ひとひらの言葉








 麗らかな春の休日だった。

 四月初日の、昼下がり、連絡も無く突然有栖が現れた。

 北白川の火村の下宿先では、三匹の猫がのんびりと昼寝をしていた。

「なんや、先生。休日にワープロに向かったりして…まるで、どこぞの売れない作家みたいやな」

 手土産だという菓子折りを差し出しながら、奇妙に機嫌の良い有栖は朗らかに微笑っていた。

「その、売れないどこぞの作家先生はご機嫌麗しそうで何よりだな」

 差し迫った学会の為に休日も返上で論文を仕上げていた火村は、突然の訪問者に何処か不満を洩らすような口振りで云い返した。

「な、火村。お茶煎れて。桜餅、買うてきたんや。君こういうの好きやろう?」

 酒も煙草も嗜む火村は意外に甘党であった。それを知っての手土産である。忙しいさなかに邪魔しに来た有栖には一言の文句でも云ってやりたいところだったが、連日の徹夜による疲労故に、火村の脳は何時も以上に糖分を欲していたのも確かで、悔しいが…ここは有栖の申し出を甘んじて受けることにした。

「はぁ〜、春って感じやなぁ〜」

 火村の煎れてやった辻利の緑茶をズルスルと下品な音を立てながら飲む有栖が、なんとも気の抜けた口調でそう云った。

「なぁ、この桜餅、マジで美味いで」

 持参した桜餅をぱくつく有栖は、正に〃花より団子〃ヨロシク、満足げに微笑っている。

 火村はそんな有栖に半ば呆れながらも、美味いお茶と和菓子とでひと心地ついた。

 急須に残ったお茶を自分と有栖の湯飲みに注ぎ分けながら、くわえた煙草に火を点る火村に、有栖が訊ねる。

「今年の桜は早咲きやねんて。この間テレビで云うてたわ。今日あたり、まぁ…満開まではいかなくても、八分…七分咲きくらいにはなってるんやないかなぁ…。そのくらいが丁度見頃やと思うねんけど」

「―――ん?……そうなのか?」

 煙草を口の端にくわえた儘なので、そんな受け答えもひどく怠惰な物言いに響いた。

「今日は天気もええし、花見には絶好の日やろうなぁ…行きたいな〜花見……」

「だったら、行って来いよ」

 素気無く言い放すと、案の定、有栖はひどく不満そうな視線を向け、まるで子供のように頬を膨らませた。

「火村!おれがわざわざ京都くんだりまで君と茶を啜り、桜餅を食べる為だけに来たとでも思うてるのか?」

 嫌な予感はしていた。それは、とてつもなく嫌な予感だ。多分それは外れないだろう。そもそも、有栖がこの時季、何をしに京都へ来たかなんて、先刻承知である。しかし、敢えてそれには触れず、出来ることならば有栖がその口で言い出さないようにと願っていただけだった。

 ……が、それは無駄な願いのようだった。

「おれはな、火村。君と花見をしようと思って来たんや!」

 …………はぁ―――――っ……。

 溜息を付かずしてなんとしよう。

 余りにも予測通りの有栖の行動。そして有栖の発言。

 しかし、無駄だとは判っていても、ある程度の努力を試みてみよう。人間、ポジティブが一番だ。例えそれが、後ろ向きな考えでも。後ろ向きは後ろ向きに、後ろ向きでポジティブに生きようではないか。

