おかえり 「―――ったく、やられたぜ……」 今年は梅雨入りしたのだか何時梅雨明けしたのだかまったく微妙で、六月に入っても天気のよい日が続いていたと思ったら、何時もよりも台風の数が多かった。 もう七月だというのに、やはりそんな天候が続いていて、今日も突然大雨が振り出した。 玄関のドアを開くと、そこには全身ずぶ濡れ状態の男が不機嫌そうな表情をぶら下げて立っていた。足元には、やはりずぶ濡れになった大きなハードスーツケースが置かれている。一見して旅行帰りだと判る姿だった。 「洋服着たまま風呂にでも入ったんか?」 嫌味を云いながらも思わず微笑ってしまった有栖に、火村は渋面を浮かべた。 「突然振りやがるんだ。予期せぬアクシデントってやつだな……」 何故か負け惜しみのような口調で呟いた男に、有栖はタオルを持って来てやる。 「そのまま風呂に直行しろ。……あっ!せめて靴下くらい脱いでいけ!あとで拭き掃除せなあかんのはおれやねんで!」 有栖の忠告など聞かず、火村はぽたぽたと全身から水を滴らせながらバスルームへと向かった。もちろん、靴下も脱いでいない。 濡れた足跡が転々と、玄関からバスルームまで続いた。それを見下ろし、有栖は重く溜息をついた。 学会があるとかでイギリスへ行っていた火村が今日帰ってくることは知っていた。 空港からこちらへ直行してくるであろうということもわかっていたけれど…フライトには支障がなかったのは不幸中の幸い…なのかもしれないけれど、それから此処へ辿り着くまでにあれだけ雨に降られてしまったのでは、流石に憐れである。 今日は突然の土砂降りに見舞われた最悪な天候で、けれど気温はかなり高く、蒸し暑かった。 度々此処に泊まる火村のために、多少の着替えは置いてある。 寝室にあるクローゼットの中から火村の着替えを取り出して、バスルームの脱衣籠の中にそれを入れてやる。濡れた洋服は洗えるものは洗濯機へ、スラックスとネクタイは…とりあえずハンガーにでもかけておくしかないだろう。乾いたらクリーニングへ直行だ。 「火村、飯は?」 ガラス一枚隔てた浴室へと、有栖は少々大きな声で男に訊ねてみた。 「まだだ」 シャワーの音と共に、そんな声が返ってきた。 こんなひどい雨の日に出かけるのは鬱陶しいし、かといって店屋物を頼むのも…。持ってきてもらうのはひどく躊躇われる天候だ。 イギリスから帰ってきたばかりの男に『そんじゃ、君が何か作れ』とは、流石に云えない。……どうしたものかと考えていたところで、シャワーの音が途絶え、浴室のガラスドアが内側から開いた。 「タオル、取ってくれ」 脱衣所にいた有栖に火村は濡れた手を出してきた。云われるままに、棚にしまわれたタオルを一枚取り、手渡してやる。 「腹、減ってるか?」 「ああ。機内食、喰ってこなかったから。最悪に不味そうだった」 「贅沢やなー。出されたもんくらい、ちゃんと食べろ。そのうち罰あたるで」 文句を云いながら、胸の裡では、これは困った……と、悩んでいた。 料理、苦手やねん……。 ……ああ、でも! 「そうめんくらいやったら、なんとかなるかな…?」 などと、洗面台に凭れかかりながらそんな独白を呟いた矢先だった。 ひどく適当に水気を拭った男の両腕が伸びてきて、有栖の腰に絡み付いてきた。 「わ、わっ、わ!…な、なに?火村!?」 いきなりな展開に思考が追いついてこなかった。 それほど力は入っていない。 緩く抱き寄せられ包み込むように触れてくるその躰は湿っていて、そして有栖の体温よりもずっと熱かった。 「マ、マーダー・ワンで買うてきてって頼んだ本っ!あ…、あったか!?」 実際、こんなことは今更だとも思っているのだが……。 今更だろうが久しぶりであろうが関係なく、やはりこういう場面というのは何度訪れても緊張してしまう。