手榴弾・擲弾・爆雷等−1
★日露戦争−急造手榴弾
日露戦争のうち、最大の攻城戦が戦われた「旅順攻囲戦」では、戦闘の必要に応じて各種の急造手榴弾が彼我で作製されて使用された。
日本側の、総使用数は約4500発と言われている。
左 三一式速射山砲藥筴改造手榴弾
左中 砲弾改造手榴弾
右中 砲弾改造手榴弾
右 空缶利用急造手榴弾
ロシア軍−空箱利用手榴弾
空箱に工兵用の「爆破藥」と「導火索(「導火線」の国軍名称)」を付けた手榴弾。
ロシア軍−砲弾利用手榴弾
野砲の藥筴を本体に利用したもので、雷管利用の引抜式点火装置を装備している。のちにこれを捕獲した国軍では、同様のものを模倣製造して使用した。
★明治四十年三月制定手榴弾
日露戦争で使用された「手榴弾(制式名称不明)」に改良を施して、明治40年3月12日に制定された国軍初の制式手榴弾。
40グラムの黄色薬を納めた鋳鉄製の弾体の頭部には、ブリキ製の「安全子」に守られた「撃身部分」と、弾体底部の木製の「木底」に投擲時の弾道安定と投擲者の握り手となる木綿製の「弾尾」が付随している。
撃身部分は「安全子」を外した後に誤動作で爆発がおきないようにゴムないしキルクの保護装置が設けられ、撃身の直下には起爆剤となる「雷汞」が「二十六年式拳銃」の薬莢を利用した「雷汞筒」に納められている。
この「明治四十年三月制定手榴弾」は、この形態をベースにして、大正3年5月18日(陸普第一四七一号)・大正7年3月23日(陸普第八五七号)・大正8年9月27日(陸普第三六六八号)・大正9年3月(陸普第一二六九号)の計4回の改正を受けつつ大正10年制定の「十年式手榴弾」の出現まで、通称「手榴弾」の名称で国軍で使用されたのである。
大正3年の「チンタオ出兵」の直前の5月18日に、「明治四十年三月制定手榴弾」は撃身を円錐形の形状にする小改正がなされる。実戦では台湾軍での治安戦と大正3年の「チンタオ出兵」で使用されている。
明治四十年三月制定手榴弾
「手榴弾」の使用方法は、「弾体」頭部の信管部分にあるブリキ製の「安全子(現在の「安全栓」・「安全ピン」に相当)」を取り外した後に、木綿製の「弾尾」を右手で握って、下から放り投げるようにして投擲する。携行方法は40発入りの「弾薬箱」を軍馬に駄載するか、輜重車に搭載し、兵員各自の携帯の場合は雑嚢に入れるか帯革に差し込んで携帯する。
明治四十年三月制定手榴弾 投擲状況
★明治四十年三月制定手榴弾データー
重 量 約730グラム
炸 薬 黄色薬
炸薬量 約40グラム
信 管 著発信管
威力半径 約3メートル