そしてまた…幸せな夢 春眠暁を覚えず…とは、よく言ったものである。 春は何故こうも眠いのだろう……って云うか、おれ…寝すぎ……。 このままでは駄目だとは思うものの、この気持ちの良いまどろみをどうしてもやめられない。それはそれで、有栖は有栖なりに悩んでいたのである。 一週間前に随分と長い間引きずっていた作品が何とか仕上がった。張り詰めていた緊張の糸がここへきて、ふっと緩んでしまったのは確かだ。 とは云うものの…その後一週間の有栖の生活態度というと、兎に角寝てばかりである。朝と言わず、昼と言わず、夜と言わず…ぼんやりとうつらうつらとすやすやと…気づけば眠ってしまっている。次回作の構想を練ろうとパソコンデスクの前に座って数分も経たないうちに船を漕ぎ出し、少し遅めの朝食を摂ろうとトーストが焼けるまでの間テーブルに腰掛けてはうつらうつらし、そして黒焦げのトーストに匂いでハッと眼を覚まし、久しぶりに読書でもと思いながら、麗らかな春の風でカーテンが膨らむ窓辺のソファで腰をおろせば、三度も頁を捲れば何時の間にか瞼が落ちていた。 あかん!……おれ、このままではほんまにあかんっ! 流石に眠りすぎである。駄目だ駄目だと思えば思うほどに、有栖はもっと深く寝入ってしまう。もしかして何か悪い病気にでもなったのでは…と疑いたくなるほどであった。 そんな、四月下旬の平日の昼下がりである。 穏やかな春の日差しを一杯に含んだそのリビングでまどろんでいた有栖の意識を覚醒する訪問者を告げるインターホンの音――――。 誰だろう……眠い目を擦りながらも、有栖はフラフラとした足取りで玄関へと向かった。 「よお」 扉を開けたその向こうにいたのは…火村であった。 麗らかな春の昼下がりにはもっとも似つかわしくない顔である。この男が春生まれだなんて、一体誰が信じるだろう…などと、ぼやけた思考で考えながらも、有栖は―――どうしたんや、急に…と投げかけてみる。 「近くまで来たんでな。…ついでだ、ついで」 「…………あ、そう」 平日のこんな昼下がりに京都英都大学助教授であらせられる火村英生先生が何故大阪まで足を運んだのだとか、仮にその理由が本当であったとしてもだ。〃急におまえに会いたくなったんだ〃とか気のきいた一言が云えないものなのだろうか。 「〃ついで〃……ねぇ」 不服に思うものは在るものの、それを敢えて口にするほど短い付き合いでもない。 「丁度ええところに来てくれたわ。火村、珈琲煎れて」 有栖に続いてリビングに辿り着くなり、上着を脱ぐ暇も与えず有栖は火村にそう云った。 文句のひとつでも返ってくると思っていたのだが…意外なことに火村は、素直にキッチンへと向かった。 コンロにケトルを置く火村の後姿を見て、有栖はやや訝しげな表情を浮かべる。こんなに素直に自分の我が儘を聞いてくれる火村など、とても珍しい。 芳しい珈琲の香りが部屋に立ち込める。不思議なもので、香りだけで眠気が遠のいて行く。 間もなくすると、右手に淹れたての珈琲を注いだマグカップを二つと、左手には最早火村専用となりつつある灰皿を携えた火村がリビングへと戻ってくる。 「ほらよ」 マグカップを手にして一口啜った…のは勿論、有栖の方である。猫舌な火村は珈琲が飲める温度に下がるまで、煙草を喫って時間を潰すらしい。 珈琲とキャメルの匂いが鼻腔を擽る。 「なんか、眼ぇ覚めるわ……」 思わず零れ落ちた一言に、火村はおや?というような表情を向けてくる。 「アリス、寝てたのか?」 「んん?……ああ…まぁ」 「そりゃまたお気軽なご身分で」 煙草をくわえたまま嫌味を言われて、有栖は鼻の先を指先でポリポリと掻く。 「最近な…どうもあかんのや。