もうひとつのYouthful days








 運命など、信じたことも無い。

 だが仮にもし、そんなものが実在するとしたら――――。

 あの時が、その瞬間だったのだろうか。

 この胸の内で、確かにあの時、それは高らかに鳴り響いた。

 何かを予感した。運命を告げる、そんな音色で鳴った鐘の音だ。

 

 

 夏期休暇を目前に控えた初夏のある日。その年の春に知り合ったばかりの火村英生というひとりの男と有栖は待ち合わせをしていた。

 待ち合わせと云っても、学内の図書館でのこと。その日最後の授業に出る前に、そこで火村とばったり出くわした。火村は、今日はもう授業がないと云い、有栖はあとひとコマ残っていると云い…有栖の授業が終わるまで、彼は図書館で待つと云ったのだ。

 有栖は法学部。火村は社会学部。お互いに学部が違うのに、最近は気づけば彼と過ごしている。一緒に過ごす時間が、確実に増えていた。

 社会学部の秀才は、法学部の講義に潜り込んでいた。たまたま隣に居合わせたのが、有栖だった。

 そんな切っ掛けで、火村とは友達になった。

 共通点らしきものはあまり無い。犯罪そのものに興味を抱いている様子ではあったが、火村はミステリ小説には興味は無いらしい。最近、それがわかってきた。

 学部も違うし趣味も合わない。あの五月の日に、授業そっちのけで投稿用の原稿を書いていた有栖のそれに、彼が興味を抱いたことが既に奇跡のようだと、今なら思う。

 知り合って、僅か一ヶ月。大した共通点も無いのに、何故か会話に困る事は無くて、気がつけば、それまで仲良くしていた友達といるよりも、火村と共に過ごす時間の方が多くなっていた。

 

 

 講師が教室を立ち去るのすら待ちきれず、有栖は駆け出していた。

 息を切らして辿り着いた図書館の前で、一度深く深呼吸をして、その中へ入っていく。きょろきょろと辺りを見渡して、直ぐに火村を見つけた。

「待たせたな」

 場所柄を弁えて小声でその横顔に声をかけた。

 分厚い専門書に視線を落す青年は、ひどく真面目な横顔だったから、そんな一言を言い出すのにも、二呼吸ほど躊躇した。

 人の数に比べれば奇妙に静まり返った図書館で、火村はうっそりと顔を上げ、僅かにその眼を細め、有栖に笑いかけてきた。

 本を閉じて、火村はゆっくりと立ち上がる。読んでいたそれは書棚に戻した後で、彼は有栖と肩を並べ歩きだし、図書館を出た。

 有栖は大阪から通っていて、火村は京都、北白川に部屋を借りていた。通学はバスが主だが、最近原付を買ったとかで、今日はそれで来ていた。

「ゲンチャ…どーすんだよ。火村、これ置いてく?」

 大学の駐輪場で火村の愛車――と云っても、中古を友人から二束三文で手に入れたものらしい――の前で、有栖は眉を顰めた。

 今日は、火村を自分の買い物に引っ張りまわす予定でいた有栖は、彼が愛車で学校までやってきたことに不満を漏らしたが、火村は全く困ったところなど無いとでも云いたげな表情だ。

「乗せてってやるよ。それでいいだろう?」

「ゲッ!ゲンチャのふたり乗りっ!?」

「なんか、文句でもあるか?」

「見つかったら捕まるってっ!」

「捕まらなきゃいいんだよ」

 にやりと嗤って、火村はさらりとそう云った。

「寒っむ〜男同士でゲンチャのふたり乗り……」

「なんなら現地集合でも構わないぞ?」

「うっ……」

 有栖だけ地下鉄を使って行けというのか。それもちょっと侘しいと思って、有栖は小さく唸った。

「判った、判った…。乗せてってくれ」

「はじめから、素直にそう云ってればいいんだよ」

 ふたりを乗せて、火村の原付は緩やかなスピードで京の町を走り抜けた。

 火村の腰に手を回し、過ぎ去る風景を見送りながら、身近に感じ始めた夏の匂いに、思わず有栖は微笑んだ。

 

 

 