 火村はわざと、中断していた論文の続きを書き始めた。キーボードを叩きながら、さりげなく、言い含めるような声音で有栖に告げた。

「なぁ、アリス……俺は忙しいんだよ。この意味、判るか?」

「論文、書いてるんやろう?」

「ああ、そうだ。俺は忙しい。寝る暇を惜しむほど忙しいんだ」

「判ってるって。せやから、多少の気分転換におれが付き合うたるって云うてるんやないか」

「花見なら来年連れてってやる。今年は諦めろ」

 有栖の提案を真正面からバッサリと一刀両断にしてやった火村は、少し清々した気分になったのだが……それも束の間。

「来年?来年まで生きてる保証ってのがあるか?もしかしたら明日、君がガンの宣告を受けて余命三ヶ月の命やったらどないするん?これだけヘビースモーカーやねんから、それも絶対にないとは限らんし、ガンやなかったとしてももしかしたら、明日事故って死ぬかも判らんやないか。車乗ってるんやから、その可能性も否定できないやろう?それがなかったにしてもだ、もしかしたら明日あたり、君は無差別殺人の犠牲者になるかも判らん。――――なぁ、火村。そいういうことを凡て考慮して、〃来年〃なんていう、曖昧な〃明日〃を想定して物を云うのは危険やと思うで!!」

「――――……って云うかおまえ、なんでそこで死ぬのは俺ばっかりなんだ?俺がガンや交通事故或いは無差別殺人で殺される危険性があるっていうのなら、おまえにだってそれはあるんじゃねえの?」

「あ、おれ?おれは大丈夫やねん。ほら、これ見てみ」

 と、有栖は自分の掌を火村へと翳した。

「な?おれの生命線、むっちゃ長いねん。そうそう簡単に死なへんわ。…つー訳で、〃来年〃なんか来るかどうか判らんのは君と決定してる訳や」

「どうでもいいが、おまえの話には論理の欠片もないぞ!それでよくミステリ小説なんかで飯が食ってけるな」

 無礼な有栖を相手にしつつも、火村はキーボードを叩く手を止めてはいなかった。

「またまた〜。そんな憎まれ口叩いてからに。ほんまはおれに構ってもろうて嬉しいくせに」

「嬉しくない!鬱陶しいだけ!」

「またまた〜。もう、英生ちゃんったら照れ屋さんなんだから〜」

「馬鹿か、おまえは。本気で怒ってんだよ。帰れとは云わんが、そこでおとなしくしてろ。おとなしく出来ないなら、下で婆ちゃんと世間話でもするか、さもなくば帰れ」

 暫くの間、火村がキーボードを叩くカタカタという音だけが長閑な春の光を一杯に入れた(しかし乱雑なほど散らかった)火村の部屋に流れた。

 返ってくると思っていた有栖の反撃がやってこない。

 ――――少し云い過ぎたか?

 と思い、火村はチラリと横目で有栖を見遣った。

 …………思いの外、お灸がきいてしまったらしい……。

 火村に向かって散らかった畳の上できっちりと正座したその両の膝に乗せた手が拳を握っていた。項垂れ、如何にも落ち込んでますと云いたげな様子で有栖は深く貌を隠していた。

