Come Rain,Come Shine







 
 今年の夏は、とにかくよく雨の降る夏だ。実際にはそうでもないのかもしれないが、連日こうも雨続きだと、そんな錯覚にとらわれてしまう。
 
 夏だというのに肌寒くて、Tシャツの上に一枚羽織って家を出た。大阪では阪神タイガースがマジック17だとかで大賑わいで、道頓堀のグリコは今、阪神タイガースのユニホーム姿になって、観光客までもが阪神カラーに衣替えしたグリコと記念撮影しようとバカ騒ぎだが、京都の町ではそうでもないらしい。
 
 その日有栖は、京都へやってきていた。こんな雨になるとは思わなかったから、途中で傘を買う羽目になった。それでも、もしかしたら今年こそは阪神が優勝という二文字を手にするかもしれないという期待で、すこぶる機嫌は良かった。
 
「ひょっとして、英生クン……?」
 
 隣を歩く男の名を呼びかける女性の声に、有栖はきっと、呼ばれた本人よりも早く反応していた。
 
 有栖よりも数秒遅れて振り返った男―――火村英生は、アーケードに雨を免れている四条の込み合う店が連なるその道で、軽く眉間に皺を寄せた物騒な貌でその女性を見下ろした。
 
「あ〜!やっぱり英生クンだ〜!変わらないなぁ!相変わらず凶悪な目つきの悪さと仏頂面なのね〜!」
 
 気軽な仕草でバシバシと火村の肩を叩く女性。しかし火村はコツコツと、手にしたビニール傘の先端をタイル張りされた歩道に突き刺すようにもてあそびながら、未だに解せない表情を浮かべるばかりだった。
 
「やだっ。もしかしてあたしのこと、忘れちゃったの?」
 
「どちらサマでしたか?」
 
 とうとうその言葉を吐いたか…。記憶力に乏しいということは決してないはずの男だが、不必要な人物データは徹底的に封印する傾向が見受けられる。忘れ去られていた女性はガッカリする……だろうと思っていた有栖の予想は、大幅に外れた。

「やっぱり変わらないわね〜!昔から。あたしよ、あたし。稲森幸子!」
 
「稲森…幸……さっちゃん?」
 
 漸く思い出したのか、火村は女性を改めて見つめ、驚いたように声を上げた。
 
「久し振り〜元気だった。……あ!ねぇ、いま時間ある?ちょっとお茶しない?」
 
 ニコニコと笑いながら、彼女…稲森幸子は、火村の連れである有栖へもその笑顔を向けてきた。
 
「もし宜しかったらあなたも…えぇっと…」
 
「あ。有栖川です」
 
 有栖は、促される前に自己紹介した。
 
「有栖川さん。英生クンのお友達?」
 
 稲森幸子のその訊ね方が、小さな子供に訊くような口調だったのが、少し可笑しかった。
 
「ええ。大学時代からの友人です」
 
 ついつい押し流されてしまうような軽快な幸子の様子に、ふたりは結局、彼女を交えて四条川原町通りにあるコーヒーショップへと入ることにした。
 
「それにしても懐かしいなぁ〜。英生クン、幾つになった?」
 
「……あのねぇ。もう三十過ぎた男に向かって、〃英生クン〃ってのはやめてくれないかな」
 
 禁煙であるコーヒーショップの中では、ヘヴィースモーカーである火村は長居出来ない。雨でなければテラス席へ座ることも出来たのだが…この天候では、店内の禁煙席へ座る以外に術はない。心持ち、火村は不満そうな表情を浮かべていた。
 
「あの…、火村とはどういう……」
 
 そこが、有栖にとっては非常に気になる部分だった。
 
 学生時代から女嫌いで通っているこの男に、親しげに声をかけてくる女性が現れるとは思いもしなかった。意を決して漸く訊ねた有栖に、幸子は悪戯好きな子供のような貌をでニタリと笑った。
 