 フィギアショップの中で、有栖は年甲斐もなく子供のようにはしゃいだ。

「これこれ!限定品なんやでっ、凄いやろう!」

 ゴールドカラーの、一つの胴体に三つの頭を持った怪獣のフィギアを手にして、有栖は自慢気にそれを見せてくる。

 子供の頃から怪獣好きで、今では立派な怪獣フィギアコレクターへと育っていた有栖だった。何がそんなに嬉しいのか全く理解できない火村は、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。しかし、こんな子供染みた趣味を、二十歳を過ぎて尚持っていられる有栖が、何処か羨ましい気もする。そんな童心など、とうの昔に忘れてしまった。

 有栖は火村を捕まえて、この怪獣は

「ウルトラマン」の第何話かに登場したもので…などと薀蓄を語り始めた。そうかい、それは良かったな…なんて具合に生返事を返す火村のシラケ振りも全く気にならない様子だ。

 その後もあちこちの玩具屋へ引っ張りまわされ漸く北白川の火村の下宿先へ戻ったのは、夕方近くになってからだった。

 火村の部屋に入るなり、有栖は買って来たばかりの怪獣のパッケージを破り始めた。

「そういうのは、封を切ったら価値が無くなるものなんじゃないのか?」

 コレクターの気持ちが判らない火村だが、商品の〃状態の良さ〃がコレクションの命だということくらいは知っていた。

「別に人に売る気なんてないもん。大体、手で触らんで外側から眺めて楽しむだけやなんてつまらんやないか。これ、玩具なんやで?」

 有栖の意見はもっともだ。有る意味正しい…が、それでは本当に子供と同じ感覚で玩具を購入したことになる。それもどうだろう…と火村は思うのだ。

 結局購入した怪獣玩具は全部で四体。それを次々と畳の上に並べ、有栖はご満悦だ。中には、古道具屋で買ったプレミア付きの高価な値がついていたフィギアもある。

「はぁ〜カッコエエよなぁ〜。これ、子供の頃喉から手が出るほど欲しかったんや」

 そう云って、長年探し続けていたという〃プレミアつき〃を手に取って、有栖は貌一杯に笑顔を浮かべる。

 火村は相変わらずやはり理解できないな…と思いながら、胸ポケットから取り出したキャメルに火を点けた。

 それまでひとりではしゃいでいた有栖が、ふとそんな火村へと視線を移した。

 開け放たれた、古びた格子窓に肘をかけて煙草を燻らせながら外の風景を見つめる火村の姿に、奇妙な物悲しさを感じた。

 日が暮れ出していた。何だろう…この妙な寂しさは…。

 子供の頃、まだ遊んでいたいのに、公園まで母親が迎えに来た時に感じたあの気持ちと、何処か似ていた。

 楽しい時間というのは何時もあっという間に過ぎて行く。

 開け放った窓の枠にトリミングされた、夕焼けの町。その風景に切り取られた火村の姿。

 何故だか、取り残されたような気分になった。

 自分とは別の場所にいる人。手を伸ばせば直ぐに捕まえることができるくらい近くにいるのに、自分と火村との間に、見えない距離を感じた。

「――――火村……」

 説明のつけられない寂しさを感じ、思わずその名を口にした。

 振り向く男の眼は何処までも静かで、意味も無いのに思わず呼んでしまった自分の口唇の不用意さに、有栖は戸惑った。

「―――何でもないんや…ちょっと、呼んでみただけや」

 平常心を装いながらやっとの思いでそう呟いた。へんな奴だな…そう云って、火村は再び窓の外へと視線を投じた。

 何だろう…この感情は。

 他の友達には抱いたことのない気持ちを、何故火村に抱いてしまうのか。

 何故か遠い。同い年で同じ大学に通う友達なのに。火村の存在は、余りにも遠いと感じる。

 その時初めて、有栖は思った。

 近づかなければいけない……。

 何故だか、そんなことを思った。

 買ったばかりの怪獣のフィギアを握り締めて、何故だか有栖は、そんな決意を胸に秘めた。

 

 

      †

 

 

 ふたりが知り合ってから、三度目の夏が巡ってきた。

 夏休みをいいことに、ここ数日、有栖は火村の下宿に入り浸っていた。就職活動の合間を縫って息抜きをしてるんだ…という言い訳のような言葉を呟きながら、有栖は何時までも大阪の自宅へ帰ろうとはしない。火村は何も云わず、有栖の好きなようにさせていた。

