海軍特別陸戦隊−完全版

 

 今回の拙荊の愚稿でありますが、元来は昨年度に出版社より依託を受けている編集代行業者から、8Pの予定での原稿依頼を受けていたものでありますが、過日の先方よりの突如の事前無告知と説明皆無にての3Pへと文章を削除されたまま、書籍が出版されました。

 掲載されている文章は、付図の大部と文章の最後が削除されているもので、こちらの書きたかった大要を読者の皆様に伝えることもできず、やむをえずHP上にて「完全版(写真は、他の機会にも利用できるので、今回は割愛しております)」の公開と至りました。

 この「完全版」の掲載により、市井流布の小生の駄文の補助となれば幸いに存じます。

2661.6.23


●陸戦隊の沿革

 大日本帝国海軍というと連合艦隊に代表される「艨艟」や、航空部隊である「海鷲」のイメージが強いが、そのほかに「陸戦隊」とよばれる陸軍と同様に陸戦兵器を所持して陸上戦闘を専門とする部隊が存在したのである。

 国軍初の陸戦隊の活動は、日本最後の内戦である明治10年勃発の「西南戦争」の時であり、「西郷軍」の破竹の快進撃に対して、対応の遅れた「政府軍」は圧倒的勢力を持つ海軍艦艇での柔軟な機動性を活かして陸戦隊を各所に上陸させて、陸軍と協力のもとに大きな活躍をしているのである。

 陸戦隊編成に関する正規の法令は、明治16年12月発令された「陸戦隊編成」で、これによって各軍艦単位で兵員数20名前後の1個小隊の陸戦隊を編成することが規定されたのである。

 後の明治19年には、海軍省より「陸戦隊概則」が発令され陸戦隊の軍装が定められたほか、艦艇より編成する陸戦隊を「小銃」装備の「銃隊」と、「ボートカノン」とよばれる陸上戦闘への使用が可能な小型の艦載砲をもつ砲兵部隊である「砲隊」と、陸軍の工兵にあたる「土工機材」装備の「鍬兵」等に分類されることが規定されたのである。

 後に陸戦隊は大きな戦闘では明治期の「日清戦争」・「北清事変」・「日露戦争」、大正期の「チンタオ出兵」・「シベリア出兵」、昭和期の「滿洲事変」・「支那事変」を経て「大東亜戦争」へと日本の戦史と共に戦火を交えたのである。

 

●昭和期の陸戦隊の編成と教育

 昭和期に入ってからの「陸戦隊」の編成は、2度の「上海事変」で勇名を馳せた国際都市上海の租界警備のために編成された常設陸戦隊である「上海海軍特別陸戦隊」を除けば、任務や現状によってまちまちであるが多くの場合は中隊2〜4を保有する大隊規模の編成がほとんどである。

 「海兵団」での「陸戦教練」時の編成を例に挙げれば、指揮機関である「陸戦隊本部」の下に「銃隊」・「砲隊」・「付属隊」が編成される。「銃隊」・「砲隊」・「付属隊」をそれぞれ陸軍の組織で例えると、「銃隊」とは小銃装備の一般歩兵に相当するもので、「砲隊」は砲兵、「付属隊」は後方支援部隊で「通信隊」・「工作隊」・「運輸隊」・「医務隊」・「主計隊」に細分されるのである。

 陸戦隊の編成で陸軍と異なる点は、陸軍のような各々独立した相互支援体制を持たずに各陸戦隊が単体の軍艦のように編成・運用されている点である。

 

●陸戦隊中隊編成表の一例

区分

   構     成

合 計

中隊

中隊本部

中隊長    将校1名

付下士官  下士官1名

伝令      兵2名

将校1名

下士官1名

兵2名

計4名

第一小隊

指揮班

小隊長  将校1名

付下士官 下士官1名

伝令   兵2名

将校1名

下士官5名

兵42名

計48名

第一分隊

下士官   1名

兵    10名

第二分隊

下士官   1名

兵    10名

第三分隊

下士官   1名

兵    10名

第四分隊

下士官   1名

兵    10名

第二小隊

同  上

計48名

第三小隊

同  上

計48名

第四小隊

同  上

計48名

総 合 計

     将校    5名

     下士官  21名

     兵   170名

        計196名

 

 以下に、昭和5年9月25日から27日にかけて、神奈川県の辻堂で「連合艦隊」の兵員を陸に上げて「連合陸戦隊」を編成しての「陸戦訓練」が行われた時の編成表を挙げてみる。

