格納庫
2013.03.29(弟へ・・・)
オレには弟と妹が居る。三人兄弟だ。
妹は近くの町へ嫁いで、いつも忙しく愚痴ばかりこぼしてるが結構幸せに暮らしてるようだ。
一つ違いの弟は東京で、美人の出来た嫁さんと二人で理容店を経営してる。大したモンだぁ・・・。
この弟にオレはずうっと謝りたかったことがある。
弟は生後一歳になった頃、当時流行ってた小児麻痺に感染して左足が全く動かなくなった。まだ若かったおふくろは弟を背負い俺の手を引いて
大きな街の病院まで気が違ったように毎日通た。その頃のオレは二歳を過ぎたばかりだったが今でもハッキリと覚えている。
何にも解らないオレは病院の帰りにおふくろがいつも連れて行ってくれるうどん屋に行くのが楽しみで、弟のことなんか全く気に掛けていなかった。
二歳くらいだから致し方ないと思うかも知れないが、今思うと情けないアニキだ・・・。
当時はうちも貧乏だったから今みたいに子供の医療費は国が負担するなんてナイ時代で、おふくろも随分苦労したろうと思う。
たぶん大した治療も受けることが出来ずに、おふくろもオヤジもそしてオレの大好きなばあちゃんも辛かっただろうなぁ・・・。
でも一番辛かったのは弟だよ。
弟は小学一年生になってオレと同じ小学校に通い始めた。低学年の頃はオヤジが自転車に乗せて毎日連れて行ってたが、帰りはどうしてたんだ
ろうか全く記憶にない。そのころの弟は美人のおふくろに似て可愛い子供でオレと違って勉強も良くできた。しかし、左足は相変わらず麻痺したままで
成長が遅れて腕くらいの大きさしかなかった。時々風呂で見て、子供心にも辛かった。
そんな弟はオレが友達と遊びに行く時には一緒に連れてけって、駄々こねるんだ。オレは一緒に歩けないそんな弟が疎ましくてな、よくウソついて
弟をほったらかしにして遊びに行ってた。本当にバカなアニキだったよな・・・。自分のことしか考えてない・・・。すまんかったなぁ・・・。
遠足の時にはおふくろがオレと同じ弁当をこさえてさぁ、小さなリュックに入れて弟に持たせるんだ。でもみんなと一緒に遠足にはついて行けない
から、ばあちゃんがうちの裏山に連れて行ってやるんだ。そこで一人弁当食べて帰るんだよ。今思うと涙が出るぜぇ・・・。
そんな弟がいつの頃からか左足をかばうように杖をついて歩くようになった。棒キレを身体の前で斜めに突いて勢いよく走ることも出来るんだ。
左足が麻痺してるだけで元々運動神経は素晴らしく良かったのを覚えている。片足でよく柿の木に登ったり屋根に登ったりしてたよなぁ。
時々遊びで野球をやってたが、弟もオレと一緒にやるんだ。バッターボックスでは麻痺した小さな足を踏ん張って両足で立つんだよ。
そしてピッチャーからの球を上手く打つんだ。打つと同時にオレが一塁側のすぐ近くから杖を弟に投げるんだ。それをビシッと受け取ると弟は
もの凄い勢いで杖を突いて一塁へ走る・・・。結構速いんだよ。・・・でもその手のひらには大きな多古が出来てたなぁ。
オレが小学四年生の頃からはオヤジの大きな自転車が使える時は二人乗りして学校へ通ったモンだ。雪の降った日の橋の坂道は恐かったなぁ。
弟が中学生になってからは殆どオレは弟の麻痺した足のことは気にしなくなっていた。弟はどんな所へでも一緒に来て遊ぶし、何をやらせても
俺たちと同じように、いいやそれ以上に上手くやるんだ。しかし、十分ではないにしろ今みたいに身体に障害のある人への配慮がある時代では
なかったし、ましてやアニキのオレも弟の杖の代わりになるようなことを何一つしてやろうともしなかった。
・・・でも、そんな弟は何時も明るくて元気だったんだよ。
しかし、身体のハンデは厳然としてあったのだから、きっと辛い思いも沢山してきたことだろう・・・。すまん・・・。
中学を卒業すると弟は「手に職を付けるんだ」と小倉の理容学校へ住み込みで通い始めた。出来が良かった弟をオヤジは高校へ進めたかったん
だろうがそれを弟は断った。「誰にも後ろ指をさされず自分の腕だけで生きて行く」たぶんそう考えたのだろう。オレとは出来が違う・・・。
そんな弟は自転車にも乗れたんだぜ、片足で・・・。時々理容学校のある小倉北区から田舎の家まで自転車で帰ってきてたよ。片道60キロメートル
はあっただろうか、片足だけでペダルをこいで半日くらい掛けて帰ってくるんだ。本当に凄いヤツだよ弟は・・・。
弟が二十歳を過ぎた頃、突然「東京で働く」と言い出して、
何の伝手もなく単身上京したんだ。知り合いも全く居ない、働く所も住む場所も全く
決まって無いんだよ。勿論不安はあっただろうが、このまま田舎で埋もれたくはなかったんだろうか・・・。凄い男だよ弟は・・・。
後で聞いたことだが、おふくろとオヤジには心配掛けまいと「理容学校の先生から紹介状を貰ってる」と嘘で安心させて上京したんだ。
東京に着いたその日に痛い左足を引きずりながら、新宿や渋谷、池袋、上野の理容店三十軒以上を飛び込みで回り、就職を頼むが全て断られる。
本当に辛かっただろうな・・・。そして疲れ果てたその日の夜、最後に訪れた浅草の理容店のご主人に助けられて、やっとそこで住み込みで
働くことができるようになったんだよ。よかったなぁ・・・。
それから浅草で何年も辛抱して、理容学校へも通い始めた。そこで今の綺麗な嫁さんと知り合い、結婚したんだ。
「イイお嫁さんが来てくれたよねぇ」って、
死んだおふくろが一番喜んでたよなぁ。
人に言えない苦労もいっぱいあっただろうが、二人で力を合わせて東京で自分の店を二軒も持つことができたし、三人のイケメンの子供にも
恵まれたし、今は可愛い孫達に囲まれて幸せだろう・・・。
しかしそれは不自由な足を引きずりながら、どんなに辛いことがあっても「何
くそっ」て、自分一人で歩いてきた結果だと思うよ。
オレはそんな弟のことを誇らしく思う。
お前のことを何時も気に掛けてたおふくろやオヤジそしてばあちゃんが一番喜んでるよ、きっと・・・。
オレは身体の不自由な弟をナンにも庇ってやることができなかったダメなアニキだ・・・。許してくれ。
弟へ・・・。

|