 正午を幾らか過ぎた頃、ふたりは部屋を出た。昼の買出しの為に、コンビニへと向かう。

 知り合った年にあった中古のバイクはもう、廃車した。もともとオンボロだったが、あっという間にオシャカになった。この暑い中、歩くのもかったるいと駄々を捏ねる有栖に、火村は同じ下宿に住む隣の部屋の住人から自転車を借りる羽目になった。

 コンビニで弁当を物色したふたりは、店を出て直ぐに突然やってきた不運に、有栖は思わず声を上げた。

「雨っ!?」

 太陽は出ているのに、雨が降り出していた。先程まではあんなに晴れていたのに。

「どうする?火村」

 隣の青年に声を掛けると、彼は直ぐに止むさと嘯いて雨の中に踊り出た。

「有栖、帰ろうぜ」

 濡れるのも構わず、火村は少年のように微笑って投げかける。

「ま…いっか」

 促され、コンビニの軒下から有栖も飛び出した。

 火村の言葉通り、先程まで降っていたにわか雨は過ぎ去り、今は嘘のようにからりと晴れていた。アスファルトの薄い窪みに出来た水溜りの上を通るたび、自転車のタイヤがきらきらと水飛沫を跳ねさせた。小さな水飛沫のひとつひとつが、八月の陽射しを受けて輝き出す。夏の匂いを目一杯に吸い込んで、有栖は何故か胸が躍った。

「気持ちええなぁ〜!」

 自転車の荷台に跨って八月の陽射しの中、にわか雨が齎した清々しい涼しさの風を頬に浴びながら、有栖は本当に気持ちよさそうに叫ぶ。

「……ちくしょう、アリスっ!」

 京都には緩やかな坂が多い。日頃の運動不足が祟ってか、肩で息をする火村は重いベダルを漕ぎながら憤る。

「自分ばっかり楽してんじゃねぇよっ!俺と代われっ!」

「おれ頭脳派の文系やも〜ん。ペンを持つ以上の労働なんてでけへんし」

 ――――んなろうっ……。

 口の中で呟いて、火村は思い切りベダルを漕ぐ。

「ぶっ……わぁぁぁぁ―――!」

 加速度をつけて自転車は出来上がったばかりの水溜りの中へ突っ込んだ。

「やりやがったなッッ!」

 跳ね上がった水飛沫が狙ったように有栖の顔にかかった。勿論、火村とて無事ではなかったが、この際少々の事は拘らない。

「やってやったとも」

 にたにたと嬉しそうに笑いながら、後ろで激怒する有栖に云ってやった。腹いせが成功して清々した。

「ううっ……目に何か入った……」

「え?」

 急ブレーキで自転車を止めた。振り返って左眼を手で覆っている有栖を心配そうに覗き込んだ。

「大丈夫か?」

「……じゃない。スッゲー痛てぇ」

 自転車から降りて、火村は指の背でしきりに眼を擦る有栖を見遣った。

「バカ、擦るな」

「けど…メッチャ痛てぇ…」

「ちょっと…見せてみろ」

 俯き加減だった有栖の顎に手をやって、火村はその貌を上向かせた。

 ―――――え……?

