Eccentric Lovers 2 -sweet candy-






 彼女はその日、目覚めた瞬間からそわそわと落ちつかなかった。

 高校の教師をしている彼女の名前は真野早織。大阪市内の夕陽ヶ丘のとあるマンションに住む独り暮らしの独身女性だ。

 先日、正確には先月の二月十四日。彼女は日頃からお世話になっている隣人である一風変わった名前の男性にチョコレイトを贈った。彼の名前は有栖川有栖。大阪産の適度に名の売れたミステリー作家だ。

 早織はその彼、有栖に淡い恋心を抱いているらしい。

 早織は、勤め先の学校の関係で家を留守にする事が多かった。そんな訳で、彼女が飼っているカナリアを隣人の有栖に預かってもらう事がある。そのお礼もかねて…と云うのが、贈ったチョコレイトの表向きの理由だった訳だが…。実際の所は、下心バリバリのバレンタインの贈り物だったわけである。

 そして今日は彼女が有栖にチョコレイトを贈った日から丁度一カ月。そう、三月の十四日。今日はホワイトデーだ。一年に一度、女性から男性に愛を告白しても公に許されてしまう日から一カ月後、三月十四日はそんな女性へのお返しを男性がする日なのだ。もっとも、そんな風習があるのは日本だけなんだろうが…。

 しかし、彼女にとってはとっても大切な日なのだ。…いや、彼女だけでなく、本命、義理チョコを配りに配りまくった日本全国の凡ての女性が、この日ばかりは見返りをおおっぴらに期待出来る日なのだ。

 そんな訳で、彼女は朝からそわそわとしていた。幾ら有栖がちょっとぼんやりした世間の世情に疎く成りがちな作家業であったとしても、自分が貰った物への(しかも隣人から貰ったバレンタインのお返しである)お礼くらいは、一般的な常識を踏まえていれば当然、当たり前のようにしてくれる筈だ。……と、彼女は踏んでいた。

 折しも本日は日曜日。もう、ドキドキしながら、有栖が玄関のインターホンを押すその瞬間を今か今かと手ぐすね引いて待っているのだが……。

 彼は…一向に来てくれない。

 そろそろ、お昼になってしまう。いい加減、来てくれてもいい頃なのに……。

 そんな風に想いながらも自分から催促など出来るわけもなく…。恋する乙女(…と云うには些かトウが立っているフシがあるが…)は高まって行く期待を持て余していた。

 そして、その頃のお隣さん。有栖川有栖の部屋では――。

「火村ァ…。そろそろ昼飯にせぇへんか…」

 朝食もまだなクセに、ベッドの中でのっそりとした口調で、隣にいる、銜え煙草で新聞を読んでいた男に、呑気な口調でそう云った。

「……ん…?ああ、そうだなぁ……」

 二人そろって呑気なものだ。火村など、一度起き上がって玄関まで新聞を取りに立ったにも関わらず、又有栖の隣に潜り込んで新聞を読んでいたのだ。どうせならそのまま、起きたついでに朝食の支度をすればいいものを…。年がら年中ベタベタする様な年でもなかろうに……。

「スクランブルエッグでええで。玉子とパンは冷蔵庫の中に入ってるはずやから…」

「なんだよ。俺に作れって?」

 肌掛けのキルケットから眼だけを出してそう云った有栖に、火村は本心からという風でもなく不満を洩らした。

「おれ、火村の作るスクランブエッグ大好きや。なんかこう…ふわっとしてるやないか。やわらか〜い玉子にケチャップをちょっと掛けて…。ああ…思い出すだけで幸せやぁ」

 こんなベタなほめ言葉でも有栖に云われれば悪い気はしないものだ。火村はくすりと微笑って、サイドテーブルに置いてある灰皿に煙草をも揉み消した。

「はいはい、判りましたよ。ご主人さま」

 火村は、軽い皮肉とは裏腹な柔らかいキスを有栖の口唇に一つ残してベッドから抜け出した。

 スクランブルエッグなんかで機嫌が良くなってしまう安上がりな有栖の為に、ベッドから抜け出す火村の背中をシーツの中で見送る有栖の顔は、やはり幸せそうに微笑んでいた。

 ―――――と云う、恥ずかしくなるようなラブラブ振りを繰り広げていたな隣人宅。勿論、そんな事実など真野女史が知るはずも無く…。彼女は独り、今か今かとプレゼント仕様に可愛らしくラッピングされた包みなどを小わきに抱えた有栖が、真野宅の玄関先に立っている姿を想像したりしていたのだ。

