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 2021.03.16(最後の撃墜王)

      春のお彼岸が近づくにつれて随分暖かい日が増えて来た。オレが毎朝走る道沿いの三本桜も今日三輪ほどが咲いていた。^^
        (春は嫌いだが、桜の花はイイなぁ^^;)


         ところで、先日北海道へスキーに行った折に千歳空港の書店で一冊の文庫本に目が留まる。
      碇 義朗著
「最後の撃墜王」紫電改戦闘機隊長 菅野 直の生涯である。(かんの なおし、と読む)
   
      オレは下手なCGで菅野大尉搭乗機の紫電改を作ているし、オンラインのコンバットフライトシミュレーションゲームでは散々紫電改で飛び回ったの
       で、菅野 直大尉の名前は以前からよく知っていたが、その生い立ちから戦死された24歳までの短い生涯の事は殆ど知らなかった。

         菅野 直 大正10年10月13日、当時父の赴任地であった朝鮮の竜口(現北朝鮮平壌付近)で生まれる。その後、直3歳の時父母の生まれ故郷で
       ある宮城県仙台の近郊枝野村(現角田市)に家族全員で引き上げ移り住む。
         少年期はヤンチャで負けず嫌いのガキ大将であったが学校での成績は常に一番で、旧制角田中学校を卒業後は難関の江田島海軍兵学校へ入校
       し軍人としての道を進む事となる。

         旧制角田中学(現角田高校)時代の彼は「石川啄木」をこよなく愛する文学少年だったが、海軍戦闘機パイロットとなった後年の勇猛果敢な彼との
       ギャップに目を見張る思いがする。

         昭和16年11月海軍兵学校を卒業する。更に昭和17年5月少尉任官と同時に霞ヶ浦航空隊飛行学生を命ぜられ、海軍士官搭乗員としての第一歩
       を踏み出す。 幼いころから俊敏で運動神経や反射神経も抜群の彼は戦闘機パイロットとしての優れた適性を有していたが、しかし彼自身は軍人より
       も文学を志したかったのでは・・・。

         昭和19年2月戦況逼迫に伴い錬成中の菅野たち三十八期飛行学生も訓練を短縮して実戦部隊への配備が決まり、同年5月零戦部隊の指揮官とし
       てテニアン島に進出、さらに同6月パラオ諸島アイライ基地に移動して、主にビアク島から飛来する四発大型爆撃機B24「リベレーター」の邀撃に忙
       殺される事となる。
      
         当時のB24「リベレーター」を含む米軍重爆撃機は重装甲と多数の防御機銃による強力な編隊火網で撃墜は非常に困難であった。
         この少しあと有名になる菅野の「背面垂直降下戦法」はこの時考案されたものであり、その後の紫電改による本土防空戦ではB29邀撃にも極めて
       有効で多数の撃墜破を敵に与えた。

         この頃の菅野の零戦には隊長機を示す黄色の帯線が画かれていたので、アメリカ軍パイロットたちから「イエローファイター」と恐れられていた。
         その後、昭和19年7月菅野はフィリピンのダバオに移動し比島攻防戦を戦い抜き、11月までに敵機個人撃墜数30機を数える。

         昭和19年12月、菅野は
第343海軍航空隊 戦闘301飛行隊 隊長として愛媛県松山基地に着任する。この343航空隊は源田 実大佐発案によ
       る、各方面の生き残り熟練パイロットたちを搔き集め、最新鋭戦闘機「紫電改」を装備した当時としては日本海軍最強の戦闘航空隊であった。

         昭和20年3月19日、呉軍港を空襲する米機動部隊艦載機の大編隊を松山基地上空で捕捉、「紫電」「紫電改」稼働全機72機で迎撃し敵機撃墜
       52機の大戦果を挙げる。因みに343航空隊の未帰還機は15機であった。この日の菅野はグラマン1機を撃墜したあと他のグラマンからの攻撃を
       受けて愛機に火災が発生、顔に火傷を負いながらも辛うじて落下傘降下し生還する。

         その後は沖縄戦に於ける特攻機の前路掃討や北九州地区に襲来するB29の邀撃のため、九州各地の基地を移動しながらの戦いが続く。
       同年8月までに敵機撃墜42機(内共同撃墜24機)を数える。この中には大型爆撃機B29やB24などが多数含まれる。尚、比島方面での撃墜数30
       機を加えると実に72機撃墜の多きに及ぶ。

         そして運命の日を迎える。この日菅野大尉を隊長とする20機余りの「紫電改」は九州南方屋久島上空の高度5.000m付近で5機のB24「リベレー
       ター」を発見する。菅野編隊は直ちに接敵を開始、何時もの如く高度差約1.000mで反航しながら菅野機を先頭に攻撃を開始する。
         しかしその直後
「ワレ機銃筒内爆発ス。ワレ、カンノ一番」と無線電話が入り、その後菅野大尉は行方不明となる。

         空戦終了後、集合空域に僚機が集まり、島影などを燃料の続く限り捜索したが菅野機を発見することは出来なかった。
         菅野 直は優秀な指揮官だけに留まらず、ひとりの戦闘機パイロットとしても非常に優れた技量を持ち、多くの部下から慕われ 、
       尊敬された男であった。

         昭和20年8月1日屋久島北方上空、菅野 直海軍大尉 24歳 未帰還。
         終戦の僅か2週間前であった。
      

      
ここで菅野大尉の「背面垂直降下戦法」を画像とCG動画で 紹介しよう。

         戦闘機による大型機攻撃法は高度差約1.000mで反航し、敵編隊の真上辺りで切り返して敵の後上方から射撃を加えるのが一般的な攻撃法で
       あったが、これでは攻撃開始前に敵編隊の濃密な防御火網に捉えられて被弾する確率が非常に高くなる。

         そこで菅野大尉は高度差約1.000mで反航し、敵編隊を右約45度下方に見た時点で切り返して背面となり、垂直降下で接敵し攻撃する。
       離脱はそのまま敵機の直前方を掠める様に高速で擦り抜け、敵機の射程外で機体を引き起こす。この攻撃法は敵の防御砲火の死角となり被弾の
       確率が極端に低くなると共に上手くすれば一撃で撃墜する事も可能である。

         しかし、この戦法を実行するには並外れた操縦技術と超一級の胆力(度胸)が必要で、一瞬のタイミングのズレや気後れ等で空中衝突を起こしかね
       ない大変危険極まりない戦法なのである。

   

  
菅野大尉「背面垂直降下戦法」 動画( 完成しました)