「――――ア、アリス?」

「……結局…帰れって云うた……」

「え?なんだって?」

 余りにも小声で聴き取ることが出来なかった。

「火村、結局帰れって云うたっっ!」

 今度は恐ろしく大きな声で叫ばれた。

「おとなしく出来ないなら帰れって云っただけだ。居たけりゃ、好きにすればいい」

 先程よりはずっと優しく云ったつもりだったのだが…もう、手遅れだった。

「もういいわ!帰る、帰ったるわ!!もう二度と会うこともないだろうけどさっ!いいか、もう二度と会わへんからなっ。じゃあね、火村ッッ!」

 バタン!……とけたたましく八つ当たりのように激しくドアを閉めて、有栖は出て行ってしまった。

「――――っくしょう!何なんだ、あの我が儘小僧は!!」

 有栖の消えた部屋で独り残された火村は、これで漸く論文に打ち込める……なぁ〜んて呑気に構えてもいられなかった。

「はぁ―――――っ!」

 深呼吸のような大きな溜息を付き、しかしそれだけでは収まりきらずに、

「――――くそっ!」

 ……と、三十を過ぎた若き大学助教授には余りにも似つかわしくない言葉を吐いた。

 あんな風に出て行かれたのでは論文に打ち込めるはずもなく……火村は苛立ちながらワープロの電源を落として立ち上がった。

 ドタドタと階段を駆け下りて玄関に飛び出したものの、やはり有栖の車はとうに消えていた。

 追いかけても無駄だった。―――いや、無駄と判っていながら走ってしまった。

「知るかっ!勝手に帰りやがったんだ、あいつが我が儘なんだっ!」

 小声で、だが低く地を這うような剣呑な声で独白を吐き出した。

 詫びの電話など、誰が入れるものか。

 有栖が向こうから連絡を寄越すまで、絶対に自分からは折れないぞ。

 …………そんな子供染みた悪態を吐きながら、火村は自分の部屋へと戻っていった。

 ――――途中、一階の玄関先で婆ちゃんに会い、

「火村さん、裸足で外に出るのはかましませんけど、汚れた足は拭いてから上がってくださいね」……と、お小言を戴いた。

 怒りと苛立ちと恥ずかしさで頭が沸騰寸前だった。

 たかが有栖一人に振り回され、裸足で追いかけてしまった自分が、余りにも情けない。

 その後、火村は自棄になって論文をやっつけた。お陰で、興奮しきった頭で期日までに間に合ったのは良かったが、その夜も、そして次の夜もまともには眠れなかった。

 漸く安眠できたのは、学会が終わり一息ついて、寝不足も頂点に達した頃だった。

 そして気がつけば、4月9日を迎え、新たな年度が始まり、何時もどおりの大学助教授のワークライフはつつがなく流れはじめた。

 

 

     †

 

 

 そろそろ、マジでヤバいかもしれない――――。

 火村がそう思い始めたのは、あれから二週間近くが経過した頃だった。

 何時もなら、とっくに有栖の謝りの電話が掛かってくる頃だ。

 ……の筈なのに…である。

 電話は、一向に掛かってこない。

 不味い。……本当に不味いかもしれない……。

 ここ数日、火村は電話の前で毎晩唸っていた。電話を掛けるべきか掛けざるべきか……まるでシェイクスピアの戯曲のように、悲劇だか喜劇だか判別のつけようがないほどに悩んでいた。

 悩む位ならばサッサと電話を一本掛ければいいのにと思うのだが……。

 下らない〃男の沽券〃が邪魔をする。

 甘やかしたってちっともあいつの為にはならないじゃないか……とか、このまま舐められっぱなしでいいわけがない……など。危機感は感じていたのだが、大体、電話を掛けたにしてもだ、一体、どうやって切り出すつもりだ?女房に逃げられた夫ヨロシク

「頼むから戻ってきてくれ!」……などとは、到底云える筈もなく……。かといって、また感情に任せて

「いい加減に臍曲げるのも大概にしろっ!!」……などと怒鳴ってしまったら最後、今よりももっと最悪な状態になるのは火を見るより明らか。

 そして今夜も、考えあぐね悩みあぐねた結果、火村は自棄気味に布団へと潜り込み、ふて寝を決め込むことにした。

 しかし、再び襲う不眠症――――。

 眠れない……ちっとも眠れない……。

 またここニ、三日眠れない日が続いていた。英都大学では(…というか、全国何処の大学もそれは同じだろうが)新入生を迎え、大学内の誰もが新年度を迎え慌しく動き回っていた。それは火村も例に洩れず……である。忙しさにかまけて過ごしていた間は良かった。夜もぐっすり眠れたし、食欲もあった。しかしこの数日、夜は眠れないし、煙草の本数は更に増えるしで…本当に、有栖が云っていたように〃来年〃あたりには肺ガンでポックリ逝ってしまうのではないだろうか……というほどの喫煙量になっていた。

 ―――――しかし、此処で屈するものか!

 腹の足しにもならない意地だけで二週間が過ぎようとしていた。

 寝ちまえ!寝ちまえば忘れる!