 夢見る乙女(……)の想像力は留まることなく際限無く自分の都合の良い方へと駆け上がっていった。





 夕方にもなれば眩しい程の西日が差し込むその部屋で、火村と有栖は朝食と昼食を兼ねたブランチなるものを楽しんでいた。メニューは有栖のリクエストのスクランブルエッグにサラダ。ほんのりと甘いフレンチトーストとミルクタップリの紅茶。朝食よりはやや重い物をと、ベーコンの塩けが絶妙な味わいを醸し出している野菜のスープを用意した。勿論、これらは全て火村の手料理によるものだ。自分の部屋の掃除すらろくに出来ない男だが、料理の腕は確からしい。料理上手に片づけ上手はいないとはよく云ったものだ。

「どうだ、美味いか?」

「うん!」

 火村が朝食を作っている間にシャワーを済ませた有栖が、生乾きの髪を揺らして大きく頷いた。そんな有栖に満足そうな極上の笑みを送る火村の様子も大概にデレデレである。

 ―――――い…一体なんなの……?あの…新婚家庭の様な情景は……。

 心の中でそんな疑問文を呟いたのは、ホワイトデーの贈り物を持った有栖がやって来るのを待ちきれなくて、バルコニーの塀越しに隣人の様子を覗き見してしまっていた真野早織…その人であった。

 彼女だって判っていた。これは明らかに犯罪に近い行為だっていうことは…。だがしかし!恋する乙女の暴走した行動など、誰が止められようか!

 今日はやたらに天気の良い麗らかな一日だった。三月とは思えない程の陽気の良さ。彼女の部屋のバルコニーに繋がる有栖の部屋の窓もすっかり全開にされていた。バルコニーに出て少々危険だが、手摺りに身体を乗り出して遮られている塀の向こうを覗けば、お隣の様子など手に取るように窺えてしまう。早織にとってこれは幸福なのか不幸なのか……。

 覗き見されている事に気づいているのかいないのか…。火村と有栖はほのぼのと食事を続けていた。

「ゲーッ!お前、こんな甘いフレンチ・トーストにマーマレードなんて塗るんか?そりゃ邪道やで?」

「味覚の不一致を云い出したら破局を迎えるんだぞ。思っててもそう云う事は云うなよ、アリス」

 ……なぁーんて会話をしていたりして…。

 ――――― 何なの?何なのよアレ!?

 と、真野女史が思うのも無理はない。だがしかし、恋する彼女のご都合主義的な思考はそれ以上に無敵であった。

 ――――― な…長年の親友っていうのは、もしかしたらあんなものなのかも知れないわ…。女の私には判らない男の友情ってやつよ…きっと。

 などと、簡単に立ち直りを見せていた。それでも覗きは止められない。…というか、止められるわけはないのだ。この状況では…。例え七階のバルコニーから落ちてしまったとしても!どうやら彼女は認めたくないような認めたいような…っていうあやふやな感情を抱き始めてしまったらしい。

 塀にかじり付く様に覗き見をしていた早織の耳に、その時、火村の声が届いた。

「ところで、アリス…」

「んあ?」

 フレンチ・トーストを頬張っていた有栖が、妙な声で返事をした。

「あそこに置いてある、可愛らしくラッピングされた包みは俺へのプレゼントか?」

 昨日買ってきてから何となくテレビの上に置きっぱなしにしていたその包みが、今は何故かテーブルの端に移動していた。ものすご〜く嫌な予感がして有栖は火村の様子を窺った。