学習能力が低いのかもしれない有栖は、ひどく上擦った声で、この場には不釣合いなことを叫んでいた。 「ちゃんと買ってきたさ」 耳元で呟かれたその声は、如何にも不機嫌といった具合で、この場をなんとか誤魔化してしまおうと咄嗟に思ってしまった有栖を、この男が不愉快に思っているのは明らかだった。 「……と、とりあえず服着たらどうや?風邪ひいてしまうで……?」 ……と、さりげなく促してみる。 幾らなんでも……こんな鏡の前ではかなり抵抗があった。 やんわりと…それでも確固たる意思を持った有栖の両手が、火村の肩を遠ざけると、男はひどく詰まらなさそうな深い溜息をついて、服を着始めた。 背を向けてTシャツを頭から被る火村の後ろ姿を見て、有栖のほうは安堵の溜息を軽くつき、その場から逃げ出した。 キッチンへ行き、ペットボトルに入ったお茶をグラスに注いだ。それをふたつ用意して、バスルームから出てきた火村へと、右手に持っていたほうを手渡した。 「飯、どうする?」 「ああ……」 「……てか、お土産。先にくれ」 ニカニカと笑いながら、有栖は右手を差し出した。 火村は憮然とした表情で、それでも玄関に置きっ放しにしていたハードスーツケースをリヴィングまで持ってきた。 バクン…という音と共に開いたスーツケースの中から出された本の数々は、もちろん、有栖が所望していたものばかりだ。 ソファに座って、有栖はそれらの表紙を一冊ずつ確かめ、ニヤニヤと笑っていた。 どうしても、頬が緩んでしまう。まだ日本では発売されていないミステリ小説の数々。……ただ、すべてが原文なので、読むには多少苦労はしそうなのだけれども、そんな労力など何でもないと思えるほどに、読みたくて仕方がなかった海外作家の新作ばかりだ。 有栖の隣に腰掛けた火村は、貌が緩みっぱなしの有栖を他所に、ひどく不機嫌そうな表情でセンターテーブルに手を伸ばし、グラスを手にした。 冷えたお茶を一気に飲み干して、はぁ…と息をつく。 そして火村は、開いたグラスをテーブルに戻しながら、有栖を睨むように見つめてきた。 「こら、アリス」 「なんですか?助教授」 有栖は上機嫌な声音で…しかし、視線は本に釘付けだ。もちろん、普段から人相のよろしくない男の剣呑な眼差しなどまったく確認していなかった。 「俺は腹が減ってるんだけどな」 「……ああ、そんなこと云うてたな」 お座なりにそう云ってしまった瞬間だった。 伸びてきた火村の手が、ひどく強引に有栖の胸倉を掴み引き寄せられた。 「うわ…っ!」 膝の上に乗せていた数冊の本はバラバラと床に落ち、有栖の躰は火村の胸の上へとなだれ込んでいった。 トクトクトク…と、左耳に押し当てられた火村の胸から、鼓動が聞えてくる。 倒れこんだ火村の胸の上で、後頭部の髪を何度も撫でられ、有栖は照れながらも呆れた声音で呟いた。 「……っていうかぁ、君は何を拗ねてんねん。つか、甘えてんの……?」 「実は、帰りの飛行機がな…、かなり揺れたんだ」 ―――え……? 不安定な揺れ感を伴って呟かれた男の声に、有栖は不安をあおられた。 「かなりリスキーなフライトだった」 確かに、突然降りだしたあの大雨では……。 「もしかしたらもう、おまえにも会えないかもしれないなんて……すこし思った」 「……火村」 それを聞いた瞬間、よく無事に帰ってきてくれた。……なんて、今更のように思った。 「……すまん……。その、お土産のことばっかり気にして――――」 「台風が来てるらしいからな」 「……え、そうなん?」 「おまえ、ニュース見てねぇだろ」 「………………」 実のところ、火村がこの部屋のインターフォンを押すまで、有栖は呑気に眠りこけていた。そんな安穏としていた自分を責められているようで、ひどい罪悪感にかられた。 「………………」 火村が無事に帰ってくると、当たり前に思っていたけれど……、そんな危険性だってあったわけだ。 