 

●昭和五年連合陸戦隊編成表

区 分

 構 成

合 計

 

陸戦隊指揮官  将校   1 大佐

参謀兼副官   将校   1 大尉

軍艦旗手    准士官 1

本部付     将校  2

将校5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大隊本部

大隊長     将校1 少佐

大隊副官    将校1 大尉

指揮小隊長   将校1 少尉

分隊下士官   下士官2

列兵      兵16

将校3

下士官2

兵16

第一中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵16

将校5

下士官14

兵118

第一小隊

将校1 下士官4 

兵34

第二小隊

将校1 下士官4 

兵34

第三小隊

将校1 下士官4 

兵34

第二中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵16

将校6

下士官18

兵152

第一小隊

将校1 下士官4 

兵34

第二小隊

将校1 下士官4 

兵34

第三小隊

将校1 下士官4 

兵34

第四小隊

将校1 下士官4 

兵34

第三中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵16

将校7

下士官22

兵186

第一小隊

将校1 下士官4 

兵34

第二小隊

将校1 下士官4 

兵34

第三小隊

将校1 下士官4 

兵34

第四小隊

将校1 下士官4 

兵34

第五小隊

将校1 下士官4 

兵34

第四中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵16

将校6

下士官19

兵160

第一小隊

将校1 下士官4 

兵34

第二小隊

将校1 下士官4 

兵34

第三小隊

将校1 下士官4 

兵34

第四小隊

将校1 下士官5 

兵42

 

 

第一中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵12

将校6

下士官12

兵81

第一小隊

将校1 下士官2 

兵16

第二小隊

将校1 下士官2 

兵16

第三小隊

将校1 下士1 

兵7

弾薬小隊

准士官1 下士官5

兵20

第二中隊

 中隊長大尉

指揮小隊

准士官1 下士官2

兵12

将校6

下士官14

兵96

第一小隊

将校1 下士官2 

兵16

第二小隊

将校1 下士官2 

兵16

第三小隊

将校1 下士官2 

兵16

弾薬小隊

准士官1 下士官6

兵36

医務隊

将校1

下士官1 

兵3

将校1

下士官1 

兵3

主計隊

将校1

下士官2 

兵16

将校1

下士官2 

兵16

合 計

将校   46名

下士官 105名

兵   828名

総合計

979名

 

 これは、前表に見られるように、「陸戦隊本部」の下に1個大隊が編成され、「大隊本部」の下に、戦闘部隊である「銃隊」・「機銃隊」と、支援部隊である「医務隊」・「主計隊」よりなる「付属隊」が編成されている。

 海軍の陸戦教育は、海軍兵の初期教育機関である各「海兵団」での陸戦教育のほかに、陸戦の専門教育機関として「海軍砲術学校」での「陸戦教育課程」がある。

 支那事変の長期化による海軍の陸上戦闘部隊の大量整備の問題は、風雲急を告げる対米関係の悪化と伴って、必要不可欠の急問題となり、従来は横須賀の「海軍砲術学校」で行っていた陸戦教育をより専門の陸戦教育機関によって陸戦専門の海軍軍人を養成すべく昭和16年4月に陸戦と防空の教育を専門とする「館山海軍砲術学校」が開校して、陸戦要員の大量養成が開始されるのである。この時点において、従来は必要に応じて艦艇より人員を抽出して編成する陸戦隊以外は、「上海海軍特別陸戦隊」等の少数の常設陸戦隊を持つのみの海軍が、多量の陸戦部隊を持つようになったのである。

 ここで教育を受けて編成された多くの陸戦隊は、太平洋戦争が勃発すると、陸軍の要地占領と相成って海上部隊の洋上決戦と共に要地の確保に当たったのである。

 

●大東亜戦争と陸戦隊

 昭和16年12月8日、日本の運命をかけた「大東亜戦争」が勃発し、陸軍の快進撃と海軍艦艇・航空部隊の敵主力の籖滅と並んで、陸戦隊も要地確保のために太平洋の各地で勇猛戦闘に躍進したのである。

 作戦の第一段階が終了して、第2段階作戦への進展とミッドウェー海戦・カダルカナル攻防戦という戦局の攻勢から防勢への転移の時期を迎えて、広域な太平洋の戦場では陸戦隊は陸軍部隊と並んで、言語を絶する困難な状況の中で圧倒的な物量をもつ敵に対して果敢な防御戦闘を戦い抜いたのである。

 