 一変した火村の皮肉を込められた笑み。声にも何やら含みが混ざっていた。

 ……ゴクリ…と、有栖は殆ど噛み砕く事も出来ないままパンを飲み下していた。そんな有栖の顔に〃マジヤバ…〃ってな表情が浮かんでいたのは云うまでもない。

「実はな…昨日からずぅっと気にはなってたんだよ。お前に、変に気を遣わせちまってるんじゃないかってな」

 加虐的な嗤いを浮かべる火村に、有栖は何も応えられなかった。それを承知で、火村も独りで喋り続けた。

「だってほら、先月のヴァレンタインにお前にチョコレイトとか渡してねぇだろ?それなのにホワイトデーに何か貰うなんてな…流石の俺も気が引けるっていうか…」

 そんな言葉は勿論、有栖を苛める為のものだ。

「あ…あのな…火村」

 冷や汗を浮かべながら、咄嗟の嘘や言い訳すら閃かない哀れな有栖は、あたふたとどもるばかりだ。

「だって…だって…ひ…火村が悪いんやないか…!アレがヴァレンタインの贈り物やったって、君は判ってたんやろ?せ、せやったらあの時云うてくれれば良かったんや!」

 丁度一カ月前。早織が渡したチョコレイトの事を、二人は話しているのだろうか?

 自分が関わっているかもしれない会話だと思うと、早織の耳は更にダンボになってしまう。

 ……一カ月前……。そう、あの時有栖へとチョコレイトを贈った時だって、少しだけ妙だと思っていたのだ。

 有栖の部屋のインターホンを押したら、出て来たのは、学生時代から付き合いのあるというあの男。有栖とあの男の母校である英都大学の助教授をしているという火村英生。

 あの時、火村は玄関先に有栖以外の男が出て来て仰天していた早織に向かってこう云ったのだ。

『あ、お隣の真野さんですか?それは有栖に?』

 彼女が両手で大切そうに持っていたチョコレイトの小包を差して『そんな気遣いは無用ですよ。たかがカナリアを時々預かっているだけでしょ?なぁ、アリス』

 少し遅れて漸く姿を現した火村の隣で頷く有栖は屈託なく微笑っているだけだった。

『でも、折角だから頂こう。な、アリス』

 そう云ってあの男は、有栖への贈り物をまるで自分当ての物のように受けとったのだ。何かを言い返す暇も無く、その扉は閉じられてしまい、真野は独り、呆然としている内に全ては終わってしまっていた。

 あの時、火村の『な、アリス』ってのが、非常に気になってはいたのだ。あんた、一体何モンなの?ってな疑問ばかりが浮かんだものだ。その後、一カ月の月日が流れる内に、そんな事をすっかり忘れていたのだが、お隣の現在の状況を覗き見している間に、鮮明に思い出してしまった。

 ―――― 忘れたいと思っていたことを…。

 そんな事を考えながら不愉快な想いをしていた矢先だった。不意に伸びた火村の右腕が、可愛らしくラッピングされたその包みを鷲掴みにした。

「あああ ――――――ッッッ!」

 突然の出来事に有栖は叫んだ。

 有栖の目の前で、その包みは無惨にもビリビリと破られていったのだ。

「あかんて!それは真野さんにあげるや……っ…」

 叫んだ瞬間にハッ!としたのは、何も有栖だけではない。バルコニーで二人の様子を覗き見していた真野だってそれはそれは驚いていた。勿論、有栖とは全く違う意味合いで…ではあるが。

 ――――― あ…有栖川さん。やっぱり私にプレゼントを用意してくれていたのね…。

 感極まって、思わず瞳が潤んできてしまう。気を抜けばホロリと涙が溢れそうなくらいに、彼女は感動していた。

 片や有栖の方はと言えば……。

 それはもう戦々恐々と言った表情で自分を見下ろす火村を見上げていた。

 破いた包装紙の中から現れた小瓶のコルクの蓋を引き抜いて、火村はそれの一粒を口の中に放り込んだ。

 ――――― アアアアァァァ!私のキャンディ!。

 バルコニーの塀伝いに覗き見をしている早織が大声を上げて抗議できる筈も無く、その叫びは彼女の胸の中だけでこだましていたわけだ。

「あっ、アホ火村ァ!どうして喰うてしまうんや!」

 まるで有栖に見せつけるように、火村はミルク味の白いキャンディを口の中でコロコロと転がして舐めた。しかしそんな風に舐めていたのはほんの僅かな間で、火村は口の中のキャンディを徐に噛み砕き始めた。しかも、その目つきがみょ〜に危なそうで…。笑っている様には見える…が!ただ笑ってるだけではないってことは一目瞭然だった。

「美味いじゃん。これ」

 変に機嫌良さげな声が更に怖い!

