For Reward 火村は無精髭でざらつく頬を指先で軽く撫でながら、物憂げな表情を浮かべ、ノートパソコンのモニターを見つめる。 三日後に押し迫った学会で発表する論文を書いているのだが、その様子はひどく切迫したムードを醸し出していて、中々声も掛けられない。 『悪いが、暫く厄介になるぞ』 ――――と、資料やノートパソコンを両手に抱え男が此処へやってきたのは、四日前のことである。 八月中旬、季節は夏の真っ只中。狂気的な陽射しに脳味噌が沸騰しそうなほど激しい暑さに、クーラーすらない自分の下宿から逃げて来た。 『あんな暑いところで論文など書けるか』 勝手なことを云う男は、そうやって、夕陽ケ丘にある有栖の部屋のリビングを乗っ取ったのである。 有栖の方はというと、随分長い間抱えていた長編の原稿が仕上がった直後で、暫くはのんびり遊んで暮らそうなどと思っていた矢先だったので、突然の火村の訪問、そしてリビングの乗っ取りも大して迷惑でもなかった……のだが…………。 この四日間、ひどく退屈な毎日を余儀なくされて、かなり鬱憤が溜まりつつあった。 折角火村が傍にいるというのに、ちっとも構ってもらえない。 忙しい火村に、多少の面倒はしてやろうと思い、慣れない手つきで食事などの世話を焼いていたのだが…そんな食事の時間も火村は全く喋らないし、食事が済めば即座にパソコンの前に座り、キーボードを相手にするだけだ。 トイレ以外に席を立つことも殆どなく、一時間もすれば小山の出来る灰皿を有栖が片づけてやっても気づかない。再び吸殻を生産するばかりである。 日に日に小汚くなる。風呂にも入らず、殆ど着替えもしない。僅かな時間だけ、リビングのソファに横になり、仮眠を取るだけなので、その眼の下には隈まで生まれ始めている。無精髭は生えてくるし、髪はボサボサで、口の端に咥えたCAMELが長くなった灰を落とし、彼の膝を汚してもまるで意に介さぬ姿を見ていると、この男は、こんなにも不精だったのかと、改めて呆れる思いであった。 言葉を掛けるような隙など与えられるはずもなく、有栖はひどく退屈していた。リビングを陣取られたのでは、この家にひとつきりのテレビのSWITCHを入れることすらままならない。部屋の中はあっという間に煙草の煙に汚染され、眼を開けているのも苦しいほどだ。燻され過ぎて、ヤニ臭さすら既に麻痺してしまった。 激しく指先を動かし、キーボードを弾いていたかと思うと、雨粒がトタン屋根に落ちるような音を響かせていた音が止む。そして、眉間に皺を寄せて画面を見つめていたかと思うと、徐にリビングの床に広げた資料を探し始め、それを見つめていたかと思うと、再び雨音のような音が聴こえてくるのだ。 そんなことの繰り返しで、四日が過ぎようとしていた。 退屈だ……とにかく、ひどく退屈だった。 訳もなく苛々したし、何故だかひどく焦らされているような気分にもなり、とにかく有栖は気分が良くなかった。 正直言うと、かなり期待はずれだった。 想像以上に無愛想で無遠慮に自分の世界にダイヴしてしまったまま戻ってこない火村に、なんだか取り残されてしまったような気分でもあった。 かなり…寂しいではないか。 つまらない。ひどく退屈だ。 こんなに傍にいるのに、構ってもらえないなんて――――。 鬱々としながら辛抱していた有栖だったが…何時の間にか、そんな火村を恨めしそうに眺めていた筈だったのだが……テーブルを挟んだ向側で難しい貌をしている男を他所に、ソファに腰掛けたままうつらうつらと居眠りしてしまった。 † 忙しさに、一々構ってやる余裕も暇もなかったのだが、ふと気がつくと、何時も視界の端に有栖の姿があった。 今は留守番をさせている、北白川の火村の下宿で飼っている猫と同じように、じっと火村の行動を見ている有栖。 時折火村がパソコンの前から立ち上がると、機敏に反応して有栖も動く。部屋の中を歩く火村の足に透かさずネコパンチを繰り出す瓜太郎や小次郎と同じような真似をする。といっても、流石に人間の有栖はネコパンチなど出しては来ないが。それでも、火村が動けば、何か云いたげな眼差しでこちらに視線を飛ばしてくる。面白いから、敢えて構わずにいると、ひどくしょぼくれた貌でまた、火村の傍で身体を丸めてしゃがみ込むのだ。 大人しげに行儀良くしてはいるが、隙を見計らってじゃれようと、ずっと機会を伺ってるような様子に、火村は内心、嗤いを噛みしめていた。 粗方は出来ていたものの、仕上げだけでも四日を費やした論文は、漸く出来上がった。 肉食獣のような伸びをし、目尻に溜まる涙を無造作な所作で手の甲で拭うと、火村は向い側のソファで身体を丸めて眠る有栖の姿に視線を向けた。 論文が出来たことへの安堵の一服とばかりに火を点けた煙草を深々と肺の奥まで吸い、ゆっくりとそれを吹き出した。 ボリボリと頭を掻きながら、咥え煙草のままで、自分が燻らす煙草の煙の向こうで呑気な寝顔を晒して惰眠を貪る有栖に、火村は軽く微笑った。 ベッドへ運んでやろうかとも思ったのだが……その間に目覚めてしまったら可哀想だとも思い、結局はそのままソファで寝かせてやることにした。 風呂にでも入ってサッパリするかと、フィルター近くまで喫った煙草を灰皿で揉み消しながら、火村はのっそりと立ち上がった。 スプレイヤーから勢い良く流されるシャワーの真下で、火村は乱暴にガシガシと頭を洗う。四日振りの風呂に、三度目のシャンプーで漸くすっきりとした。 ボディタオルにたっぷりとソープを泡立て、身体も丹念に洗う。 身体の隅々まで洗い終えると、シャワーの湯を止めて、火村は浴室を出た。 滴が滴り落ちるのも気にせず、火村は脱衣場の洗面台に写る無精髭だらけの自分の貌を見て、少し眉を顰めた。 ひどいな――――。 胸の裡で独白を洩らすものの、今から外へでるわけではないからと、髭剃りは省くことにした。 僅かな着替えをデイバッグに詰め込んで来たは良いが、入れ方が不味かったのか、着替えのTシャツは皺だらけだったが、それも気にする程のことではない。どうせ、これから寝るだけだ。 頸にぶら提げたタオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、有栖はまだ眠っていた。 冷房の良く利いた部屋は、湯で火照った身体に心地良い。リビングに続くキッチンで冷蔵庫の中から飲み物を物色していた火村は、その中に麦茶を見つけ、それをグラスに注ぎ一気に呷った。 ふぅ…と、軽く溜息を洩らしながら、グラスをシンクの中に入れ、再びタオルで髪を拭きながら有栖が眠る向い側のソファに腰掛け、湯上がりの一服に火を点ける。 ソファで眠る有栖を見ながら、指先に煙草を挟んだその手で頬杖をつきながら、不精髭のその貌で、火村は何故だか少し微笑った。 学会まではあと三日残っている。その三日間、何をして過ごそうか。 大人しく辛抱強く火村の論文が終わるのを待っていた有栖に、何かご褒美をやらなければいけないだろう。 有栖が起きるまでに何か決めればいいかと悠長に構えながら、火村は風呂上がり二本目の煙草に火を点けた。 [END] -UP- 2001.08.04 AM 08:50 |