 今夜もそう、自分に暗示を掛けて布団に潜り込んで一時間が経過した。

 その時である。

 火村の部屋の電話が鳴った。

 ガバッと起き上がり、火村は電話に飛びついた。

 間違いない、アリスだ!!

 ……が、そう思った途端(勿論それは希望的概念であったのだが)この電話の発信者は間違いなく有栖だと確信したと同時に、下らない〃意地〃も一緒に、しっかりとその右手に握り締めてしまっていた。

「――――もしもし?」

 平静を装った声を作り、火村は回線の向こうの相手に声を掛けた。

『……………………』

 しかし、相手は一向に返事をしない。

「―――――アリス、アリスだろう?」

 これが間違い電話なら、さぞや恥ずかしいのでは……と一瞬思ったのだが、こんな夜更けに電話を掛けてくる無礼者など、火村の友人、知人をかき集めても有栖しか思い当たらなかったので、十中八九有栖に間違いはない……筈だった。

「アリス、聴こえんだろう?何とか云えよ」

『―――ナントカ……』

「くだらねぇギャク云ってんじゃねぇ!」

 怒鳴った瞬間には、シマッタ…と後悔していた。

「あ、いや…。怒鳴って悪かったな…。どうしたんだよ、こんな時間に電話掛けてきて……」

 殆ど藁をも掴む心境だった。折角有栖から電話を掛けてきてくれたというのに、こんなところで短気を起こして切られでもしたら元の木阿弥だ。

『火村ぁ…おれ―――』

 ひどく頼りなげな声だった。

「なんだ、どうしたんだよ、アリス……」

『おれ…もうダメや…お仕舞いや…終わりやぁ〜!』

「何かあったのかっ!?――――オイ!」

 火村が叫んだ瞬間に、電話はプッツリと切れてしまった。

「―――っくしょう、何だ今のはっ!何があったってんだっ!?」

 矢も楯も溜まらず、火村は脱ぎ散らかした服を拾い集めそれを着込むと車のキーだけを握り締めて部屋を飛び出した。

 これがただの我が儘だったらただじゃおかないぞ!一発ガツンと殴ってやる!!

 バリバリの速度違反で苛々しながらステアリングを握った。

 ――――まったく、このオンボロ、良く走ってくれるゼ……。

 明日廃車になってもおかしくないアーティスティックにデコボコでいっそクラシックと呼びたいところだが、それにはまだまだ中途半端に若く、しかし既にランナーズハイになりそうな火村のベンツはそれでも涙を誘うほど健気に夜の街を走り抜けた。

 あれがただの我が儘だったら、一発ガツンと――――。

 怪しげな呪文のように、何度も何度も同じ台詞を口の中で唱えていた火村であったが…ふと、ちょっとまて?などと考えた。

 ……多少お灸を据えてやる必要性はある。……しかし、学生時代はボクシングで鍛えた火村である。その火村が本気の一発をガツン…なんてやった日には、身体を鍛える暇もなく読書に明け暮れた完全無欠の文科系である有栖などひとたまりもないじゃないか……?

 そして火村は次の手段をひねり出す。まぁ…要するに妥協なわけだが……。

 ―――――だったら…平手で勘弁してやる…。

 ……と思ったのも束の間、いや…しかし待てよ……?―――と思う。

 平手で頬を叩いて、…万が一、口の中が切れたりしてしまったら……。

 口の中の傷は痛い上に傷の治りも悪いときてる。何か食べる度に、何か飲む度に沁みたんじゃ、まともに食事すら出来ない。

 ―――――し…しょうがない、デコピン三つぐらいで……

 と思ったが、それもどうかなぁ〜と思い始めてしまった……。

 あれも、結構痛いぞ……?……痛いだろう、やっぱり……。

 ―――――デコピンひとつで…赦してやるか……。

 我が儘な有栖に振り回されることが慣れっこになってしまったのか…別にそこまで妥協をすることもないのに……というところまで有栖に対しては甘くなる自分を、火村自身はちっとも気づいていなかった。