 折角真野さんへと買ってきた物を勝手に食べられてしまって、怒りに任せて怒鳴ってしまったけれど、有栖は完全に後悔していた。長い付き合いなのだから、こんな時の火村がどれくらい嫌らしい意地悪をするかなんて、身をもって知っている筈なのに…。

「…で、誰にあげるつもりだったんだって?」

 似合わない。絶対に似合わないと思う。似合わなさ過ぎて怖すぎる…!

 ひどく嗜虐的な笑みを零して、ガリガリとキャンディを噛み砕いている火村。

 そもそもキャンディってのは、そんな風に食べるもんではないのだ。口の中で転がして、小さくなって最後には溶けてしまう様に食べるのが本来の食べ方だと思う。子供の頃、今の火村の様にキャンディを噛み砕いていたら、母親に叱られた。そないな食べ方したら、長くもたないやないの…と。癇癪持ちはそないな食べ方するんや…と。幼い頃に母に云われた言葉が、何となく理解出来ちゃうこの状況。やっぱり火村って、癇癪持ちの超短気な男なんや…。

 などと、分析している場合でもナイのだ。

 恐ろしくて何も云えないで、ただ視線だけを上げて火村を見ていた。この短い時間の間に、火村は既に三つ目のキャンディを口の中に放り込んでいて…。無言で薄く嗤いを浮かべながら、ガリガリとキャンディを食べている男の図というのは、それはもう…似合わなさ過ぎて戦慄を覚える。とにかく、怖い情景だ。

 ――――― 何なのあの男!私へのプレゼントを、何故あの男が勝手に食べてしまうワケ?それを見ていて、何故有栖川さんはもっと怒らない訳?そんな勝手な事させて何故許しちゃってるワケ?

 早織は心の中で何度も叫んでいた。何だかもう、腹立たしいやら歯痒いやら…。出来る事なら、このバルコニーの塀を飛び越えて、あの男をぶん殴りに行きたい心境なのだが…。しかしそんな事、やっぱり出来る訳ない。

 お隣の様子をバルコニー越しに覗き見してたってことが有栖川さんにバレてしまったら…。そんなはしたない女の子だってバレてしまったら、もう、お隣にいられなくなってしまう。

 ……そんなしおらしい事を考える様な状況でも無いと思うが、取り敢えず、その時の早織はそう思っていた。っていうか、思うだろう、普通…。なんと言っても犯罪まがいな覗き見をしているのだから。

 更に上半身を投げ出して、早織はお隣のバルコニーに上半身を乗り出した。気になりすぎる二人の関係が、彼女の鼻息を荒くさせていた。

「ひ…ひむら?そないに甘い物ばっかり喰うてたら…糖尿になってしまうで…」

 既に小瓶の中の半分程のキャンディを食べてしまっていた火村に、有栖は恐る恐るそう云った。

「ああ。もう、いい加減にな。一カ月前といい、今回といい…。身体を壊したらお前の所為だ」

「なしておれの所為なん?火村が勝手に喰うただけやん」

 別にそんな風にならなくてもいいと思うのだが、有栖のその言葉はひどく言い訳染みた小声になってしまっていた。

「お前が鈍感だから、俺が苦労するんだ。馬鹿アリス」

 小瓶を手の中で軽く振って、キャンディがカラカラと小気味の良い音を立てた。そして火村は更にもう一粒、それを口の中に放り込んだ。

 ガリガリとそれを噛み砕きながら、火村が云う。

「大体、なんでお前は隣の女なんかからチョコレイトなんて受けとるんだ?」

 ―――― 〃隣の女なんか〃ですって?

