お宿へようこそ 年末、町内の商店街で当たった福引は、なんと温泉旅行ふたり一組サマご招待! 有効期限は半年間…とあるのだが、もう三月も終わりである。 どうにかこうにか、長編の著者校正も終えて、あとは書店に新刊が並ぶのを待つだけとなった身になって、慌しい年末に引き当てた温泉旅行の存在を有栖は思い出した。 ……というわけで、彼を誘ってみることにした。 『温泉だぁ?カニは喰えるのかよ』 「……なあ、火村センセ。季節的にカニは難しいと思うで?つか、旬はすっかり過ぎてるやないか」 『カニがないんじゃなぁ…』 電話の向こうでそんな我儘を云う助教授は、どうやら飼い猫たちにじゃれつかれているらしい。 『カニのない温泉旅行なんて、まったく興味がないな』 この男は、どこまでもカニに拘るらしい……。 「きみもそろそろ大学が春休みに入る頃やろ?暇持て余してしゃあないんやないの?〃日常から離れた空間で、ゆったりと安らぎの時間をあなたに〃っちゅーなんとも魅力的なうたい文句の温泉旅館や。カニはなくても魚介類にはありつけるはずや!なんといっても海が見晴らせる露天風呂があるらしいからなっ」 宿泊券とともに添えられたパンフレットに刷り込まれた旅館のキャッチフレーズを引用し、有栖は説得を試みた。 『一日にたった十枚程度書いたくらいで『今日のノルマは終わり』だんて云ってるお気楽作家のおまえとはわけが違うんだよ。大学が休みでも俺は忙しいの』 「あーそうっ」 調子がいいときは頑張って三十枚くらいは書くわ!…とか、反論すればよかっただけなのだが、思わず口をついて出てきた言葉はまったく違うものだった。 「もうええ。きみなんか誘わんし!片桐さんやったら火村みたいなイケズ云わへんやろうしなっ」 『……ちぇ、そうきたか』 という、独白のような助教授の独白のような呟きに、有栖は多少気分をよくした。 実際、片桐を誘って彼がうんと承諾してくれるかどうかは疑わしい。片桐が抱えている作家はなにも有栖ひとりではないし、編集者とは常に多忙な職業だ。 『一週間後でいいなら、予定を空けてやる』 これはやはり、有栖の勝利であろう。 有栖は受話器を片手ににんまりと笑い、それじゃあ…ってことで、殆ど白紙に近いスケジュール帳に予定を書き込んだ。火村先生が回線の向こうで落胆のような溜息を洩らしていたがお構いナシだ。火村に云わせれば、『嫌味なほど上機嫌』な様子で、仕事の資料にもなっている時刻表を眺めながら温泉旅館までのルートの検索に入っていった。 † そんなわけで、嬉し楽しや二泊三日の温泉旅行。 都会の雑踏を離れ命の洗濯とばかりに電車を乗りやってきた温泉旅館。 ……が。 「……確かにこれは〃日常から離れた空間〃だな」 「あちゃ〜、騙されたー!」 幾ら町内の商店街の福引だといっても、これは余りにもひどすぎた……。 「寂れてた温泉宿つっても、限度があるわな」 脱力しかかった気持ちに鞭打って、有栖は手にしていたパンフレットに刷られた建物と目の前のお化け屋敷みたいな旅館とを見比べた。 「どーやったらこの旅館をこんなふうに移すことができるんや?」 「どれ?」 と、火村は有栖の手許を見つめ、呆れた表情を浮かべた。 「五十年前の写真なんじゃないのか?カラーじゃないし」 いっそ瓦さえ落ちてきそうなほどの、風情ある佇まい。 此処に人が住んでいるのか疑わしいほどの、生い茂る雑草は、野性味溢れる自然空間。 ナチュラル思考もけっこうだけれど…人を招く客商売として、此処まで荒れ放題の旅館なんて赦されるのか!? 「どうする?此処に泊まるのか?ホンキで?」 一々疑問文にするな!……と思ったが、あえてそこは突っ込まなかった。それどころではない。本当にこれは、ひどすぎる。 「妖怪の一匹や二匹出てきてもおかしくなさそうな不気味さやな……」 「首尾よく対面できたら、ネタにしろよ」 「アホか!きみはしらんのか。妖怪ばかり書くご同業のミステリ作家がおんねん!そんな人様の二番煎じができるか!」 「妖怪専門のミステリ作家かよ…。そりゃ凄いな」 「ああ。彼は世界妖怪協会の会長をしとる水木先生とも懇意にしていて、世界妖怪会議にも出席しとるツワモノや」 「世界妖怪協会…。面白いくらい韻を踏んだネーミングだな」 そんなことで感心する助教授を余所に、有栖は本当に此処にこれから二日間も自分たちは泊まるのだろうか…と、真剣に考えた。 引き返したほうがいいのかもしれない。 ……が。 大阪から此処まで電車を乗り継ぎ四時間半。