景気付け                                     	



                                The Encouragement    
                                            
 チェスのプロプレイヤー、クレイトンはおよそ人生のほとんどをチェスに費やして、ようやく 
先日国のチャンピオンへの挑戦権を獲得することが出来た。チャンピオンとの一戦は、国の大昔 
からの伝統である鄙びた田舎町で行われるのが慣例になっていた。町は小さな鉱山のふもとにあ 
り、町の人々は炭鉱を生業に細々と生活していた。もしも伝統の慣例で対戦の場と決まってなか 
ったのなら、鼻も引っ掛けなかったに違いない、意気揚揚と汽車を降りたクレイトンは辺りに広 
がる鄙びた景色を見回し、苦々しくそう考えた。もう少しで自分の今までの努力が報われる、自 
分の人生の頂点を迎えられる、そしてかつて自分を指差して嘲笑した有象無象どもを一笑に付す 
ことが出来る。不安は全くと言っていいほど無く、自分でも驚くほどの自信に満ち溢れていた。 
クレイトンはチャンピオンとの対戦を明日に控えて、大いに高揚した勢いで、町に繰り出して一 
杯やることにした。                                   
 その酒場は通りの隅にうずくまるように建っていた。建物自体は町と同じように風雨と砂に吹 
きさらされ、そのためか、こころなし傾いているようにさえ見える。クレイトンは窓から中を覗 
き見て、客の質も酒場に見合ったものだと見当を付け鼻を鳴らした。あたりを見回し、まだ宵の 
口だというのに酒場のほかに明かりが見えないのを確認すると、肩をすくめ酒場の中に入った。 
 酒場はそれなりに喧騒とひといきれと――そして思ったとおり砂埃に包まれていた。クレイト 
ンはしばらくカウンターでグラスを抱えて喉を湿らしていたが、ふと見た片隅のテーブルで、チ 
ェスをやっている男達を見つけ目を輝かせた。そしてここはひとつ景気付けに素人相手に一席実 
力を披露するのも悪くない、大いに優越感に浸ってやろうと考えた。クレイトンは満面の笑みを 
浮かべて男達に近寄っていった。こういった田舎町の人間は、洗練された都会人には人見知りす 
るものだ。見たところ、勝負は白熱しているようだ。盤のまわりには幾人かの酔っ払いが囲んで 
いる。                                         
「やあ、今晩は。盛り上がっていますね」                         
 男達はとたんに押し黙り、スーツを着込んだクレイトンを明らかに自分達と毛色の違うよそ者 
とみなして――じろじろと無愛想にねめつけた。                      
「何か御用ですか。都会から来なすった旦那」                       
「実は僕もチェスをたしなむんですよ。ぶしつけですが一局お相手願いませんか」       
 クレイトンはきわめて陽気に言った。そして、                      
「皆さんに一杯おごりますよ」                              
 と付け足した。                                    
 効果は絶大で、男達の態度はコインの裏表のようにいっぺんにひっくり返った。       
「こいつはどうも。旦那の健康に一杯。どうぞどうぞ。私でよければ相手になりますよ」    
「ありがとう」                                     
 クレイトンは空いた席に腰を掛けた。                          
 ほほえましく対局が始まった。相手の男は鼻を赤らめており、見たところすでに大分聞こし召 
しているようだ。着ているものは着てる本人同様くたびれており、垢にまみれていた。周りの酔 
っぱらいも皆似たり寄ったりだ。クレイトンはこの集団のあまりの汚らしさに顔をしかめた。男 
のチェスの実力は大したことはなく、ルールを覚え、間違わないで駒を動かせる程度だと見て取 
った。                                         
 猫が鼠をいたぶるようにクレイトンはじわじわと相手を攻めた。そして、          
「この町ではチェスが盛んなんだね。まさか酒場で対局しているとはね。さすがは伝統の一戦が 
行われる町なだけあるよ」                                
 と朗らかに言ったが、                                 
「いやあ、単なる手慰みでさあ。ほかに娯楽が無いんでね。こんな田舎町じゃあ」       