「英生クンがこ〜んな小さい頃にご近所だったのよー。…といっても、ほんの半年ほどだけどね。英生クンは直ぐに引っ越したから」
 
 なんともこの男には似つかわしくない〃英生クン〃というその呼び方をやめろと云った火村の言葉など、彼女はまったく意に介していないようだった。
 
「ほんの少しだけ、金沢に住んでたことがあったんだよ」
 
 何故だか非常に不機嫌な口調で、火村は彼女の言葉を補助するように呟いた。
 
「英生クンって、子供の頃から仏頂面でクソ生意気で、まるで可愛気のないクソガキだったのよ〜!」
 
 ケラケラと笑いながらそんな恐ろしげなことを云う女性に、有栖は恐れ入りました…と、心の裡で頭を下げるような思いだった。
 
「……で、あんたはどうして京都なんかにいるんだよ」
 
「それそれ」
 
 火村の問い掛けに、彼女は突き抜けた笑顔で云った。
 
「結婚してね、京都へ嫁いできたのよ。……でも、ザンネンね」
 
「残念って、なにが?」
 
「三日後には、金沢へ戻るのよ。今日はね最後に、京都の街を独りでぶらぶらしようかなぁ〜って出てきたところなのよ」
 
「旦那の出張かなにかで?」
 
「ううん」
 
 頭を横に振りながら、彼女はその一瞬だけ、少しだけ寂しそうに微笑った。
 
「離婚したの」
 
「……子供は?」
 
 まるで、『砂糖は幾つ?』と訊ねるくらいの何気無い口調で彼女に問う火村のそれに、有栖はどうにもやりきれないようなものを感じた。
 
「いないわ。だからね、まぁいっか〜って感じで」
 
「仕事はしてた?」
 
「いいえ。ずっと、専業主婦だったから」
 
「実家へ帰って、この先どうするんだよ」
 
「実家へは、戻らないわ。旦那と結婚するとき、随分反対されたのよ。半分駆け落ちみたいにこっちへやってきちゃったから。今更、どの面下げて出戻りなんて出来るのよ…って感じだもん」
 
「金沢へ帰って、あては在るのか?」
 
「今でも付き合いのある友達がね、リサイクルショップを経営してるんだけど。手伝ってくれって云われてるの。金沢に帰って、アパートでも借りて、そこで生活していくつもり」
 
 有栖はずっと、黙っていた。
 
 他人の家庭の事情に、まったく面識の無い自分などが何かを云うのは筋違いだし、幼馴染とはいえ、火村も、訊ねはするが取り立ててどうこうしろなどという、でしゃばった真似はしていない。
 
 ただ…。
 
 切ないな…とは思う。
 
「今日は、会えてよかったわ」
 
 彼女は立ち上がり、朗らかに微笑んだ。
 
「じゃあね。英生クン。またどこかでばったり会えたらいいわね」
 
 彼女の新たな旅立ちは、何もかもが晴れやかなそれ…というふうではないのだろう。
 
 それでも、少しだけ哀しげな笑顔は、何処か凛としていて、強い人なのだなぁと、有栖は思った。
 
 彼女は、コーヒーショップの前にある信号の前で立ち止まり、水色の傘を差した。信号が青になりすこし小走りになって走り出す。彼女は、一度も振り返りはしなかった。ただ、彼女の水色の傘だけが、揺れるように遠ざかっていった。
 

 
 
      †
 
 
 
 
 稲森幸子が姿を消してから暫くの間、火村と有栖の間には、沈黙だけが流れた。
 
 彼女がさり、それから暫くしてから、ふたりもそのコーヒーショップを後にした。
 
 いま話題の、どうにも気になって仕方がない映画を観たくて出かけてきた。火村は最後まで渋っていたが結局有栖の我儘に付き合わされる形で、ふたりは映画を観に行った。
 
 映画の帰りに本屋でも寄ろうかということになり、四条の町をふらふらと歩いていて、彼女に出会った。
 
 四条で別れて、そのまま有栖は大阪へ帰ってもよかったのだが…。何となくそんな気分にはなれず、なんとなくという流れで、火村の下宿先へとついて行った。
 
「帰らなくていいのか?締め切りは無いのかよ」
 
 既に北白川の火村の自室で冷たいお茶など飲みながら寛いでいるにも拘らず、火村は唐突にそんなことを云ってきた。
 
「差し迫った締め切りを抱えてたら、映画観に行こうなんて誘ったりせぇへんやろ」
 
 何となく、口調がぞんざいになった。
 
「おれ…、帰ったほうがよかったか?」
 
 独りになった火村がここで…もしかしたら、さっき別れた彼女のことを考えるのだろうか。……などと、自分でも嫌になるようなみっともないことをふと思ってしまい、有栖は胸の裡が苦くなった。
 