 そんな、下らないことを考えながらも、火村はベンツを酷使させ続け、軈て…漸く、漸く有栖のマンションへと辿り着いた。





「アリス!アリスーっ!」

 ドンドンドン…と、火村は有栖の部屋のドアを叩いた。ここら辺に、火村の動揺が窺える。ドアを叩かなくても、インターホンを押せばこと足りるのだ。住人に訪問を伝えるなら、それで充分に……。

「……火村……?」

 扉の向こうから、潜めた有栖の声が聴こえた。

「アリス!」

「鍵、開いてる」

 云われて、火村はノヴを回した。

 勢い良く開けた扉の中は真っ暗で―――――。

 ――――パン、パパン!!

 突然起こったそんな音に眼をパチクリさせた瞬間だった。

「お誕生日オメデトウ〜!」

 能天気な声と共に、部屋の中がパッと明るくなった。

 色とりどりの細い紙テープが火村の頭からタラリと垂れていた。

 深夜にも関わらず何のつもりか、クラッカーを鳴らしてご機嫌な有栖が、楽しそうにケラケラと笑っていた。

「凄いで火村!この扉開けたの、十二時ジャスト!4月15日になった途端やもん!君ってマジ凄いで〜!」

「……あ…アリス……?」

 茫然自失の態で呆けた面で火村は有栖を見つめた。

「驚いた?なあ、驚いたやろ?」

 パタン……と扉を閉めて、火村は靴を脱ぎ、俯いたまま部屋へと入った。その間も、有栖は火村の周りに纏わりついて驚いたやろう?ビックリしたやろう?…などとしつこく訊いて来る始末だ。

「一体…何の真似なんだ」

「え?何の真似って、今日は君の誕生日やないか。せやからパーティーや、パーティー」

 ――――誕生日……誕生日……?

 云われるまで、すっかり忘れていが……確かに午前零時キッカリに、火村は誕生日を迎えた。……そう、今日は四月の十五日だ。

 いや……だがしかし……だからどうした?……という気分だ。

「誕生日…はいいとしてだ。そんなことでわざわざ夜中にあんな悪戯めいた電話を掛けてきたっていうのか!?

 ―――――こっちは、何かあったんじゃないかって慌てて……」

 怒りよりも寧ろ、ホッとした気分の方が勝った。何もなくてよかった。安堵に胸を撫で下ろした火村の声は自然、尻すぼみになった。

「……あ、ごめんな…火村。……その、ちょっと驚かそうと思ったんや。夜中に〃今から来い〃なんて云うてっも、きっと来てくれんと思ったし…いっそ騙まし討ちかな…なんて思って……」

 多少は反省したらしい有栖は、(今だけだろうが…)殊勝な声で詫びを入れてきた。

 火村の身体はガクン…と崩れるように折れ、フローリングの床に力なく膝を着けた。

「気が抜けたら……一気に眠くなった……」

 無理もないだろう。この数日、まともに寝てなかっただけじゃなく、極度のテンションで張り詰めていた緊張の糸がプッツリと切れてしまったのだから……。

「……悪い…少し、寝かせてくれ――――」

 云うが早いか、バッタリと大の字に身体を床に突っ伏した途端、火村はあっという間に眠ってしまった。

「……あ…?火村――――火村?」

 揺さぶられても鼻を摘まれても火村は起きなかった。

「―――――だから…誕生日おめでとうって…一番最初に云うてやりたかったんやけどね……」

 複雑な表情を浮かべて火村の頬を人差し指で突付いた有栖の言葉など、当然の事ながら火村は聞くこともなく……。

 自分が思っていた以上に有栖の身を案じていた火村は、その夜、久しぶりに訪れた安眠に、泥のように眠った。

 

 

 †

 

 