 大好きな有栖の友達だけど…。でも、〃たかが友達なんか〃に、何故そこまで云われなきゃならない訳よ!

 早織の怒りも、いい加減頂点にまで達していた。

 火村がいるから有栖が来てくれないし、その邪魔な男に何故、自分と有栖の事をとやかく言われなければならないんだろう!

 怒りの余り、勢い余って、バルコニーの手摺りから身を乗り出しすぎた早織の身体が、その時ガクン…と揺れた。

「ああっ!」

 思わず出てしまった悲鳴。落ちかけた身体を持ち上げる前に、早織は右手で自分の口を塞いでいた。落ちて死んでしまうかも知れないと言う時にでもそんな行動を取ってしまったという事は、それなりに覗き見をしていると云う罪悪感がそうさせたとしか言い様がないだろう。

 情けないやら恥ずかしいやら…しかも、今の声でバレてしまったかもしれないという恐怖と相まって、正に万事休すと云った具合だった。

 それでも彼女は覗きを止めようとはしなかった。というか、今更ここまで来て止められるわけはない。だって、それくらいに二人はあやしいカンジだったのだ。

 何とか体勢を建て直した後、真野は恐る恐る、今度は身体をかなり顰めてお隣の二人を窺った。

「なんやねん。君、ほんまはおれからチョコレイト貰いたかったんか?」

 かなり開き直りの入った有栖が、冷や汗を垂らしながら火村にそう云った。

「いらねぇよ、そんなもん」

 つまらなさそうな声で火村はぴしゃりとそう云った。

 ―――――

 どうやら、まだバレてはいなさそう…。

 二人の会話を盗み聞きして、真野はそう思った。これで多少は安心してデバガメ…いやいや、覗き見が出来る。

 ――――― ったく…。騒がしい女だ。

 火村は胸の内でぼそりと毒づいた。

 ……そう、この男が気づいていない筈はなかったのだ。火村は隣の隣人に覗かれている事を、初めからずっと気づいていたのだ。だからこそ、こんな嫌がらせ染みたことを有栖に仕掛けたりしていたのだ。

 いい機会だ。火村は、それくらいにしか思っていない。これ以上、有栖の回りでゴタゴタと彼を狙う輩が増えるのはうんざりなのだ。

 ヴァレンタインだとかホワイトデーだとか、お菓子会社の策略に嵌まって浮かれる人間ではない。今までだって、その日に限って有栖が火村に何かをくれた事などなかったし、自分がその日に便乗して有栖に言い寄ろうなんて姑息な真似もした事はない。っていうか、そんな事は必要ではないと思っているから。だがしかし、そんな下らないイヴェントに有栖が巻き込まれるのは沢山だ。とても腹立たしい。今日だって、隣の女が覗き見なんかしなければ、不愉快ではあるが、貰ったチョコレイトのお返しに、有栖が彼女にキャンディを渡すことくらい、目をつぶっていようと思っていた。しかし、不躾で非常識な女の行動が火村を動かしてしまった。有栖のおどおどとした態度も気に入らない。そんな訳で、彼はかなりキレていた。

「もう、飽きた…」

 ぽつりと呟いて、掌に在った小瓶を、火村は無造作に床へと転がした。

 カラカラとその丸みを帯びた小瓶は更に丸い小さな白いキャンディをばらまきながら床の上を転がった。

「あっ!何て事するんや、お前!」

 有栖がそう叫んだ瞬間には、火村にその左腕を強く引っ張られていた。

「あっ、…お……」

 何かを云いかけようとしたその口唇を、直ぐさま塞がれてしまう。何となく何時ものクセで、火村の口唇が触れた瞬間に僅かに口唇を開いてしまっていた。甘い香りと味のする火村の舌が、無遠慮に入ってくる。噛み砕いたばかりのキャンディの細かい欠片が、ざらリとした感触で舌に触れてくる。……でも、とても甘い…。

 煙草を喫う火村のキスは何時も苦くて、それが火村のキスの味だと思っていた。何だか不思議な気分だ。甘い火村のキス…。そんなのはきっと初めてだ。

 ―――― ちょッッッちょっと、マジなワケ?