「茶まで飲んでるやつが、よく云うぜ」
 
 それは、普段の火村と何処も変わりのない、皮肉だった。そんな一言に気分を害されることはない。逆に、すこしホッとした。
 
「幸子さんは、火村が子供の頃のことを知ってる人なんや」
 
「……なんだよ、いきなり」

 ぽつりと呟いた有栖に、火村は何処か呆れたような疲れたような声で返してきた。
 
「そういえばおれ、おれの知らん火村を知ってる人に会ったの、初めてやなぁと思って」
 
「九歳の頃の、高々半年間だよ」
 
 何処か慰めるような口調で、火村は云った。
 
「……なんか、ズルイ」
 
「は?」
 
 煙草をくわえたままで、火村は有栖の呟きに、馬鹿げたことを云うなとでも云わんばかりの大げさな声を出した。
 
「おれが知らんのに…。あの人は、知ってるんや…子供な火村……」
 
 まるで独白のように呟いた有栖に、火村は呆れ果てた溜息を洩らした。
 
「んなの、お互い様だろ?俺だって、おまえの幼馴染が知ってるおまえを知らねぇよ……」
 
「火村は別に、おれの過去なんか興味ないから知らんでもええねん。でも、おれはちゃうもん」
 
「〃ちゃうもん〃とか云うな、バカ。おまえ幾つだ?」
 
「君と同じ、三十四歳や」
 
「いい大人なんだから、子供みたいな駄々云ってんじゃねぇよ…ったく」
 
「…っていうか。九歳の頃に別れたっきりで、どうして火村のこと、判ったんやろうな、あの人…」
 
 凡そ二十五年ぶりの再会であれば、面影なんて余り残っていないだろうに。それでも彼女はひとめでそれが火村であることに気がついた。もしかしたら、そんな彼女に、嫉妬しているのかもしれない。
 
「お節介な近所のオネエさんってのは、たまにいるんだよ。彼女の弟と俺が同い年だったから、何かと気に掛けてくれていて、毎日声を掛けてきてたんだ」
 
 それが、二十五年ぶりに偶然再会した火村を彼女が覚えていた理由には…とうていならないような気がした。
 
「彼女…おれらよりも、年上なん?」
 
「ああ。確か…ふたつ上だったと思う」
 
「ふぅん」
 
 ぼんやりとした口調で相槌を打つ有栖の頭の中では、十一歳の少女が、九歳の男の子に恋心を懐くなんてことがあるのかどうかということを考えていた。
 
 ……ビミョウだ。
 
 まったく無いとも言い切れないが、幼少時代の二歳の歳の差はけっこう大きい。十一歳の少女からしてみれば、九歳の男などまるでお子様だ…と思うのだが…。九歳の頃には既に、火村はとんだマセガキに育っていたという可能性だって無いわけじゃない。…だって、火村なんだから……。
 
「おい、アリス」
 
 不意に、上の空でつらつらと余計なことを考えていた有栖を、ひどく不機嫌な火村の声が、現実に引き戻した。
 
「おまえ、くだらねぇ妄想を膨らましてるんじゃねぇだろうなぁ」
 
 含みのあるその物言いが、有栖の罪悪感をひどく刺激した。
 
「も、も、も、妄想ってなんやっ!失礼なッ!」
 
 あまりにも図星すぎて、不必要に動揺しまくり、吃音ってしまった。
 
 そんな自分を誤魔化すように、有栖は散かった部屋をうろうろしながら、ふと目に付いた年代物のオーディオへと手を伸ばした。
 
「ラ、ラジオでもつけるか。なんか、静かすぎて気味悪いわ、この部屋……」
 
 成り立っていない言い訳を口走りながら、有栖はステレオのスイッチを入れ、FM局のひとつにチューナーを合わせる。
 
 時々ノイズの混ざる音源は…ジャズだった。
 
「〃Come Rain, Come Shine〃か」
 
 何気無い口調で呟いた火村に、有栖は『なんやて?』と不思議そうな貌で聞き返した。
 
「この曲のタイトルだよ」
 
 新しい煙草に火を点けようとしていた火村はすこし伏せ目がちで、口許は何故か、微笑んでいるように見えた。
 
「ふぅ〜ん。『雨でも晴れても』ってタイトルなんか……」
 
「そうじゃない。この曲は、生温いばっかりな、ラヴ・ソングなんだよ。〃雨が降ってもお天気でもあなたが好きよ〃っていう意味なんだとさ。天気と同じで恋愛感情は移り気だけどっていう、揚げ足を取った歌だな」
 
「………………」
 
 暫く言葉を失ったまま火村を見ていた有栖だったが、軽い溜息を落としたあとで、苦笑いを浮かべた。
 
「揚げ足取りとか云うあたり、君ってほんまに恋心の判らん男なんやな」
 
 ガラス格子の立て付けの悪い窓の壁に凭れ掛けて座っている男の近くに近寄って、有栖は、何時洗ったのだか判らない、ヤニで薄汚れたカーテンを開き、まだ降り止まない雨を見上げた。
 