 柔らかな、春の光で目が覚めた。

 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がると、身体の節々がひどく痛かった。

 ……無理もない。此処は有栖のマンションのリビングだ。床はフローリング。こんなところで寝てたんじゃ、身体が痛くなって当たり前だ……。

 しかし頭の中は殊のほかクリアー。久々の爆睡で、火村にしてはすっきりと冴え渡った目覚めだった。

 ボリボリと頭を掻きながら鈍い腰痛に眉間に皺よ寄せつつ直ぐ左横を見遣ると……何故か、有栖も一緒になって眠っていた。

 今は猫の仔のように身体を丸めて寝入ってる有栖。何故、こんなところで……と思った途端、何となく想像がついた。

 昨夜…正確には午前零時だ。…その深夜にこの部屋へ来たのは覚えている。馬鹿げた有栖の嘘に騙されて、のこのこと大阪くんだりまであのオンボロベンツを走らせてやってきた。

 案じていた有栖の身の上の惨事もないとわかった途端、時限爆弾のように訪れた睡魔に、火村は死んだように倒れたのだ。そして文字通り、死んだように爆睡した。そこまでは、覚えている。

 その後有栖は、リビングの床で眠ってしまった火村に毛布の一枚でも掛けてやろうと思いそれを持ってきた。…が、序に自分も隣で眠ってしまったのだろう。……不精も大概にしろという感じだ。