 胸の中で呟いたその言葉すら、どもってしまう。まさかとは思っていたけれど、本当に本当にあの二人は出来ていた。この瞬間に、真野早織二十×歳(独身)の失恋は決定的な物となってしまった。

 ……しかし、思っていた程のショックは受けていないらしい。涙も出なければ、悔しいとも思わない。

 エレベーターやドアの外で時折顔を合わす有栖に恋心を抱いていた。何時だって優しく微笑んでくれて、彼と話をしているだけで、何故か幸せな気分になれた。ちょっとドジっぽい所も、柔らかい物腰も、意外と頑固なところも、凡てが好きだった。…それなのに。

 それなのに、何故こんなにも哀しくないんだろう?

 ……っていうか、何で自分はこんなにドキドキしながら二人のラブラブなシーンを覗いているワケ?

 彼女にだって幾つかの恋愛の話はあった。…凡て、過去の話だけれども。それなりに男性と付き合って、それなりに色々と経験はしてきているっていうのに…。

 やはり、他人のそう云う場面を覗き見するって云うのはかなり刺激的でスリリングだ。……としか、言い様がないような…。

 ―――― しかも男同士のソレよ!キャァッッ!もう、どうしましょう!

 などと、半ば錯乱しながらも、彼女はしっかりデバガメしていた。

 なんとなぁ〜く得した気分…っていうか、幸せな自分がとっても切なかったけれど…。

 強く腰を引かれて、キスは更に深くなった。

 風呂上がりに汗が引くまで…と思って着ていたパジャマの裾から、火村の右手が忍び込んで来た。キスをされた儘で、胸の辺りをゆっくりと探られ、重ねた口唇の僅かな隙間から、艶っぽい吐息が洩れ出していた。

 火村はバルコニーの向う側で覗き見をしている彼女に見えやすいアングルを考えて有栖の身体を僅かに移動させた。勿論、有栖はその事に全く気づいてはいない。

 腰砕けに崩れて行く有栖の膝。キスだけでこんな風に落ちてくれるなんて、なんてお手軽なやつ…と思いながら、火村はそのまま有栖の身体を床に横たえさせた。

 隣の女に二人の仲を見せびらかすのは楽しいが、有栖の身体を見せるのは勿体ない。本当ならその儘パジャマを脱がしてしまいたいところだが、そんな気持ちをグッと堪えて、火村は薄い生地越しに有栖の身体を撫でて行く。

 とてつもなく長いキス。頭の芯がぼんやりして、もう何も考えられなくなっていた。

 本当は、火村を怒らなければいけないはずだ。どう考えたって、火村のコレはただの嫉妬で、自分が責められるのは筋が違うはずなのに….――――― でも……。

 それだけ好かれているってのも悪くはない…なんて、思ってしまう。

 結局は、〃好きなんだから仕方ない〃なんてところに行き着いてしまう。

 そんな風に今の現状に自分なりの言い訳と口実を作ってしまうと、今度は色々と物足りなくなってきてしまう。何故か、今日の火村はやたらとじれったい触り方しかしてくれなくて…。一度離れた唇を、今度は自分から重ねたりして、それとなくその先を促してみる。

 単純な有栖がすっかりその気になってくれたのは好都合だが、このままヤってしまうのはどうだろうか?と、暫し考えたが、――まぁ、いいか。っていう答えに落ち着いた。

 そんなわけで、本格的におっぱじめる事にした。

 …でもやっぱり、多少遠慮がちになってしまう。火村はよくてもやはり有栖には申し訳ないというか、やっぱり可哀想だろう。見られていると知っていて、敢えてヤってしまおうっていうのだから。可哀想だって以上に、もっと人として何か欠けていないか?ってくらいのことを自分に問い掛けて欲しい。でなければ、何も知らないで、人に見られたまま気持ちよくなっちゃってる有栖があまりにも不憫すぎる。どうやら、今の火村には背徳的な概念が完全に欠落しているらしい。