この季節になるとこう…ぼんやりしてるうちに寝てしまうっていうか…」 「おまえそれ、睡眠障害じゃねえか?」 眉を顰めそんな風に云われては急に不安になってしまう。 「え?あ、ウソ!?…マジで?」 「一日は24時間と決められているが、人間の体内での一日は25時間で回っている。地球と人間の身体には、一時間の誤差があるんだ。日光に当たったり、決められた時間に食事をしたりして、人間の身体はその誤差の一時間を微調節してるんだ。だから、おまえのように不規則な毎日を送ってる奴は、睡眠障害を起こし易くなるんだ」 「…ど、どうしたら治るんや?」 何処か深刻そうにそんな説明をされては、やはり恐くなる。 「日中は、外へ出ろ」 きっぱりと、火村は云った。 「―――と、云われてもなぁ……」 どうすればいい?…なんて、自分から助言を促したというのに、有栖は渋い貌で火村に呟く。 「クリエイターの気持ちなんて、君には想像も出来んとは思うけど、なんつーか、昼間はねぇ…。〃書けない〃んだよ。ほらおれ、ミステリ書いてるやんかぁ。人を殺すトリックを、真っ昼間から考えられると思う?ちょっと罪悪感つーの?感じるっていうか…。やっぱり、そういうのは人知れず、闇に紛れてこっそりと造るってのがええんやなぁ、これがまた」 ひとり悦に入っている有栖を尻目に、火村が呆れ顔であるのは云うまでも無い……。 「ミステリ作家とポルノ作家は似たり寄ったりだな」 「なんだと~!!」 「きっとポルノ作家も、今のおまえと同じこと云ってるぜ」 「き、聞き捨てならんぞ!!」 「ハイハイ。……じゃ、出かけるぞ」 火村は徐に立ち上がり、息巻く有栖を他所に呟いた。 「はぁ?」 「だから、今から出かけるぞって、行ってるんだ」 「今から?」 「勿論」 「つーか、今から?」 「くどいぞ」 突然の成り行き…というか、ちょっと強引過ぎる火村の行動に、有栖だけが取り残されていた。 † 取り敢えずは、食事だった。オンボロベンツのステアリングを握る火村は機嫌が良いのか悪いのか……。エンジンを掛け、ラジオから流れだしたショパンのピアノ曲を、火村がファンだというグールドというピアニストよろしく、彼は口ずさんでいた。……もっとも、グールドがこよなく愛していた作曲家はショパンではなく、バッハだったが……。 「ところで、何が食べたい?」 「あー、イタリアンかな…?」 「何処の店がいいんだよ」 「フリーテーション。近場やし」 車を動かしてからそんなことを訊ねる火村も火村だが、全くの逆方向へ向かって走っている最中に、逆戻りしなければいけない店の名前を上げる有栖も有栖だった。 「同じ天王寺にある店じゃねぇか…。だったら、車なんて出さなくても良かったんじゃねぇか?」 「せやかて、君がもう、店を決めてから車を走らせとるもんやと思ったんやもん。遅いて、どうせなら、車に乗り込む前に訊いてくれ」 「社交辞令で訊いたんだよ。取り敢えずな。俺は、頭の中では別の店をセレクトしてたんだ」 「だったら、そこに行けばええんやないか?」 「煩せぇ」 文句を云いながらも、結局火村は車を方向転換させた。 「あそこの鮮魚のカルパッチョ、ほんまに美味いよなぁ」 少し微笑いながら、火村も頷いた。 近場ということも手伝って、有栖はその店のリピーターになっていた。火村とも、幾度か一緒に行った。雰囲気のあるレストランバーで、レアなモルトも置いてある店だった。勿論、今からは飲まない。こんな昼日中からアルコールを入れる程自堕落にはなりたくない。 大した会話もなされぬまま、車はイタリアンレストランへと辿り着いた。会話が必要なほどの走行距離ではなかったのだ。 日本の飲食業界にイタリアン料理店が急速に増えたのは、やはり不景気だからだろうか。