●マキン・タラワ島の戦い

 海軍特別陸戦隊の戦闘の一例を、大東亜戦争での最大の激戦と米海兵隊に言わしめた「マキン・タラワ島」の攻防戦を例に挙げて述べてみる。

 帝国海軍が昭和17年に占領した南方の要衝「ギルバート環礁」は、中部太平洋をにらむ重要拠点であり、米軍は「ガルバニック作戦」の名称で「ギルバート環礁」の攻略を企てたのである。

 米軍は「ギルバート環礁」攻撃の1年前に情報収集の為に、「マキンコマンド」の名称で17年8月17日に海兵隊の「カールスン・レイダー中佐」指揮の特殊部隊220名を米潜水艦「アルゴノート」と「ノーチラス」に分乗して、マキン島を奇襲しているのである。

 当時のマキン島守備兵力は「金光久三兵曹長」指揮の73名の陸戦隊で、17日の早朝在留邦人よりの通報で敵襲を知った守備隊は「マキン・コマンド」に対して応戦するも、圧倒的な火力の差で46名の戦死者を出して主力が撃破されたため、密林に退避しつつ遊撃戦を展開して救援隊の到着を待つこととなり、翌日の救援の日本軍機の襲来のため狼狽した米軍は戦死37名と捕虜9名を出して撤収している。

 この「マキン・コマンド」の襲撃に衝撃を受けた軍部内では「離島防衛強化」の考え方が多数を占めるようになり、陸海軍は中部太平洋方面の各地に昭和18年9月より多数の守備隊を派遣することとなったのである。

 タラワ島の防衛の主力は「ベティオ島」に司令部を置く「柴崎恵次少将」指揮の「第三特別根拠地隊」であり少将は7月の着任以来、島内各拠点に張り巡らせた多重電話回線を用いて戦闘指揮所より各抵抗拠点を電話回線で連絡して、統一指揮による徹底した水際撃退作戦を計画していたのである。

 

●マキン・タラワ島守備隊兵力一覧表

島名称

部 隊 名 称

人 員

合 計

タラワ島

第三特別根拠地隊

佐世保第七特別陸戦隊

902名

1669名

2571名

ナウル

第六七警備隊

405名

405名

オーシャン

第六七警備隊分遣隊

371名

371名

アパママ

見張員

23名

23名

マキン島

第三特別根拠地隊分遣隊

第九五二航空隊基地員

第八〇二航空隊基地員

第一一一設営隊

243名

60名

50名

340名

693名

 

●タラワ島守備隊装備兵器一覧表

兵器種別

兵  器  名  称

保有数

重  砲

四〇口径安式二〇糎砲

五〇口径三年式十四糎砲

軽  砲

四〇口径安式八糎砲

九四式三七粍速射砲

四一式山砲

九二式歩兵砲

10

高角砲

四〇口径八九式十二.七粍聯装高角砲

八八式野戦高角砲

重機銃

九六式二五粍二聯装機銃

九三式一三粍二聯装機銃

九三式一三粍単装機銃

九二式重機銃

九二式七.七粍機銃

19

31

13

軽機銃

九六式軽機銃

九九式軽機銃

45

71

小  銃

三八式小銃

九九式小銃

56

3936

拳  銃

一四式拳銃

一番型拳銃

九四式拳銃

158

210

探照灯

九六式一五〇糎探照灯

ス式一一〇糎探照灯

九六式九〇糎探照灯

九三式三十糎探照灯

戦車・車両

九五式軽戦車

機銃車二型

九五式二型機銃車

九六式牽引自動車

弾薬運搬車

14

13

火炎発射機

九三式火炎発射機

一〇〇式火炎発射機

22

擲  弾

八九式擲弾筒

一〇〇式擲弾器

66

100

空中聴音機

九〇式空中聴音機

 

●マキン島守備隊装備兵器一覧表

兵器種別

兵  器  名  称

保有数

軽  砲

四〇口径四年式八糎砲

九四式三七粍速射砲

九二式歩兵砲

高角砲

四〇口径三年式八糎高角砲

重機銃

九三式一三粍聯装機銃

九二式重機銃

九二式七.七粍機銃

軽機銃

九六式軽機銃

九九式軽機銃

小  銃

九九式小銃

231

拳  銃

一四式拳銃

72

戦車・車両

九五式軽戦車

機銃車二型改一

弾薬運搬車

火炎発射機

九三式火炎発射機

擲  弾

八九式擲弾筒

 