 パジャマは着せたままで、下着の中に手を入れて、散々焦らした末に、今度は無茶苦茶ダイレクトな刺激を与えるように強く擦った。

「――― っ…あぁっ!」

 勿論、その声は真野にも届いていた。何しろ,麗らかな昼下がりに、バルコニーに面した二間の窓を全開なのだから、例え真野が部屋の中にいたとしても、もしかしたら聞えてしまっていたかもしれない。

 更に激しくなる二人のエッチシーン。火村もその頃にはいい加減、完全に開き直り…というか、見たいならとことん見せてやる(なんて言いながら、キワドイ線で、有栖の姿が完全には見られないように体位に気を使ってたりもしていた)くらいの気持ちになっていた。

 甲高い声を上げて有栖が陥落してしまうその瞬間のことだった。

 だらりと力なく横たわった有栖の身体を抱えて僅かに息を弾ませた火村の顔がそれと意図して早織へと向けられた。

 背筋が凍るような戦慄とは、まさにこのことだろう。

 ひどく強暴な…しかし、やけに艶と凄みを含ませた火村の瞳に睨まれた。

 にやりと嫌らしく笑う、火村の余裕有りげなその顔に、凡ては始めから仕組まれていたのだと、気づいたが、時すでに遅く、早織は蛇ににらまれた蛙ヨロシク、暫くは完全に身体が凍り付いていた。





 あの日から二週間ほど経ったころだろうか。早織は自分の部屋の前で偶然、買い物帰りらしき有栖と火村にり出くわしてしまった。

「あ、真野さん。お久しぶりです」

 にこやかな笑みで有栖が挨拶をしてくれた。…けれど、真野はまともに二人の顔を見ることができなかった。

「あのぉ…これ、さっき火村と二人で選んだんやけど。遅くなってしもうたけど、ヴァレンタインのお返しです」

 手渡された小さな包みを見て、真野はギクリとした。その包みは、この間覗き見していた時の件のキャンディーと全く同じ包みだったのだ。

「…ど…どうも、有難うございます」

 隣にいる火村が恐ろしくて、真野はそれを恐々と受け取った。この間目の前のこの男が食べてしまったキャンディと全く同じ物に違いない。それくらいの嫌がらせ、この男ならやりかねない。

 表向きは柔らかく笑いながら、侮れない男だと、早織は思った。それでも、もう、有栖にちょっかいを出すのは止めよう…と、彼女は心に誓っていた。

 軽い会釈を交わして自分の部屋の扉の中に入ると、彼女はそそくさと居間へと急いだ。このマンションはお隣と左右対称の間取りで作られている。この居間の壁の向こう側は、お隣の寝室…。

 そう、彼女は確かに有栖はあきらめた。けれど、新しい楽しみはできたのだ。それは勿論 ――――

 結局火村の策略は完全に不発に終わってしまったらしい。

 早織は全然懲りていないらしい。有栖に恋していた頃よりも更にヤバイ女になっていた。火村と有栖はアレをきっかけに更にラブラブに磨きがかかったようだか…。

 今まで以上にアリスを危険な目に合わせる羽目になったのでは?どうする火村。真野は思っていた以上に手強いぞ!

 隣室で低く笑う彼女の声は多分、二人には届かないだろう。

 侮りがたし、真野早織。二十×歳(独身)!

 ―――である……。

 





【END】

■COMMENT■

■こちらは-Bitter Chocolate-の続編になります。当初、真野女史の一人称で書いていたのですが、
(結城が書く)真野女史の火村に対しての悪しざまな暴言に堪えきれず、三人称に書き直し…。
土壇場でやり直しました…。当時の相方曰く、火村好きな私が、アリスを狙い、尚かつ火村に好かれているかも…
なんて勘違いしている女の一人称なんて書けるわけがない…とか。確かに、そうなのかもしれません(笑)。
真野さんの発言に自分で自分に腹立ててましたから(笑)。…っていうか、原作の真野さんはこんなんじゃないですよ、絶対!
…っていうか、話のネタとしてこんなおバカにしただけで…。ゴメンネ、真野さん…。


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