 まだ『Come Rain, Come Shine』は、ラジオから流れていた。
 
「明日が晴れても雨でも、幸せなら文句はないんやけどな」
 
「なんだよ、それ」
 
 笑いながら、火村はそんなふうに呟いた。
 
 ほんの少しだけ、二十五年経っても火村を一瞬のうちで思い出せることが出来た彼女を羨ましく思った。
 
 けれど、今は――――
 
 〃思い出す〃ということをする必要のない自分は、やっぱり幸せなような気がした。
 
 お日様が出ている日でも雨の日でも。もう一度彼女に、どんな天気の日でも好きだと思える誰かが現れてくれたら…と、人の幸福を望んだ。
 
 そんなふうに思えるのは、多分、自分がいま幸せだからなのだろう。
 
 ひとりでニタニタと薄気味の悪い笑みを浮かべる有栖に、火村はあからさまに嫌な貌をして、雨模様の住宅地を眺める有栖に、ぼそりと呟いた。
 
「確か今日は、阪神対中日戦だったよな」
 
 プロ野球にはまったく興味を示さないはずの男が、何故そんなことを突然云いだしたのか、有栖は一瞬判らなかった。
 
「甲子園球場じゃ、この雨なら中止だな」
 
「あーっ……!」
 
 そうだ。今日は、元中日の監督をしていた星ひきいる阪神が、監督の古巣である中日をギャフンと云わせる、阪神にとっては記念すべき試合日のひとつになるはずだった。
 
「あかん。雨はあかんでっ!おれ今日の試合、楽しみにしとったのにっ!」
 
「天気ばっかりはどうにもならんさ。ケセラセラ。なるようにしかならねぇな」
 
 ニタニタと嗤う火村に、有栖は本気でムカついた。
 
「火村ッ、おまえおれが哀しんでるのを楽しんでるやろ!」
 
「まさか」
 
 グッと腕を引っ張られ、膝立ちで窓の外を見ていた有栖の身体が、散かった部屋の畳へと雪崩れ込んでいった。
 
「退屈なナイター放送もなくなっちまって暇だろ?」
 
「ひ、暇っちゃ暇やけどぉ……」
 
 いきなりアップになる火村の顔を正視するのに、何故か今更ながらに照れまくった。
 
 軽く口唇が触れ、温みのある指先が有栖のTシャツの裾から忍び込もうとしてきて、ひどく焦った。慌ててその手を押し止め、有栖はそっと火村から離れて立ち上がる。
 
「……どうせなら、布団の上がええな……。ここ散かってるから、背中に本とかあたって痛いし、嫌や…」
 
 楽しみにしていた阪神の今夜の試合がなくなったからって、暇になったから火村と……なんていうのもなんだか違うような気もしたが……。
 
 いやまぁ……。火村がその気になっているのなら仕方がない。
 
 ……などと、真っ赤な貌でそんなことを考えていた有栖の様子に、火村はニタリと嗤った。
 
 ――――ポタン。
 
 ……え?
 
 有栖の旋毛に、何か冷たいものが落ちてきた。
 
「あ〜。とうとうきやがったな、この部屋も」
 
 火村の声と共に、有栖は天井を見上げた。
 
「あ…、雨漏り!?」
 
「この家も古いからな。婆ちゃんに、雨漏りの修理頼まれてたんだよ。暇ならおまえも手伝え」
 
「……雨漏りの修理……?」
 
 なんだか、想像と大幅に違わないか?そんなふうに釈然としないものを考えていた有栖に、火村は意地の悪い笑みを向けてきた。
 
「おまえ、何か別のこと想像してただろ」
 
「ち、ち、ちがっ、」
 
 うまく嘘がつけなかった。
 
「よしよし、判った判った。おまえがシタイコトは、雨漏りの修理が終わってからな」
 
「し、し、しっ、したくないっ!」
 
 なんか違う。絶対に嵌められたっ!
 
「ハイハイ。判ったから、それは修理が終わった後でな」
 
「だから違うって云うてるやないかっ!」
 
 有栖の叫びなどまったく相手にせず、火村は有栖を退けて、雨漏りがしてきたその場所へ、取り敢えずの灰皿を置き、床が濡れるのを防いだ。
 
「ほら。おまえもさっさと支度しろよ」
 
 放って寄越された雨合羽を握りしめ、有栖は思った。
 
 やっぱり、お天気は晴れに限る。
 
 明日こそ、晴れますように―――――。

 








[END]

■COMMENT■


 ■2003年の夏、お礼用に書いたSSです…。
 そのときはコピー本にしてお送りさせていただきました。
 これを書く前日、大阪にいました。
 阪神の優勝に向けてのフィーバー(苦笑)ぶりがあまりにもすごくてですね(笑)…。
 思わず思いついちゃったネタです。
 ■あたしはどうやら、SSだとちょっとほんわかした微妙にギャクで
 ラブっぽい火村さんと有栖を書いてしまう傾向にありますね…。
 長編や中篇だと、それなりにシリアスなのにね…。


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