 米軍のタラワ侵攻は昭和18年11月20日より開始され、21日に激しい艦砲射撃と爆撃の後に「ジュリアン・スミス少将」指揮の「第二海兵師団」18600名が強行上陸を敢行したのである。日本側の守備隊も米軍の上陸用舟艇に対して水際での激しい対着上陸破砕射撃で抵抗し、激戦の幕が切っておろされたのである。

 戦闘の様相は、我を凌駕する米軍の激しい砲爆撃により統一指揮のために敷設されていた電話回線が各所で寸断される結果となり、壮絶な敵弾の為に伝令の派遣も困難な状況で、守備隊は島内での抵抗拠点ごとの各個戦闘を行うこととなったのである。

 11月23日に敢闘を続けた守備隊の残存兵力約100名は、最後の突撃を敢行し玉砕している。生存者は人事不詳となった海軍17名と設営隊労務者129名である。

 マキン島への攻撃は、昭和18年11月21日より「ホーランドスミス少将」指揮の米国「陸軍第二十七師団」基幹の6500名が艦砲・航空支援のもとに上陸を開始し、守備隊は「市川中尉」指揮の「第三特別根拠地隊分遣隊」243名を核として必死の応戦を行い、島の東に退きつつ勇戦を続け、二十三日の午前4時に残存兵力30名が最後の突撃で玉砕している。生存者は海軍1名と設営隊労務者104名である。

 見張所のあるアパママ島への米軍の攻撃は11月20日より開始され、23日の攻撃に対して23名の守備隊は軽機関銃・小銃の射撃により80名からなる米攻撃部隊を撃退し、さらに翌24日の潜水艦「ノーチラス」搭載の14センチ砲と駆逐艦による援護射撃を伴う総攻撃を撃退するも遂に力尽き、25日の早朝アパママ島守備隊は島中央部の掩蓋内に集合して総員自決している。

 米海兵隊はマキン・タラワ島でのあまりに多い自軍の損害に、従来の上陸作戦方式を改めてより確立した作戦方式を考案する結果となり、日本側でも激戦の戦訓は無電により海軍はもとより陸軍にも伝達され、後の島嶼防御戦闘での貴重な戦訓となっている。

 

●本土決戦

 昭和19年の「絶対国防圏」の瓦解と「比島決戦」の敗退によって、日本は日本本土を最後の砦として戦う「国土決戦」の意を固めたのである。

 陸軍の本土決戦準備と併せて、海軍は航空・水上・水中の特攻による敵軍との最後の決戦体制を整えると共に、既存の海軍兵力のすべてを各鎮守府・警備府単位で陸戦隊に改変して、最後の決戦に備えたのである。

 各鎮守府の隷下に「連合陸戦隊」が設けられたほかに直轄部隊として「戦車隊」までもが編成され、また「震洋」・「海龍」・「伏龍」等の「特攻兵器」を装備する特攻隊の基地隊も千名規模の大隊編成を採っており、特攻攻撃の終了後は近隣部隊と共に陸戦に参加する訓練がなされていたのである。

 従来陸戦隊の装備兵器は陸軍から供与される兵器が主であったものの、国土決戦という緊迫した状況下では各陸戦隊は慢性的な兵器不足となり、海軍工廠・海兵団・鎮守府単位で急造兵器を作製して部隊に配備したのである。

 

●国土決戦時の陸戦隊動員計画

区  分

部 隊

人 数

横須賀鎮守府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

4個陸戦隊(12個大隊)

3個陸戦隊(5個大隊)

予備隊

1654名

17264名

8681名

2300名

呉鎮守府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

2個陸戦隊(6個大隊)

1個陸戦隊(4個大隊)

予備隊

1675名

8681名

6319名

2090名

佐世保鎮守府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

2個陸戦隊(9個大隊)

1個陸戦隊(3個大隊)

予備隊

1654名

13022名

4341名

1470名

舞鶴鎮守府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

1個陸戦隊(3個大隊)

1個陸戦隊(3個大隊)

予備隊

1654名

4341名

4341名

770名

大阪警備府連合特別陸戦隊

1個大隊

予備隊

968名

180名

大湊警備府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

3個陸戦隊(9個大隊)

1個陸戦隊(3個大隊)

予備隊

1654名

12932名

4341名

1470名

鎮海警備府連合特別陸戦隊

連特司令部直轄部隊

1個陸戦隊(3個大隊)

1個陸戦隊(2個大隊)

予備隊

1654名

4341名

3115名

770名

総  計                       

102790名