戦艦大和

  1944年当時 主要諸元
  全        長 263.0m
  最   大   幅   38.9m
  満載排水量 72,809トン
  軸   馬   力 153,553馬力
  最 大 速 力 27.46ノット
  主         砲 46cm(18.1インチ)*9門 3連装砲塔
  副         砲 15.5cm(6.1インチ)*6門 3連装砲塔
  高   角   砲 12.7cm(5インチ)*24門 2連装砲架
  高射機関砲 25mm機関砲*113門 3連装砲架
  航   空   機 水上偵察機6機
  乗 員 定 数 2,500名(1941年就役時)


  「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花 本居宣長

  この短歌の一節
大和心」は我々日本人の心に永遠に受け継がれて行くものだと私は信じている、戦艦「大和」と共に・・・。
   
  昭和12年11月4日、戦艦「大和」は呉海軍工廠で起工された。そして4年に及ぶ困難な建造期間を経て昭和16年12月16日に就役する。
    世界最大にして最強の戦艦として登場した「大和」だったが時既に遅く、海の戦いの主役は強大な戦艦から航空母艦へと移っていたのである。
  ミッドウェー海戦後「大和」は南太平洋における主要な戦いに加わる事も出来ずに、日本海軍根拠地トラック島での停泊が長期間続く事になる。

  トラック島では「大和ホテル」などと揶揄され、「大和」も乗組員もさぞかし悔しかったであろうがしかし、トラック島の連合艦隊には「大和」を出撃させるだ
 けの燃料が既に無かったのである。

  昭和19年10月20日、米軍は強大な戦力でフィリピン・レイテ島へ上陸を開始する。連合艦隊は直ちに「捷一号作戦」を発動、「大和」「武蔵」を基幹と
 する栗田艦隊第一遊撃隊は10月22日レイテ湾へ殴り込みを掛けるべくブルネイ泊地を出撃する。
    10月24日から米機動部隊の執拗な空襲が始まり、姉妹艦の「武蔵」が魚雷20本、爆弾17発を受けてシブヤン海に沈没する。

  栗田艦隊は大きな損害を受けながらも諦めず、レイテ湾直前まで進撃して大いに米軍を慌てさせるが、何故か急遽反転してレイテ湾を離脱する。
  世に言う「栗田艦隊謎の反転」である。「大和」はこのサマール島沖海戦に於いて46センチ主砲で敵の護衛空母群と駆逐艦群に砲撃を加えた。
  「大和」は46センチ徹甲弾合計104発を発射し、護衛空母1隻、駆逐艦1隻を撃沈した。これが「大和」にとって最初で最後の砲撃戦であった。

  昭和20年3月26日、沖縄戦が始まる。雲霞の如く襲来する米機動部隊に大本営は「天一号」作戦を発動し陸海軍の特攻機による攻撃を開始する。
  昭和20年4月6日、「大和」もまた海上特別攻撃隊として沖縄を目指す事となり燃料と弾薬を満載し、瀬戸内海の徳山沖を抜錨する。

  第2艦隊「大和」に座乗する指揮官伊藤整一中将は「大和」特攻作戦には終始反対の立場であった、断腸の思いであったろう。
  「大和」に随伴する第2艦隊の陣容は軽巡洋艦「矢矧」と第2水雷戦隊「雪風」を含む駆逐艦8隻で、これが連合艦隊最後の出撃であった。
  
  4月7日、12時20分米機動部隊攻撃機第1波が「大和」に襲いかかる。そして午後2時23分までに合計3波、延べ300機の攻撃で爆弾7発以上魚雷 
 13本以上を被弾し、「大和」は船体が90度横転したのち大爆発を起こし轟沈する。

  戦艦「大和」は日本海軍崩壊の象徴となった沖縄特攻「天一号」作戦において、2.498名の将兵と共に北緯30度40分、東経128度3分、九州南方
 坊ノ岬沖90海里に眠っている。