 男は素気無く答えた。                                 
 一局目はあっさりクレイトンが勝った。まさに相手陣地を蹴散らした完全な勝利だった。実力 
からすれば全く相手にならない相手からの勝利だったが、クレイトンは大いに溜飲を下げ機嫌良 
く言った。                                       
「どうだい、今度は僕が戦車と騎士と僧侶を落として勝負しようじゃあないか。僕に勝ったら一 
ソブリン進呈しよう」                                  
 クレイトンの口ぶりからは、間違っても負けっこない、というニュアンスが節々から感じられ 
た。                                          
「本当ですか。それじゃあもう一局」                           
 弱い者苛めにも似たクレイトンの勝ちっぷりに男達は渋々うなずいたのだが、当然の勝利に子 
供のように嬉々としていたクレイトンはまったく気が付かなかった。             
「チェスってのは人生に似ているとは思わないかい。一手一手最善の手を尽くしてチェックメイ 
トという成功を収める」                                 
「へえ、私はこの試合でも人生でもチェックメイトのチの字も見えない有様で」        
「それは、途中で指す手を間違えたんだよ」                        
 クレイトンはせせら笑いながら高飛車に言った。                     
 それからもクレイトンは、男が悪手を刺すと、頼まれてもいない指導や解説を周りの酔っ払い 
相手に始め、男が手を止めて考え出すと、したり顔で、                   
「ゆっくり考えたまえ。時間はたっぷりある」                       
 と愛想よく言い、相手をわざとらしくいたわってみせた。                 
 クレイトンはしばらくそんな調子でべらべらしゃべり続け、酒場の人々を苛立たせていたが、 
いつのまにかカウンターにとびきりの美人がいることに気付いた。服装は他の者同様のぼろだっ 
たが、どう見てもこの煤けた町にはそぐわない美貌の持ち主だった。見ると女はこちらのテーブ 
ルを見て、魅力的な流し目を送っている。                         
「ゆっくり慎重に考えたまえ。ここは重要な場面だよ」                   
 クレイトンはそう言い残すと、テーブルとカウンターはおよそ十フィートは離れていたのだが 
――まるで騎士の駒のごとく女の隣に飛び跳ねた。                     
 女の態度はまるでつれないものであったが、試合の合間を見てクレイトンは自分のありとあら 
ゆる手練手管で女を口説き始めた。端から見ても見苦しい程、クレイトンはしばらく情熱的に無 
駄な努力を続けたが、やがて対戦相手の男が仏頂面をしていることに気付いた。        
「ずいぶん機嫌がよくないみたいだね。急に一体どうしたんだね」              
「そりゃあ、自分の妻にそう露骨に色目を使われたんではね。妻は私を迎えに来たんですよ」  
 男は腹立だしげにつぶやいた。                             
「逆立ちしたって旦那にはかないっこないみたいなんで一ソブリンは諦めますよ。対局の途中で 
すが私はこれで失礼します――すっかり酔いが醒めちまった」                
 男は立ち上がった。                                  
「それからもう一つ。確かに私は途中で指す手を間違えたのかもしれない。しかし、この妻はあ 
なたのものじゃない。私のものだ」                            
 男はクレイトンを嘲るように笑うと、クレイトンに見せつけるように妻と熱い抱擁を交した。 
そして男は不相応に美しい妻と仲良く連れ立って家に帰っていった。             
 対戦相手に去られたクレイトンは、ばつが悪そうに周りを見回し苦笑いを浮かべた。     
「実は僕は明日チャンピオンと王座を賭けて争うプロなんだよ」               
 クレイトンは非常に遅まきながら隣にいた酔っ払いの男に言った。             
「ああ、そうですか。道理で強いと思いましたよ」                     
 酔っ払いの男は欠伸をかみ殺して言った。                        
 酒場を出た宿屋への帰り道、さっきまでクレイトンの全身を包んでいた高揚感と勢いはすっか 
りどこかに吹き飛んでしまっていた。