々の山だ。おぞましいことこの上ない。それからよく天使や神が出現するが、
これなんかも冒涜にも程が過ぎるというものだ。くだらない童話に、天使や神をまるで近所の野良猫 
か何かのようにひょいひょい出没させるなんてもってのほかだ。神はもっと神聖で尊い不可侵な存在 
だ。                                            
 以上の点を考慮に入れて、スティーブは夜な夜な机に向かいペンを振るい始めた。奥のエレノアの 
部屋では、今日もアンジェラがエレノアに有害な童話を読んで聞かせている。あの手の童話が大好き 
なエレノアの精神は、かなり深刻な色あいに染まってしまっているものと思われる。早くこの作品を 
完成させて、エレノアの精神をきらきらと輝く純白色に矯正させなくては。そして肝心の内容だが、 
ルソーの思想もいくらか盛り込んだほうが良いかもしれない。また『ローマ人への手紙』一章におけ 
る痛烈な批判も、隠し味として忘れてはならない。それから王様は無し。残酷な場面も無し。弱い者 
苛めも無しだ。様々な思いからスティーブの執筆にはとても力が入った。また、エレノアが当然発す 
るであろう様々な質問にも備えて、あらゆる返答を用意することにも余念がなかった。       
 三日三晩を費やし、睡眠と、食後の一服と、そして家族との楽しい団欒とを犠牲にして、その大作 
は遂に完成した。そしてさっそくその日の夜、眠る前のエレノアの前で披露することにしたが、まず 
はその前に妻に読んでもらい参考意見を聴くことにした。                    
「アンジェラ、遂に出来たんだよ。ひとつ読んでみてくれよ」                  
「本当に? どれどれ――」アンジェラは作品を受け取り、興味深げに読み始めた。        
「……」                                          
 無言で読み終えたアンジェラはよほど出来栄えに衝撃を受けたと見えて、顔色が赤くなったり青く 
なったりめまぐるしく変化した。驚いて口が利けないとはこういう様を言うのだろう。スティーブは 
その反応に満足して、                                    
「じゃあ、エレノアを寝かし就けてくるよ」                          
 と作品を手に取りエレノアの元に軽快なステップで向かった。                 
「やあ、エレノア。今夜も眠れないのかい?」                         
 娘の部屋に入りこみ、父親は陽気に尋ねた。                         
「ううん。今日はもう眠いの」                                
 エレノアはベッドの中から目をこすりながら欠伸まじりに答えた。               
「まあ、そう云わずに。今日はお父さんがエレノアにお話を読んであげるよ。」          
「お父さんが?」                                      
 エレノアは閉じかけていた瞼を開いて嬉しそうに云った。そして、               
「どんな話? 青髭?」                                   
 と青髭の話への期待で瞳を輝かせた。                            
「いや、今日はね『とっても良い子のホリーアンナ』というお話だよ。なんと、お父さんが考えたお 
話なんだ」                                         
 スティーブは得意げに胸を張った。                             
「何それ。『とっても良い子のホリーアンナ』なんてお話、聞いたことないわ」          
 娘はがぜん俄然興味を覚えたようだった。                          
「じゃあ、読むよ――むかしむかし、あるところにホリーアンナという女の子がいました。ホリーア 
ンナの家はとても貧しかったのですが、ホリーアンナは正直で、気立てもよく、その上働き者だった 
ので、町のみんなの人気者でした。また彼女は毎日欠かさず神様にお祈りを捧げていました。その為、
聖書の詩篇の幾つかは暗記しているほどでした。詩篇を云える子は町ではホリーアンナと友達のカル 
メンだけでした。するとそんな偉い子がいるのかと、たちまち評判になり、ホリーアンナは町の広場 
で町長に表彰されることになりました」                            
「王様はどうしたの。病気なの?」                              
 と娘から予想通りの質問が飛び出した。                           
「王様は悪い人だったから」                                 
