Ordinary Days 「―――では、レポート提出は二週間後」 二百人ほど入る階段教室には、ゴールデン・ウィーク明けの一講目にも関わらず六割ほどは埋まっていた。 麗らかな、春の日差しが心地良く降り注ぐ。 火村が立つ教壇からは一番離れた高い位置に、見知った貌を見つけたのは、この階段教室へ一歩脚を踏み入れた直後だった。 おや?と内心では思ったものの、表情はあくまでも平然とし、講義を始めるまでは、彼の存在など気づいていないように素知らぬ貌で生徒たちに挨拶をした。 怠けていては間に合うはずもない二週間とい厳しい提出日にさえ、『え〜っ』などという、子供染みた抗議の声はひとつも上がらなかった。この英都大学のゼミの中でも、火村助教授は単位に関してかなりシビアだということは多分、此処に集まってきている連中は既に承知の上だろう。 チラリと左腕に嵌めた腕時計を見ると、まだ五分ほど余っていた。 余談などで時間を潰してしまうのも手ではあったが、あの席に座って大人しく聴講している見知った彼が少し気になる。 「少し早いが、今日はこれで終わるか。余った五分は、タイトな提出期日でも文句のひとつも出なかった諸君への、私からのささやかなプレゼントということで。是非とも有効に使ってくれ」 軽いジョークに、女生徒の幾人がクスクスと笑い声を上げた。 講義が終わり、がやがやとざわめく生徒たち。広げた資料を片付けながら、火村はあの席に座っている彼に視線を飛ばし、何処かに皮肉を含んだ笑みを浮かべた。 バタバタと生徒達が忙しなく教室を出て行く中、火村はゆっくりと彼へと近づいた。 「ネタ探しに、俺の講義は役に立ったか?アリス」 彼の隣に腰を降ろすと、火村は皮肉たっぷりにそう云って嗤った。 「まさか。そんな浅ましい気持ちで聴講してたわけやあらへん」 云いながら、少し不貞腐れたような照れたような微妙な貌で、有栖は手元に広げていたノートをぱたりと閉じた。 「だったら、何しに来たんだよ。連絡もなしに突然現れて」 「……暇やったから。まぁ、さ…、散歩のついでや」 「ふぅん。散歩ねぇ。大阪からこんなところまで散歩かい。作家先生はなにかとご多忙で」 「折角会いに来たっていうのに、そんな言い方はないやろ!?」 憤慨しだす有栖に、火村はにやにやと嗤った。 「俺に会いに来ただって?おまえ、暇だったから来たんじゃねぇのかよ」 「そ、そうやっ!暇やったんや。君に会いに来たわけちゃうしっ」 「だったら怒るなよ」 「怒ってなんかっ……、」 云い掛けて、有栖は不意に破顔した。 「ちくしょーっ!また火村に振り回された〜」 ケラケラと笑い出し、有栖は腹を抱えて机に突っ伏した。 「おれ、ちっとも成長してへんよな〜」 「だな」 「君は相変わらずやし」 「人間の性根なんてのは、そうそう簡単に変わらねぇってこった」 「十二年も経つっていうのに、まったく成長がないってもなんかなぁ〜」 「まだ、十二年だよ」 皮肉っぽい物言いは忘れて、火村は随分優しげな声音でその一言を呟いていた。 麗らかな春の陽射し。五月の晴れた日の光はきらきらと煌く明るさで、階段教室の一番奥の机の上に揺れる有栖の髪の毛を艶やかに照らしていた。 左側の頬を机にくっつけたままでいる有栖の反対側の頬に掛かる髪に、そっと指先をのばした。 「……アホ。誰かに見られたらどうするんや」 少し怒ったような表情で、有栖は火村の手を払いのけようとした。 ……が、火村は有栖の手を逆に払いのけてやる。 「もう、生徒は帰っちまったよ」 先程までとは打って変わって、階段教室はしんと静まり返っていた。 「そうやなくて、」 そのこめかみに指先を差し入れ、陽に当たって暖かなぬくみを孕んだその髪をかき上げて、火照ったように薄っすらと赤くなる有栖のその頬を露にした。 「次の時間、此処は使われない。誰も来やしないさ」 「この十二年で、君は随分オッサンになった」 困ったような声音で、有栖はぼそりと呟いた。 「……出逢った頃の君なら、真っ昼間からこんなこと…、せえへんかった」 屈み込み、有栖の顔の上に影を落とす。吐息が触れる距離で、泣きそうな貌でそんなことを云う有栖に、軽く苦笑いを浮かべた。 あの日と同じような、天国から降り注いでくるような光の中でキスをした。 あの日を境に、闇に包まれっぱなしだった火村の世界に一筋の光が差した。 影を落とす火村の世界が、あの日を境に色がついた。 何度でもこの光の中に飛び込めば、何時だってこの胸は締め付けられるような甘い痺れを思い出す。 孤独には慣れているはずだった。寧ろ、それを望んでさえいた。 そんな火村の漆黒の闇の、閉ざされたドアを抉じ開けて光を差し込ませてきたのは間違いなく有栖で。しかし彼にはそんな自覚も無く……。 結局、有栖はあの頃と何も変わっていない。 キスする前には何時もそうやって、泣きそうな貌で火村を見上げてくる。 そしてキスのあとでは、有栖は、やはり泣きそうな…けれど、どこか幸せそうに微笑う。 「……今日がなんの日か、知ってるか?」 何処までを見透かされているのか。それとも何もわかっていないのか。お互いにその部分にはひどく繊細で、触れ合うことさえ躊躇って。けれど何かが判り合っているという奇妙な自覚さえ持っていて。 何かを請うように訊ねられ、火村は愛しさが溢れる指先で有栖の髪を弄びながら呟いた。 「absolutely」 ……そう、胸の裡に光りが生まれたあの日と同じ台詞で。 [END] -up-2003.06.08 01:29am |