Valentine Eve 夜明け前。二月の夜はまだ長く、時間的には朝方と言ってもいいその時間帯でも、朝の気配はまだ何処にもなかった。 眠りの中で、不意に嫌な予感がした。もう、幾度もこんなことがあったから、それが〃悪夢〃の前兆だということは判っていた。眠っていても深い意識のそこで彼は、その〃悪夢〃を見なくていい方法を探し出す。 ―――― 今日は…多分大丈夫だ。 指先に触れた柔らかな温もりに、そんな揺るぎ無い支えを手に入れた。 気持ちの赴くままに、その温もりを探り、引き寄せる。 抱き寄せて、口接る。それだけで、支えられている自分の存在を感じた。 夜明け前。闇と光の狭間に在るこの時に、独りではなくて助かったと実感した。今だけは、その人肌に救われた。 多分、今日だけだ。今日ではない他の日にまた、あの悪夢は自分を苦しめる。そんな日は決して消えたりはしない。 そう判っているから…だから尚更に、その温もりに縋り付いた。 何かを探し出すように、触れ続けた。 自分の意識が、たゆたうような緩やかな眠りに沈んで行くまで……。 「……アリス…」 腕の中に在る、その温もりの名を口にして、彼は安堵の中で、逃げられかけた柔らかい眠りを取り戻した。 底冷えのする夜明け前のその寒さに、ぼんやりと、意識だけが浮かび上がる。 そして次に気づいたのは、背中から包み込まれる温もりだった。 寒いと感じた矢先だった。自分がそう感じるのだから、火村もやはり寒くなったのだろう。始めは、そんな風に思っていた。 心地よい温もり。こんな風に冬の冷えた日に、寒気にぞくりと震える背中を包まれて眠るのは好きだ。今日は独りではないと実感できる。包み込まれ、背中から伝わってくる温もりに、言いようのない安らぎと幸福感を与えられる。 ただそれだけで終われば…。 再び眠りにつくのが惜しくなるくらいの気持ち良さ。そんなものをずっと味わっていたい、そんな風に感じていた矢先だった。 パジャマの裾から、ひどく柔らかな…それでいて、脆い物でも探しているような仕草で、火村の指先が滑るように忍び込んできた。 鼓動が一瞬、大きく高鳴った。自分の背中を抱いてひとつの布団に包まっている男は、寝ているものだとばかり思っていた。 「…ひ…むら……?」 寝起きの所為ばかりではなく、僅かに上擦った声音で彼の名を口にした。…けれど、返事はかえってこなかった。 ―――― このまま…?今から……? 途端に頬が熱くなる。まだ空は明るくはならないけれど…。それでも寝起きに直ぐ…というのには多少抵抗がある。 しかし火村の愛撫はひどく曖昧で…。それでも嫌になるくらい優しいそれで…。 その時、不意に名前を呼ばれた。とても小さな声だった。それでも、確かに名前を呼ばれた。 やはり起きている……。そう思って、やわやわとした触れ方に、暫くの間はだまってされるがままに任せた。 緩やかに、有栖の気持ちと身体は高まって行く。もう、いい加減に意地の悪いそんなやり方は止めて欲しいと弱音を上げて、背中を向けていたその身体を火村の腕の中で反転させた。 「火村、一体どう言うつもりなん……」 言いかけた言葉を、有栖は直ぐに喉の奥へと飲み込んだ。 火村は…完全に熟睡していた。 余りの恥ずかしさに、瞳が潤んでしまうほど顔を赤くした。 寝ぼけて自分の身体を触っていた相手に、すっかりその気にさせれていた。悔しくて恥ずかしくて、有栖は思わず、安らかに寝息を立てている火村の鼻を右手の人差し指と親指とで強く挟んだ。 鬱陶しげに手で払われて、むづがるように首を振られて、あっという間に逃げられた。それでも、火村は薄く瞼を持ち上げた。 「……ん…?…なんだよ……」 不機嫌という風ではないが、ひどく眠そうな声に、有栖は僅かに罪悪感を感じた。可哀想なことをしたと、本気で思った。寝ぼけた男を相手に、恥ずかしい勘違いをしてしまったのは自分の方だ。…勿論、寝ぼけているからといって、誤解されるような事をする火村にも、それなりに非は在るとは思うけれど…。 中途半端に身体を起こした有栖を、眠気の漂う空ろな瞳で見上げてくる火村。 「……まだ…朝じゃねぇだ…ろう……?もう…少し……」 消え入りそうな小さな声でそう云った火村は、有栖の身体を抱き寄せて有栖の身体ごと毛布に包まった。 しっかりと確かな力で暖かな布団の中で抱きしめられて、有栖はふとした切っ掛けでそれを思い出した。 「なぁ……なぁ、火村」 「……ああ…?」 眠たげに眇めた眉と瞼で、火村は有栖に返事をかえす。 「〃今日〃が何の日か、知ってるか?」 「―――――――…俺の…誕生日…」 眠気に任せていい加減なことを云う火村に、有栖は可笑しくなって声を立ててクスクスと微笑った。 「ハズレや。…けど、おれが君に贈り物をしても良い日や。おれが君に何か貰うてもいいんやけど…」 「……んー…?……なんだ?」 寝ぼけているだけではなく、どうやら本当に思い当たらないらしい。火村はひどく難解な表情を有栖に見せていた。 「おれから貰いたいもの、何かないか?火村」 先ほどよりは幾分覚醒しだしているようだったが、火村は随分間を置いて、漸くぽつりとつぶやいた。 「…〃物〃は……いらない」 少しだけ微笑んだような顔で、火村は再び瞼を閉じた。 〃物はいらない〃……その言葉の意味は胸が苦しくなるほどよく判る。 〃物〃は要らない。自分が火村から貰いたいと思っているそれは、〃物〃ではないから。 「それに…」と、毛布に半分隠れた顔からくぐもった声で呟いた。 「まだ、〃今日〃じゃない。…夜が明けてねぇんだから…」 ――――― それまで、一緒に寝よう……。 額に寄せられた唇が、ゆっくりとそう云った。 「……うん…」 その言葉に、有栖は素直に頷いて、抱きしめられながら、火村を抱きしめた。薄いパジャマの生地越しに伝わってくる温もりが愛おしい。 静かな寝息を立てる火村に……近づきすぎて鎖骨しか見えない火村に向かって、有栖は満ち足りた声で囁いた。 「〃物〃じゃなく〃心〃を……」 どれだけ捧げても溢れつづける、火村を好きだというこの思いを…心を、君に贈ろう。 火村が夜明け前だと言うのなら、それでもいい。今はまだ、ヴァレンタイン・イヴ。そして二人が目覚めて夜が明けたのなら……。 ―――― とっておきのプレゼントを君に ――― 【END】 |