宿泊代がただならまぁいいか…と思ったのだが、往復の交通費だって馬鹿にならない。福引の宿泊券は宿泊のみで、交通費はもちろん自己負担だ。此処まで来てとんぼ返りでは、あまりにも勿体無い……。 「よし。火村伍長、きみに名誉ある先頭を譲ろう。そら、突撃だー!」 叫び、有栖は彼の背中をググっと押した。 「……伍長ってのはなんだ?っていうか、怖いなら無理して泊まることはねぇだろ?」 「こ、怖いわけあるかっ!これでもおれは三十過ぎのオッサンやぞ!?」 「だったら、おまえが先に行け」 「怖がってるのはきみのほうやろっ!素直に認めたら、先頭を譲ったる!」 「……結局怖いんじゃねぇか」 「つかこれ、お化け屋敷やんっ」 「しっ、誰か来た」 火村の言葉どおり、旅館の中からひとりの女性が現れた。 「……おや、お客さんですかね?」 腰の曲がった和服姿の老婆だった。彼女のビジュアルは、この旅館の佇まいと余りにもマッチングが行き過ぎていて、有栖は更に恐怖を煽られた。 「ええ。今日から二日間、こちらでお世話になります。予約を入れている有栖川です」 だが猫と老婆にはやさしい助教授は、有栖の強張った顔つきとは正反対の、この男にしては嘘臭いほどの愛想のよさで老婆に云った。 「まあまぁ。それはそれは…。遠いところからこんな辺鄙な場所までようこそお越しで…。なんもないところですが、どうぞ」 老婆に促され歩き出す火村の肘を掴んで、有栖もそのけっこうな佇まいの旅館へと脚を踏み入れた。 こんなところで独りおいていかれたら、それこそ洒落にならない……。 「外観も驚いたが、中はもっと凄いな」 感心したように、火村は通された客室の畳を足の裏で幾度か踏みつけていた。古い畳がひどい湿気を帯びているのか、妙な具合にでこぼことしていて、踏むと微妙に浮き上がる。部屋の中も陰気に暗く、すこしかび臭い気がした。 「……おれ、絶対夜中ひとりでトイレいけん。火村、ついてきてな」 三十過ぎたオッサンが情けないことを云っているという自覚はもちろん持っている。が、幾らなんでもこれはひどすぎる。ちょっとやそっとの『お化け屋敷』なんか目じゃないほどの不気味な空気。この建物の中に入っただけで、気温も三度は下がったように肌寒い。 「すこしは喜べよ、アリス。こんな経験めったにできないぜ?おまえの与太話にだって出せそうな宿じゃないか」 「あほかっ!空想の世界と現実世界はちがうやろっ」 「……あ、」 突然、火村が天井を見上げ奇妙な声を上げた。 「な、なに?」 「あれ」 男が指差すほうに思わず視線がいってしまい、有栖は 「ギャー」などというなさけない声をあげて飛び上がってしまった。 「ヤモリだ」 平然とした声でそういった火村とは逆に、有栖はもう此処から立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。 「あかんーっ、もう帰ろ。な、火村っ」 「ヤモリくらいでびびるなよ」 「夜中寝てる間にあれが顔の上にでも落ちてきたらどないすんねんっ!」 「それがどうした。命までとられるなんて心配でもしてるのか?」 と、そんなやりとりをしていたときである。 「失礼しますよ」 襖の向こうで、あの老婆の声がした。 『はい』と返事をしたのはもちろん火村で、有栖はそんな火村の腕にしがみついたまま、皺だらけの老婆の笑顔を肩越しに恐る恐る振り返った。 「お食事ですが、何時ごろにしましょうねぇ」 どうやらこの宿の女将であるらしい雰囲気たっぷりな腰の曲がった老婆は、しわがれた――けれど愛想のよい――口調で訊ねてきた。 「七時半くらいでどうか?アリス」 問われて、有栖はコクコクと頷いた。 「此処らへんは海沿いですが、何十年も前の汚染騒ぎで、此処の海で取れた魚介類はくちにしてはならない…ということになってしまいましてねぇ…。海の幸をご期待されていたら本当に申し訳ない限りで…。大したおもてなしも出来ませんが……」 世間話のようにそんなことを言い出した老婆に、魚もだめなのか…と落胆しながらも、火村はこの男には珍しく、愛想笑いなどを浮かべていた。有栖は、それどころではなった。 「では、七時半に。それまでまだお時間もありますから、ゆっくりお風呂にでもはいられたら如何でしょうか」 「そうですね。そうさせていただきます」 「お風呂の場所は―――」 「判ります。さっき教えてくださった、あの場所でしたよね」 「ええ。それでは、ごゆっくり…」 宿帳に記入した際、説明を受けた露天風呂の場所。 ……あそこへ辿り着くまでに、とんでもなく暗い渡り廊下を歩いていかなければならない。 「アリス、折角だから風呂にでも――――」 「嫌や!」 老婆が去りふたりきりになってからも、まだしつこく火村の腕にしがみついていた有栖は、ブンブンと頭を振った。 「嫌っておまえ…。折角温泉へきて風呂にも入らず帰るのか?」 「絶対何か出るにきまってる!」 「出るって、なにが」 「幽霊や、幽霊!」 「バカか。そんなくだらない超常現象をホンキで信じているのか?トリックを駆使して話を作るミステリ作家が、嘆かわしい……」 「お、おったらどないすんねんっ」 「いない。俺は、眼に見えないものは信じない」 「あんな陰気な風呂、独りで入れるかっ」 「じゃあ、一緒に入ろう」 「……それなら、」 あっさりと承諾した有栖の様子に、火村は思った。 ――――ひょっとするとこの宿は、案外いい宿屋かもしれない。 この周りには何もなく、外を散歩する…といっても、殆ど山登りのようなのりになる。温泉でもなければまったく何もないような山奥だ。いっそ鬱陶しいの一歩手前くらいに、有栖にしがみつかれている…というのは、悪い気分ではない。 確かに陰気な宿屋だったが、有栖がなにをそんなに怖がっているのか、火村には理解できなかった。 いっそミステリ小説に出てきそうなほどの洞察力と判断力を持つ火村だが、霊感の類は一切信じていなかった。もしかすると本当に、此処には何かいるのか…?自分には判らないだけで、そういったものを有栖は感じ取っているとか? ……いや、まさか。 「じゃ、風呂へ行こうぜ。つか、俺は行く」 「ひ、独りにするな!おれも行く!」 カニも魚もない温泉宿なんて…と思っていたけれど、案外悪くない。 ニヤニヤとひとり笑いながら、しがみつく有栖を引き摺って、火村は露天風呂へと向かった。 暗く陰気な渡り廊下を歩いているときは、有栖はもう、殆ど眼を閉じていて、しっかりと火村にくっついていた。露天風呂へと辿り着くまで火村はもちろん、思いつく限りの不埒な悪戯を頭の中で思い浮かべながら、やはり嬉しげに笑っていた。今日この宿には火村たち以外の客はいないときいている。やりたい放題だ。 そんな下品な妄想を逞しくしている火村の心中など、もちろん有栖は想像もしていなかった。 ただもう、このひどく陰気な暗い宿がたまらなく怖くて怖くて…。 今日はなにが何でも、火村の布団の中に潜り込んで、一緒に寝よう。 ……とか、そんなことしか考えていなかった。 自分たち客がいない…というのはかえってありがたかった。 こんな情けない姿を、火村以外になんか、見せられない……。 † 片時も離れずベッタリとくっついて過ごした二泊三日のご滞在も、もう終わってしまう。 妙に寂しい気分になりながら、荷物を抱えて宿の玄関を出ようとした火村と有栖の背中に、あの老婆の女将がひこひこと腰を屈めた独特の歩き方で近づいてきた。 「なんのおもてなしも出来ませんで、申し訳ないことです。これに懲りずに、またいらしてくださいねぇ」 「ゆっくりさせてもらいました」 これで帰れる…と思っている有栖は、あからさまにほっとした貌をしている。なんだかやはり、わびしさを感じてしまう火村だった。 「本当に何も無いところですがねぇ。此処へこられたみなさまは、それはそれは仲がよろしくなります。特に、新婚さんなどは……」 皺くちゃの貌を更に皺だらけにして、老婆はそんなふうにニタリと嗤った。 「無理心中でもした新婚さんが獲り憑いてでもいたんかなぁ…」 ……などと無神経なことを呟いた有栖に、老婆はなぜか、妙に含みある笑顔を浮かべ、 「……どうぞ、またのお越しを」 と、お辞儀をした。 「……なぁ、火村。ほんまにあの宿…なんかおったんとちゃうんか?」 今更ながらに背筋がぞわり…としてきた有栖は、乗り込んだ電車のなかでさえ、この二拍三日の旅でくせになってしまったのか、隣の火村の腕に、思わずしがみついてしまった。 「んなのいるわけねぇだろ。おまえ、何か視たとかいうなよ?」 「流石に視てはいないけど……、」 何か獲り憑いていたのではないか…と思うくらい、なんだかとてもいやらしいことをしまくっていたような気はしている……。 「……おれ、男でよかった。女の人やったら今頃、子供の二人や三人、しこまれとるところやった」 幾らなんでもあれはやりすぎ……。 あの老婆が言っていた言葉は、あながち間違ってはいないのかもしれない……。 妙にいちゃいちゃしまくってしまった旅だった―――― [END] |