「――――アリス……こら、起きろっ」

 ペチペチと軽く頬を叩いて起こしてやる。

「う〜ん……朝……?」

「……ああ、とっくにな」

 寝ぼけ眼でむくりと起き上がろうとしたアリスが……アタタタタ…などと云いながら身体の下になっていた肩や腰を摩った。

「馬鹿だな、おまえ。こんなところで寝てるからだ。なんでベッドで寝なかったんだ?」

「――――流石に、火村を寝室まで運ぶ気力と体力がおれにはなかったんや。独りでこんなところに転がすとくのも不憫でな……。なぁ、おれの優しさが身に染みたやろう?」

 悪戯好きなガキのようにニヤリとほくそ笑んだ有栖に、火村は照れ隠し半分、昨夜の復讐半分でその額にデコピンを一発お見舞いしてやった。

「っ――――たぁ……っ!」

 大袈裟に額を押さえて有栖はフローリングの上を転げまわった。

「バカばっかり云ってないで…モーニングにでも出掛けようぜ」

 床の上で転げてる有栖に容赦なく毛布をひっ被せ、火村は立ち上がった。

 ――――まぁ、このくらいで赦してやるか……。

「ああ!待って、火村――――!」

 マンションの扉を開けようとした火村に、焦りを浮かべた有栖が慌てて後を追ってくる。

 長閑な休日だった。

 春の麗らかな日差しの中を、有栖と肩を並べて歩く。部屋の中よりも外の方がずっと暖かい…いや、歩いていれば少し汗ばむくらいの陽気の良さだった。

 喫茶店への近道と、公園を横切った時だった。

「――――あぁ…もう、桜も終わりやなぁ……」

 立ち止まった有栖が、すっかり葉桜になってしまった公園の桜の木を見上げながらぽつりと呟いた。

 振り返り、そんな有栖の姿を視線で捕らえる。

 そうしても到底届きはしない、若葉の芽吹き始めた桜の枝に手を翳し、有栖は何かを待っているような面持ちで、それを見上げていた。

 今年は、桜の開花が例年よりも少し早かった。

 ――――そう云えば…と、火村は思い出す。

 先々週の日曜日、花見に行こうと有栖に誘われた。……が、素気無く断り、長い冷戦期間を置くことになった……。

 有栖同様、火村も顎を僅かに反らせ、桜を仰ぐ。

 こんなに早く散ってしまうなら…あの時、有栖に付き合えば良かった……。

 ふと、そんなことを思った。

 そのとき、小さな殆ど白にちかい薄桃色の桜の花びらが、ひらりひらりと舞い散った。

 それは、最後のひとひらだ。。

 それは緩やかに舞いながら降ってきて、翳した有栖の掌に音もなく落ち、やんわりと手を握り、有栖はひとひらの桜の花びらを捕まえた。

 ぼんやりと、火村はそんな有栖の回りを囲む情景を見つめていた。

「――――火村」

 ゆっくりと近づきながら、有栖はひどく嬉しそうに微笑った。

「一年に一度しかない〃一日〃やからな…。せめて、一番に云いたかったんや」

 有栖ははにかむように微笑って、そっと手を広げ、捕まえたひとひらの桜を火村へと差し出す。

「おめでとう、火村」

 ―――――嗚呼……負けだ、俺の負け……。

 心地よい敗北感だ。

 どうしようもない我が儘な有栖だが、こんなことを云われたんじゃ、負けを認めるしかないだろう。

 少し伸ばし気味の有栖の髪が、春の風に弄ばれていた。

 火村は微笑みながら、差し出されたその手をそっと握った。

「ありがとう」

 素直に、そんな風に云えた。

「――――来年は……」

 そこまで云いかけて、火村は握ったその手に、もう少しだけそっと力を加えた。

「来年は、花見しような」

「うんっ!」

 にこやかに、有栖が微笑った。

 小さいが、尊い幸せを感じた。

 手を繋いだまま、二人は歩き出した。

「――――ところで、アリス」

 暫く歩いた頃だった。ふと思いついたように、隣の有栖に問い掛けた。

「ん?」

「この間の喧嘩でおまえ、二度と俺には会わねぇとか…云ってなかったか?」

 からかい半分の口調で云ったにも関わらず、有栖はケロリとした笑顔で切り替えしてきたのだ。

「あ、アレね、嘘や、嘘」

「………嘘だって!?」

「せやかて、あの日は四月一日、エイプリルフールやったやないか。一年に一度、嘘をついても赦される日なんやで〜」

「……ったく、子供じゃねぇんだからそんな下らない嘘なんてつくなよっ!」

「あれ?もしかして火村ってば本気にしたん?アホやなぁ〜。よう考えてみ?大体な、君がおれなしでおられるわけないやないか〜。あーもう、火村のノータリ〜ン!」

「何時までもガキ臭ぇおまえよりはましだ!!」

 たわいのない口だけの喧嘩を繰り広げながら、二人は歩き続けた。

 それでも、繋いだ手は離さない。互いの手の間には、捕まえたばかりのひとひらの桜の花びらと、有栖から貰った大切な言葉が納まっている。

 それを逃がさないように、ずっと手を繋いでいた。

 …………そして二人は取りとめもなく歩きつづけ、口喧嘩を続け…目的地である喫茶店をとうに通り過ぎてしまったその事実にも、暫くの間気づきもしなかった――――――。

 

 



  [END]
IN / 2000.04.01 UP/ 2000.04.07 AM 04:07

■COMMENT■

■火村さんのお誕生日話です。何故か…コメディになってしまいました。
何時もなんですが…何故かこう云ったネタで火村さんのカメラワークで書いてしまうと、
どうしてだか彼が有栖に虐げられているような話になってしまうのです…。シリアスではあんなに鬼畜なうちの火村さんが……。
■このお話と同時進行で、激シリアスなお話を書いていました。(……っていうか、こっちの方が早く上がったのですが…)
書き始めたのは4/1から。故にエイプリルフール落ちだったんですね(笑)
…しかし、その後触りだけ書くだけ書いて、あとは放りっぱなしで…正味三日と掛かっていません……。
シリアスのお話の合間合間に書いたとは思えないバカっぷりです……。
それでも、こういうお話は書いていて楽しいです(笑)
うちの火村さんと有栖は何故か、エッチがない方がずっとベタベタにバカップルです……。
宜しかったらご感想、お聞かせくださいね。


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