そんなことにも気づかずに、こんな日常が当然だと思い込んでいて……。 突然押し寄せてきた不安に、背中のあたりが寒くなる。 その不安はどうにもうまく言葉にならず、火村の頬に自分の頬を摺り寄せた。 覆い被さるようにして見下ろしている男の無愛想な口唇に、有栖はそっと口接た。 そっと包み込むように背中をホールドされたままで、そんなキスを、何度も繰り返した。 体温よりもすこし高い柔らかな吐息が混ざり合う。触れるだけのキスだけれども、それは随分と長い間繰り返されて、すこし気が遠くなってきた。 「アリス、何時まで続ける気だよ」 有栖の好きなようにさせていた火村は、幾らか揶いが含まれるような口調で訊ねてきた。 「……できれば、ずっと」 素直に答えると、やっぱり笑われた。 「……あ。でも君、空腹やって云うとったな……」 運が悪ければ、もうふたりはこんなふうにキスさえ出来なくなっていたかもしれない。 そんな恐怖に晒されてしまったものだから、……だから機内食どころではなかったのかもしれない。火村の心情をそんなふうに解釈してしまうと、余計に申し訳ないような気分になった。 「何がいい?…つーか。おれ、そうめんくらいしかほんま作れんのやけど……」 「……まぁ、それでもいいが――――」 そこまで云いかけて、男はニヤリと嗤った。 「本当は、キミが食べたい」 「―――――な…っ!?」 とてもこの男らしからぬ台詞に、有栖の体温は一気に上がった。 「おっ、オヤジみたいなこと云うなっ!」 照れるとか、そんな生ぬるいものじゃない。 信じられない恥ずかしさに、有栖は思い切り怒鳴っていた。 茹で上がったばかりのタコのように全身真っ赤になってしまった有栖は、必死になってその腕から逃げようとしたのだが、火村の腕は有栖を逃すまいとやたらと熱心で、中々自由にはしてくれなかった。 ソファの上で軽い小競り合いのような攻防が暫く続いていたのだが、疲れ果てた有栖が先にリタイアしてしまった。 「はぁっ……。もぉええわ……。好きにして」 半分投げやりに呟いた有栖に、勝者となった男は嬉しそうに嗤った。 「それでは、お言葉に甘えて」 そう云ってソファから起き上がった男は有栖の腕を引っ張って、寝室へと歩き始めた。 部屋の扉を開ける男の横顔を見て、有栖はひとりで、軽く声を上げて微笑ってしまった。 「……なんだよ、アリス」 憮然とした表情を浮かべ不満気な口調で呟き自分を見てくる火村に、有栖はやはりくすくすと笑った。 「いや……、火村って意外とあれやなぁと思って」 「アレってなんだよ」 「恥ずかしい奴やったんやなぁと」 あんな台詞が云えるような男だとは思っていもいなかった。 本当に恥ずかしい奴だ……。 けれど、そんな恥ずかしいことが云えてしまうほど、自分は火村に思われているのかもしれない。 「……うるせぇ」 ぶっきら棒に呟かれたが、彼の火村の耳がすこし赤くなっているのに有栖は気づいていた。 「あ〜、でも嫌やなぁー。した後で飯作るんか、おれ……」 「んなの、俺が作ってやるよ」 「ほんまに?」 「ああ」 「けど火村、旅行から帰ってきたばっかりで疲れてるやろ?」 「疲れてたら、やるとか云わねぇっつーの」 「……確かに、そうやな」 馬鹿なことを訊いてしまったと後悔しながら、有栖の貌はまた、茹蛸のように赤くなる。 そのときふと、有栖は云い忘れていた大切な一言を思い出した。 「お帰り、火村」 寝室のドアを開けたままで振り返った男は、暫くの間、じっと有栖の貌を見つめていた。 そして次の瞬間には、火村はふっとやさしく表情を和ませた。 「……ただいま」 この男にしては珍しく、屈託のない笑みで返された言葉に、有栖も嬉しくて微笑った。 火村が開けたドアを、有栖が後ろ手でパタン…と閉めた。 ベッドへ行く前にドアの前で、お帰りのキスをした。 [END] |