 スティーブは山が当たった受験生のようにニヤリとした。                   
「町の人たちみんなでね、やっつけたんだ」                          
「ふーん。変なの」                                     
 エレノアは首を傾げて、
「どうしてカルメンは表彰されなかったの?」                         
「カルメンの家はね、共産党員だったから表彰されなかったんだよ」               
 スティーブはすかさず一分の隙もない完璧な回答をした。                   
「そしてホリーアンナには大きな金のメダルが送られました。ホリーアンナは嬉しくていつも首に下 
げてみんなに見せて回りました」                               
「わかった。その金のメダルが誰かに取られちゃうのね。みんなに見せびらかして感じ悪いものね」 
「いや、町には悪い人は誰もいなかったんだよ。みんないい人だから、メダルを盗もうなんて考える 
ひとは一人もいなかったんだ」                                
 なんて美しい、素晴らしい設定だろう! その一節を読みながら、スティーブは心の中で自画自賛 
した。                                           
「その町には警察の人はいなかったの?」                           
「いや、普通にいたけど」                                  
 エレノアはこの返事が意外だったらしく目を丸くした。そして、                
「だって、町に悪い人がいないんでしょう? 警察の人なんていらないよね」           
 と不思議そうに云った。                                  
「そ、それは……」                                     
 思ってもみなかったこの不意打ちを喰らい、スティーブはここで初めて口ごもり、言葉に詰まった。
そんな質問に対する答えは想定していなかったのだ。スティーブの頭の中は瞬く間に真っ白になった。
 少しの沈黙の後、                                     
「――その町には悪い人はいなかったけど、隣の町には悪い人がいたからね。たまにその町に悪さを 
しに来たんだよ。だからね、警察は必要だったんだ」                      
 と、スティーブはとっさに、なんとかましだと思われる返事をひねり出した。          
「隣の町の悪い人たちは、その町にどんな悪さをしに来るの?」                 
 と、無邪気なエレノアは更に執拗にスティーブを攻めたてた。                 
「えーと、それはね、つまり、隣の町はね、実は――海賊の根城で、悪い人たちはその町に人さらい 
に来るんだよ」                                       
 スティーブは冷汗まじりに弱弱しく答えた。既に思いついたままを順に口にするだけになっていた。
 そんなやりとりをしばらく続けて、辻褄を合わせるために質問に闇雲に答えているうちに、話はど 
んどんどんどん本筋からかけ離れていった。気が付くとすでに、スティーブが思い描いた内容とは大 
きく逸脱してしまっている。このままではスティーブの目にも、物語の崩壊の時はそう遠くないだろ 
うと映った。しかし焦れば焦るほど口を突くのはしどろもどろの、なんら状況が好転しないアドリブ 
で、やがてスティーブの脳裏には、底なしの泥沼の映像が鮮やかに浮かび始めた。         
 結局、最後にはどういうわけか、とっても良い子だったはずのホリーアンナは、何故かホリーアン 
ナの命を奪おうと襲ってきた刺客を返り討ちにし、更にルネッサンスとジレッタントについて町の坊 
さんと殴り合いの口論になり、泥酔したあげくおもむろに町の広場で国旗を燃やし始め、親の財産を 
奪って、親友だったカルメンと連れ立って国外に逃亡するという――どう見ても、とても「良い子」 
とは云い難い子になって結末を迎えてしまった。                        
 予想外の結末にすっかり意気消沈してしまったスティーブは、慣れない一戦を交えたことによる疲 
労もあって、しばらく放心していたが、やがておずおずと、不安げに娘に感想を求めてみた。    
「どうだったエレノア。お父さんが作ったお話、面白かったかい?」               
「つまんない。お母さんが読んでくれるいつものお話の方がいい」                
 娘は即座に、手厳しい率直な意見を述べた。                         
「――つまらない話なら眠ってくれよ」                            
 スティーブは大きなため息をついた。