「……馬鹿ッ!眼を開けろ!」

 胸の裡で不用意に溢れたその感情に、火村は一瞬動揺した。それを誤魔化すように、乱暴な言葉尻で罵倒する。

 恐る恐るといった具合に、有栖は眼を開いた。異物の混入でか擦り過ぎてか、その両方が原因なのか、その瞳一杯に涙を溜めていた。

「上向いて……バカっ、目の玉だけ動かすんだっ!」

「う……それ、意外と難しい……」

 文句を云う有栖の下瞼の下に置いた親指をそっと下げてやると、確かに埃らしきものが入っていた。

 有栖の貌半分を覆う様にしていた火村の掌に、微かに触れる有栖の口唇。

 奇妙な苛立ちに似た感情が湧きあがる。一体これはなんなんだと訝りながらも、火村は指先の腹でその埃を取り除いてやった。

「うわっ!……指っ!今火村の指が眼に入った〜!」

「……だから、なんだよ」

「スッゲーこわっ!」

「だったら、コンタクトしてるやつはどうすんだよ……」

「おれ、絶対にアレだけはダメや」

「そうかい。そりゃ良かった」

 そんな下らない言葉を交わしながら、有栖は上を向いたまま幾度も瞬きをした。

「あ……でも、おおきに。ほんまに眼、痛とうなくな――――?火村っ!」

 言いかけた言葉を途中で捨てて、有栖は突然火村の名を叫んだ。

「あれ、あれ見てっ!」

 有栖が指を差す方を見遣って、雨上がりの空に広がる大きなアーチに、火村も少し驚いた。

「スゲーっ!おれ、あんなくっきりした虹見たの初めてやっ!」

 有栖は、子供の様にはしゃいだ。

「なぁ、なぁ、火村。子供の頃、虹追いかけて迷子になったこと無かったか?」

「……んなこと有る訳ねぇだろう」

「うそっ!おまえ、無いの?」

「……お前は有ったんだな?」

「探究心旺盛なお子サマやってん、おれ」

「昔から、無防備に猪突猛進だったわけか……」

「可愛気のあるお子サマだっただけやっ!」

「云ってろよ」

 雨上がりの清々しい夏の陽射しの下で、屈託なくふたりは笑い合った。

 だが、お互いに気づいていた。

 この夏が過ぎ、秋が来て冬を越えて再び春が訪れる頃、あるひとつの別れが訪れる。

 気ままな学生時代と共に、もしかしたら、何かが終わってしまうかもしれない。

 火村は火村の視点で。有栖は有栖の眼差しで。

 ほんの僅か先にある自分達の未来を、無視することはできなかった。

 奇妙な不安を抱え始めたが、それでも、ふたりとも今はまだ、それに気づいていないふりをした。だから余計にはしゃいでいたのかもしれない。

 何時か終りを迎える、この生活を惜しみながら。

 そして火村は、気づき始めていた。

 それに、初めて気がついた。

 有栖という友人が、自分にとってどんな存在であったかを。

 しかしまだ、今はそれを認めることも、否定することも出来なかった。

 不安定な場所を歩きだした、そんな自覚だけが生まれていた。

「よし、今度はおれがペダルを漕いでやろう!」

 そう云って、有栖は自転車のハンドルに手を掛けた。

「……ってお前、ホントにこんなんで家まで帰るのか〜?」

「アハハハハッ、スッゲースリルあるで〜!」

 有栖は進行方向に背を向けて、ハンドルの中央を後ろ手で握っていた。立ち漕ぎでしかも通常とは逆方向にぺダルを回し、火村と向かい合っていた。そして火村は、両足を地面につかない程度に上げて、普通のスタイルだ。

「火村〜しっかりハンドル握れよ〜!おれ、前が見えないからスッゲー怖いんだ〜」

「だったら、フツーに乗れ!」

 ひとつの自転車を、ふたりで動かしていた。

 何時か卒業の日が訪れて、火村と違う生活環境になっても……。

 何でもいい。何か、ひとつのものをふたりで見つけられたら……。

 有栖は、漠然とそんなことを考えていた。

 社会的に見た、大人になる一歩手前で。

「火村ーっ!めちゃくちゃ楽し〜!!」

 学生最後の夏休み。

 気づき始めている何かに、今はまだ、答えを出すのを躊躇いながら。

 それでも有栖は、今この瞬間を、心の底から楽しんだ。

 もう、二度とは訪れない、学生最後の夏休み――――。









【END】
-Up- 2002.03.20 06:04 am

■COMMENT■

■16000hitを踏んで下さったのは、柊さまでした。ありがとうございます!
あたしの有栖川ソング(笑)を数多く歌ってくれるミスチルの『Youthful days』をイメージしたものということでリクエストして頂きました。
…マンマやん…みたいなものになってしまって申し訳ありません…。
学生時代の火村さんと有栖です。
そう云えば昔、『Cigarette Blue』というお話でも、『IN THE SKY』でも、こんな感じのお話を書いているなぁ…みたいなことを思い出しながら書きました(笑)
そう云えばうち、学生時代のふたりを書く頻度多いです…。
柊さま、リクエストありがとうございました!


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