リーズナブルな価格でコースが楽しめる。見栄えも華やかで、お洒落な雰囲気もある。なんといっても、ラフなスタイルで食事を楽しめるのが嬉しい。店内は女性客が多かったが、平日のランチタイムとしては、そこそこの人の入りだ。 食事も終わり、食後の珈琲を飲んでいた時だった。 「これから、どうする?」 早速キャメルに火を点けながら、火村は訪ねてくる。 「どうするって?」 「どこか、行きたいところはねぇのかよ」 「う~ん……」 訊ねられて、それではさて、何処へ行こう……と悩んで〃う~ん〃などと声を上げたのではない。 今日の火村は、ちょっと何時もとは様子が違いすぎる……。 なんだか、奇妙に気を遣う。 「桜、見に行くか?」 「へ?」 有栖は思わず、奇妙な声を上げてしまった。 「桜って…?つーか火村…君、寝ぼけてるんか?桜なん、もうとっくに……」 四月も下旬に差し掛かっている。桜など、とうの昔に散ってしまったではないかと思う有栖に、火村はにやりと微笑った。 「日本では、五月半ば辺りまで桜が見られるんだぜ?今ならまだ、山形辺りまで行けば満開の桜が見られる」 「山形って……火村、今から山形まで行く気なんか!?」 驚き半分呆れ半分で思わず叫んでしまった有栖に、火村は憮然とした表情で答えた。 「見に行きたくないならいいんだ」 「っていうか、火村は見に行きたいんか?」 「―――いや、俺は別に……」 ――――ただ……と、火村は珍しく歯切れの悪い口調で呟いた。 「お前が見たいって云ってただろ?……同じ四月生まれでも、自分の誕生日の頃には桜がないって」 そこまで云われて、漸く有栖は……ああ、呟いた。 「今日って、おれの誕生日やったか……」 「なんだ、気づいてなかったのか?相変わらず、呑気だな」 苦笑いを浮かべる男は、キャメルの煙の向こうで可笑しそうに呟いた。 そして、凡てに合点がいった。 奇妙に優しい火村の行動や、強引なくらいの親切や……。 火村は火村なりに、今日の有栖の誕生日を祝ってくれていたのだ。 「――――火村」 「んん?」 満面の笑みを浮かべ、有栖は目の前の男を呼ぶ。 「火村」 「だから、なんだよ」 「ありがとう」 素直すぎるくらいの有栖の感謝の言葉に、火村は逆に、ひどく困った表情を浮かべた。 「ありがたいけど…桜は遠慮する」 云いざま、有栖は立ち上がり、火村の腕を掴んでレジへと急いだ。 清算を済ませ(勿論、そこの払いは火村の奢りだ)駐車場の火村のベンツに乗り込んだとき、怪訝そうな表情を浮かべる火村に、有栖は上機嫌な笑みを浮かべて云った。 「このまま、おれのマンションへ帰ろう」 「……いいのか?それで」 「うん」 ――――メチャメチャ、君を可愛がってやりたい気分なんや。 口にはしなかったその一言を、胸の裡で有栖は呟く。 誰かが、自分が生まれた日を祝福してくれる。誰かと、自分が誕生したその日を過ごすことが出来る。それだけで、こんなにも幸せだ。 部屋に戻るなり、珍しく積極的に火村の服を脱がしにかかる有栖に、勿論男は仰天した。 「何だ?……どうしたんだ、行き成り……」 「ええから。取り敢えず、しよ」 「……まぁ、いいけど」 そして、自分の服は火村に脱がされる。 「あー、もうっ!メチャメチャ幸せーっっ!」 叫ぶ有栖に怪訝な面持ちの男は、それでも珍しく自分からその気になった有栖に、惜しみなくキスをくれる。 眠いばかりの季節。 火村に無理やり起こされて。けれど、まだ……幸せな夢を見ている気分。 抱きしめられるその暖かさや安堵感に、生まれて良かったと、有栖は嬉しそうに呟いた。 [END] -UP-2001.06.17pm15:05 |