18 to 36 (2012/10/28)
 大学に入学した年の、少し蒸し暑くなりかけた頃のある日の夕方、サークルのボックスに行ってみると、ひとり酒井がいた。まだ青雲荘に移る前の、某劇団との共用だったボックスである。やあ、と声を掛けると、やあ、と返事をしてきた。お互い暇だったわけだ。暇だったので、ねえ、試しにパチンコにでも行ってみないか、と誘った。で、勝っちゃったらその金で飲もう。ああいいよ、と酒井は言った。

百万遍のパチンコまで自転車行き、1000円ずつ玉を購入し二人並んで打った。実は、パチンコなんて、私も酒井も普段はやらない。そういうときに限って勝ってしまうのが賭け事である。5000円ぐらいにしかならなかったが、見事に飲む口実ができた。日本酒とつまみを買い、ボックスで飲みながら一晩中中身の無い会話を散々した。こんなことをするのはお互いに暇であったからであり、この日から私と酒井は中身の無い会話をする仲になった。

 酒井は真摯な人間である。人がやりたがらない仕事を自ら引き受ける。そうしないと気が済まない質なのだ。サークルの現状と行く末を案じ、常に周囲を気にかけ、間違ったことには抵抗を辞さなかった。サークルの良心と言われた。私はいい加減な人間なので、酒井は偉いなあ、と思い、私は馬鹿な人間なので、そもそもサークルついてさほど深く案ずることさえ無かった。こんな私であったので、私の愚かな行動を酒井はよく叱った。酒井に言わせれば、私も酒井によく説教をしていたそうだが、そのような記憶はあまりない。

 音楽の趣味は幾分共通するものがあり、いろんなバンドやらユニットを一緒にやった。慣性モーメンツ、ローシェ、テラコッタ、MATMAT、こたつでみかん、f.u.n.k.、他結婚式バンド多数。一緒に活動するものが多かったのは、音楽的趣味よりも酒井と何かをしたかったからだったのかもしれない、と今になって思う。

 お互いの下宿はそれなりに近かったので、例会とその後の飲み会が行われるA号館123号室から、もしくは当時の溜まり場であった内藤家から、二人で一緒に帰ることが多かった。二人の帰途の分岐点が白川通り今出川の角にある京都銀行銀閣寺支店前だった。信号を渡って京都銀行の前で、なんとなくそこで自転車を降り立ち止まってよく話をした。ただ、何の話をしていたのかはあまり覚えていない。その年頃の男子が思い悩むようなことだったり、もしくは例によって中身の無い会話に明け暮れていたのであろう。

 ある寒い冬の日の夜、外を見ると見事に雪が積もっていた。私は大はしゃぎで酒井に電話をした。おい酒井、雪がすごいぞ、今から外に出てみようよ。北陸出身の酒井にとってみれば雪なんて珍しいものでもなかったと思うが、寒い中わざわざ京都銀行銀閣寺支店前まで出てきてくれた。一面真っ白だよ、何だかいつもより静かだよ、車道がどこまでなのかわからない、道がすげー広く感じる、とやたらにはしゃぐ私を、酒井は呆れながらも微笑ましく見ていた。

 大学卒業後はお互いの住む場所が離れてしまい、会う機会はめっきり減ってしまった。それでも最初の数年は酒井がわざわざ近くまでやってきたりして年に数回は会う機会があったが、それぞれだんだんと忙しくなり、会うこともままならなくなったのは当然の成り行きではあった。

 私はおおよそ半年に一度ぐらいの頻度で酒井に電話をしていた。用事があったわけではない。ふと、電話をしてみようかなと思って。ハイテンションで話しかける私に酒井は困惑をしつつも相手をしてくれた。そしていつもどおり中身の無い会話を繰り広げる。

 最後に電話をしたのは、それでも一年ぐらい前のような気がする。酒井も忙しかったようではあるが、私も余裕が無くて電話をする気にならなかった。  電話をかければ酒井を繋ぎ止めておけたのではないか、と思う。しかしそれ以上に思うのは、また電話をかければ何事もなかったかのように酒井に繋がるんじゃないか、ということである。

 そろそろ、認めたほうがよいのかな。  まだ迷っている。


戻る。